第三章 学士マルセル・シュウォッブ

 1885年から1886年にかけて、召集前入隊を志願したマルセル・シュウォッブは、ヴァンヌ*1の第35砲兵連隊において兵役に就いた。

 この兵役生活の想い出は、『二重の心』のここかしこに容易に見出つけだすことができる。解き放たれた激しい情動を彼に教えたのはじつにこのときの経験であった。彼は勝手知ったブルターニュの土地で自らを鋳直し、また、夢を追って街道を流れ歩くガーヴルの森の幼い〈家出娘〉*2や、林檎酒の椀を傾ける船乗りたち*3や、沿岸を警備する税関吏たち*4に出会った。J・F・マリー・ポデール*5は、どんちゃん騒ぎに興じて夜間点呼に姿を見せないこともしばしばで、しょっちゅう営倉につながれていた。仲間の喇叭手ギットーは、壁を飛び越え兵営を抜け出した。彼らを友としたマルセル・シュウォッブは、野営地に向け連隊が出発する際、道連れに徒歩で行進するのを余儀なくされた。

 《好漢ポデールは放浪の生活を送ってきた。彼は街道を靴で歩き回り、寝る時は溝の中に頭隠して尻隠さず。食べるのは少しばかり、何だって口に入れた。時には立ったままで食べたし、まったく飲み食いしないこともあった。なあ新兵、と彼は言った。流れ者にはツキがねえよ。今じゃあ鉄道屋がみんなを客車に乗せて運んじまって、野次馬連中は田舎見物になんか来やしねえ。俺も何か商売でも始めなきゃな。あの娘が屋敷奉公を終えたら、家馬車を手に入れるんだ……》。そしてポデールは、どこで覚えたのか知らないが、〈フートロー〉というひどいゲームの遊び方をシュウォッブに教えたのだった。

 マルセル・シュウォッブはポデールと一緒にいたそのブルターニュ娘と近づきになった。頬骨の高い、ほつれ髪の、背の低い娘だった。彼らはルグラ小母さんの店の豚を眺めながら、絵付けした陶器の椀で林檎酒を飲んだ。このポデールという男は、しじゅう縁無しの軍帽を目深にかぶり、兵営の雑役で手押し車を押していたが、ある晩放浪生活の夢を実現することになった。彼はマルセル・シュウォッブに100スーをねだり、それを手に脱走したのだ。その後、シュウォッブがこの良き相棒に再び出会うことはなかった。

 砲兵のマルセル・シュウォッブはまた、バデールの下方でモルビアン湾へと突きだした岬の突端まで馬を追い立ててやって来る*6。彼は修道士島と、渡し守と、結婚相手を見つけるためにアルス島へ赴く少女を目にする。彼は彼女と言葉を交わし、荷物の包みをサーベルの先にぶら下げて肩に担いでやる。そして彼女はサン=タンヌ=ドーレの乞食たちと暮らした日々のことを語り出す。

 また、同じ湾に沿ったナヴァロ港で出会った乾物屋の老人から、マルセル・シュウォッブはある義勇兵の話を聞いた*7。アンジェール修道女の物語*8に描かれた病院は、ヴァンヌにある。《街の壁は長くつづき、先細りの港は銀のナイフの刃のようだった。その向こうには入江の傍らのポン=ヴェール地区、そしてコンロー地区の繁った樹々が、背景の空に押しつけられた茶色い染みのように見えた》。さらに、サーブル街道沿いでマルセル・シュウォッブが見かけた石切り場では、アイスキュロス風の荒事が繰りひろげられる*9

 

 官能の目覚めを、生の呼び声をマルセル・シュウォッブが真に理解したのはこの連隊でのことだった。この頃彼はまた、船乗りたちや娘たち、そして安酒場を描いた写実的な詩をものしている*10

 

   べとつく陰が部屋の隅まで満ちてゆき

   ねばつく小蠅がパン切り板を覆う

   嵩張る毛布の下、二人の兵士は眠る

   新入りの輜重兵、そして年老いた同僚

 

   ここかしこ剝がれた壁に走る傷は

   大きな黒い蜘蛛の巣のよう くるくる巻かれたひとひら

   教練用ハンカチーフ*11の白と黒

   おろしたての筒帽を兎の耳と飾り立て

 

   扉口に姿を現した伍長の靴が蹴飛ばしたのは

   ガラガラ響く空っぽの飯盒

   男たちは目を覚まし寢床でもぐもぐと呟く

 

   伍長は手探りで板の寢床に横たわり

   手足を投げだし泥のように眠る

   重い身体の下、寢床の枠を軋ませながら

 

 マルセル・シュウォッブがいくつかの写実的な作品を、フランス北部の〈道化歌〉*12に似せた詩の形式で書いたのも同じ頃のことだった。この〈道化歌〉はヴィヨンにも影響を与えたもので、後にシュウォッブはそれらを蒐集することになる。

 おそらくマルセル・シュウォッブは、この手の作品を詩集に編もうと考えていたのではないだろうか? 私はこれらの奔放な詩を『赤いランタン』*13の総題のもとに集めた清書原稿を発見した。そこには自分の名を織り込んだ献辞が付されている*14

 

   勇猛なるわが兄弟、隠語の使い手たちよ

   貴兄らにこの紙片を献げよう

   でっかい酒杯を傾けて

   楽しい騒ぎといこうじゃないか

   耳の穴かっぽじって目ん玉開け!

   お代は格安、最高だ

 

   拳にナイフ、腹には拳銃突きつけられて

   かくて絶体絶命の危機

   ほら、死神があんたを攫ってゆくぞ

   果報者の呑兵衛どもよ!

   とんまな良心なんか忘れちまえ

   したたか呑もうぜ、歌声浴びて!

 

 言うなればこれはヴィヨンへのオマージュである。盗賊団を主役とした残虐で猥雑な場面の数々が、〈赤いランタン〉亭*15と、加えて居酒屋〈ダンス酒場の親父〉*16で繰りひろげられる。マルセル・シュウォッブはその中に、屑拾いや警察のガサ入れ、ワイン商人や水死体の引き上げ人夫を描いた。また、あるバラードの中では、娼家の窓辺で首を吊られたジェラール・ド・ネルヴァルを描き出している*17

 

   黄昏のか暗き魔の衢に

   アンダルシア女のまなざしを燃やすおまえが

   隠し言葉でおれに愛を囁いて

   それがためおれは吊られたのだ、禍いの醜女よ!

   もの憂げにおまえを愛撫するあの女衒

   やさしげな顔でおまえを誑しこむあの情夫が

   おまえの貞潔の代償におれを吊るしあげたのだ

   おれはのたうち死に喘ぐ、おまえの赤いランタンの下で!

 

 見てのとおり、ここに用いられた言葉は非常に凝った博識なもので、ヴィドック*18やラスネール*19、そしてまた宗教改革期の隠語がほとんどどの言葉にもちりばめられている。

 

 マルセル・シュウォッブがまだ数年の在籍期間を残していたルイ=ル=グラン校に復学生として戻り、師範学校の受験に備える頃には、彼は風変わりな端倪すべからざる青年、その辛辣で厭世的かつまばゆいほどの天才で友人たちに畏怖の念を抱かせる存在となっていた(ダニエラからの愛の手紙の一節)。彼はマルティアリス*20、学校のリベルタンであった。彼の書く詩、頽唐期ローマのそれに倣った自由な、そしてしばしば完璧な詩が記された紙片を友人たちは回し読みした。その作品にあえてケチをつけられる者はなかった。皆は彼を心底尊敬していた。彼はマルレ氏とアッツフェル氏の授業に加えて新たな学説を教えられるほどの才人で、教授たちの手ぶり口ぶりを真似て、様々な話をつけ加えることもできたのだ!

 とりわけ1888年には、このサント=バルブの復学生マルセル・シュウォッブは無数の詩を書いた。間違いなく、それらは十四歳の頃の作品と較べれば力強く巧みさを備えていた(彼は二十一歳になっていた)。定型を踏まえたソネットはエレディアのそれや、シュリ・プリュドム*21の優美な小品を思い起こさせるものであった。とはいえ、それらの詩からもっともよく伝わってくるのは、アレクサンドリア派詩人たちの享楽的な頽廃であり、あえて言うならば、若い同級生たちを感嘆させようとする年長者の作物だった。

 

   楽園の花の盛りの汝が唇は

   わが手の投げる口づけの的

   命果つるまで我は熱望に身を焦がさん

   汝が甘き言の葉を慰み草に*22

 

 ボードレール流の享楽の粗描がここにはみとめられる。マルセル・シュウォッブは娼家の女たちの愛を、苦く洗練された肉体的な官能とともに歌いあげる。

 

   おまえのあえかな唇は薔薇色のひだ

   絹のかんばせに花開く……*23

 

 しかしながら、マルセルシュウォッブの詩は詩人の作というよりも手練れの名人芸というべきもので、脚韻はきっちりと踏まれ、確固とした強弱が繰り返されている。

 

   満足顔の船乗りは、テーブルのうえ肘をつき

   舌に甘き美酒に夢見心地

   店主の注ぐブリキの大杯を手に握り

 

   甲板員のかたわらに転がり出でたは

   油まみれの虫食いだらけ、この安酒場の階段を

   すべって落ちた、赤い顔したおさげ娘*24

 

 高踏派に倣って、マルセル・シュウォッブがとりわけ重んじたのは押韻だった。

 

   研ぎ出したひとひらの詩を僕は絶え間なく磨きあげる

   ランプのほの明かり、その焔の輝きが

   韻を揃えた言葉を金色に染めるもと

   暁いろの光輪にいまひとしおの艶を重ねる

   韻よ、おまえはおもねることを知らない

   瀟洒閨房ねやにお前を探し求めるのはこの僕だ

   《歎けとて何かはせん、開けよ汝が玉くしげ!》

   おまえの宝玉は閉ざされた匣に秘められて

   ムーアびとの巧みな指も、その掛け金はずすことはかなわない*25

 

 またときには、マルセルシュウォッブは未来の散文詩人を予感させる作品を残した。

 

   青い光は過ぎ去った

   行こう、白い光の方へ

   可愛い人よ、君は退屈してるのかい?

   僕らの身体には羽がある

 

   青を追われた僕たちは

   この羽をひろげよう、恋人よ

   早船のように渡ってゆこう

   白い炎に燃える太陽へ

 

   白い光は過ぎ去った

   行こう、赤い光の方へ

   《愛する人よ》僕は君を離さない

   僕の手に血に濡れたナイフがひらめく

 

   この紅の中を生きよう

   君の細指に嵌める指輪は

   短刀でひと突きにされた心臓

   僕は黄金を手に入れた、君は眠たくないのかい?

 

   赤い光は過ぎ去った

   行こう、緑の光の方へ

   凍えたその喉を暖めに

   入ろう、扉は開かれている

 

   飲もう、この融けた緑金を

   飲もう、僕らは見るだろう

   白い炎が血に染まり、ゆっくり燃え立つそのさまを

   可愛い子、何か言ったかい?

 

   緑の光は過ぎ去った

   行こう、蒼白き光の方へ

   行こう、僕らの輪郭は消え

   オパールの波に呑まれゆく*26

 

 かくて、マルセル・シュウォッブはまったくの自己流で師範学校受験の準備を進めた。

 ナントで遠くから彼を気にかけていた母のもとには、三通の短い手紙、母に言わせれば《電報みたいな》手紙を送っただけだった。けれども『灯台』紙には、1889年に掌編「三人の税関吏」を寄稿している。その時の母の喜びようといったら!《あなたの「三人の税関吏」は素晴らしいわ。お父さんはあなたの校正入りの原稿を印刷に回しました》。そしてユダヤ式の心づけとして、マルセルは母に《極上のソーセージ》を贈った。ナントの人々は《今すぐにでも》彼が帰ってくるのを待っていた。

 だが、家族を大いにがっかりさせたことに、マルセル・シュウォッブ師範学校の受験に失敗してしまった。息子の挫折を我が身のことのように受けとめた母は、あきらめずに再度挑戦することを勧め、受験の準備を続けるよう手紙に書いた。彼女はまた、ロスチャイルド家の使用人もしくは書生として出入りできるよう取り計らおうとさえした。

 しかし、マルセルシュウォッブ自身は学位の取得を望んでいた。彼は学校の授業と並行して、ソルボンヌでの講義も受講した。そこで出会った哲学者のブートルー*27に、彼は心酔していたのだ。

 ブートルーの講義について、マルセル・シュウォッブは晩年に至るまで敬愛をこめて語っていた。ブートルーは彼にとっての師であり典型的な〈メートル・ド・コンフェランス〉*28であった。彼はデカルトに関する16回の講義を熱心に受講した。《近代的システムの父であり、哲学をその根源、普遍的思考へと導いた》デカルトは、マルセル・シュウォッブにとって〈二重の男〉であった。彼はこう記している。《この男は、三十年戦争においては騎士道精神を失わぬ軍人であり、またいかなる時代、いかなる国の誰にも結びつけることのできない孤高の思索者であった》。

 ブートルーは、多くの観点から見て、マルセル・シュウォッブの知性を揺り動かした師であった。彼は労を厭わずデカルトの時代の精神を描き出し、その伝記からデカルト哲学の解釈を導いた。《自然法則の偶発性》についてのブートルーの講義のことを、マルセル・シュウォッブは私にたびたび話して聞かせた。かつて私たちが出会ったばかりの頃に、そのノートを貸してくれたこともある。師の講義は彼にとってたいへん美しく新しいものに思えたし、実際その通りだった。彼はスピノザについてのブートルーの講義も同じく受講した。アムステルダムポルトガルに起源を持つユダヤの家庭に生まれたバールーフ・デ・スピノザ、初めてのタルムードの教えをサウル・レヴィ*29に受け、もう一人のコルドバユダヤ人、マイモニデース*30と、カバラを研究したあのスピノザである。さらに同じ師のもとで、マルセル・シュウォッブは《科学とは普遍であり、必然である》としたアリストテレスを熱心に学んだ。

 けれども、とりわけ大きな影響をマルセル・シュウォッブに与えたブートルーの講義は、《連続性の概念》に関するものだった。当時、彼は《時空間の中にあらゆる連続性が存在するように見せかける記憶の性質》についてのノートをまとめた。この研究から彼が得たのは、《単一の物体上に知覚を静止させることで、意識から時間の感覚を消し去り、内的な永遠性を生み出す》脱我体験であった。やがて『架空の伝記』の中でエピクロスを描くことになる彼は、この時代に『両世界評論』(1888年8月1日号)に掲載されたカロー*31の研究の要約を作成している。

 《愛他心の見てくれの下にあるのは利己心である》。彼はエピクロスの時代に関するギュイヨー*32の研究に言及した箇所の行間にそう書き込んでいる。

 彼はまた、ウィリアム・ローレンス軍曹*33の自叙伝から拝借し、後にさらに発展させることになった一節を記している。《また、福音書にはじめに言葉ありきとあるように、ある意味において、人間は神の言葉である》。

 時にマルセル・シュウォッブは、論文の原稿の裏を使って韻の組み立てに取り組み、また詩といわず散文といわず、古代の作品に片端から目を通した。古代ギリシア研究に身を入れていた彼にとって、中世の聖職者においてもそうであったように、アリストテレスが権威であった。書写したその著作と飾り文字で書かれた引用文の数々が彼の思考をかたちづくっていた。

  マルセル・シュウォッブは、師範学校受験失敗の雪辱を果たさねばならなかった。1888年、彼は文学士の学位を授与された。百名の志願者、十四名の合格者のうちの首席だった。

 彼がマザラン宮を出て、1890年から1891年にかけて住んだユニヴェルシテ通りに移ったのもこの時期のことだった。大学に籍を置いたまま働いていたが、実家の家族は彼が教授資格試験のための勉強をつづけており、いずれは教授になるものと信じていた。彼の父は愛情を込めた手紙を書き送っている。《たいへん忙しいだろうけれど、君が先生方に高く評価されているのは知っている。そう思えば疲れも吹き飛ぶことだろう。だから愛するわが息子よ、これからも皆を満足させるように。もちろん私たち家族も含めて》。彼は名刺にこう彫りつけた。「マルセル・シュウォッブ、学士」。

 だが実際には、彼は自身の才能の赴くまま、本を読み耽り、自己流で学び、個人的な研究を行い、原典に遡った。彼が二十歳の時に言っていたように、《人が何に関心を抱くかは、ただその人間が身を置く視点によるのだ》。

 つまるところ、ビュルドーに始まりブートルーに至るまで彼の頭脳に詰め込まれた哲学*34に背を向けることとなったのは、ひとつの奇跡であった。というのも、マルセル・シュウォッブは、その小さく美しい繊細な筆跡で、数え切れないほどの枚数にのぼる哲学関係の論考をしたためていたのだ。しかし彼のノートに記された覚え書きからは、別の興味関心が看てとれる。とりわけ目を惹くのは文献学と博学とであった。カントの実践理性に関する研究の末尾に、彼はフランソワ・ラブレーの署名、その蔵書票に《フランキスクス・ラベラエス*35——医師フランキスクス・ラベラエスス、及ビソノ友人タチ蔵》とあるものを書き記している。彼は大胆不敵にも、《形而上学は下手くそな詩である》というリボー*36の考えを検討する目論見を持っていた。

 結局、マルセル・シュウォッブは哲学を離れ文献学——古ドイツ語、隠語、サンスクリット、とりわけギリシア古文書に関するもの——へと赴いた。高等研究実修院では、F・ド・ソシュールから印欧語の音韻について学んだ。同じ場所で、後にその励ましと教えから大いに影響を受けることとなるM・ブレアル*37にも出会っている。面白いことに、マルセル・シュウォッブは大学入学資格試験の受験生向けに補習授業を受け持っていた。彼はまた、《フランス教員による科学・人文学協会》でも教えていたが、1890年の12月18日に辞表を叩きつけることとなった。というのは、彼が持ってもいない称号を勝手にチラシに載せられてしまったからなのだ!そこにはプライドが高く気難しいシュウォッブの性格がすでに表れている。

 《足下、私は協会の科目表に私の名前が〈教育功労二等勲章〉と〈大学教授資格者〉の肩書きとともに載せられているのを、耐えがたい驚きをもってみとめました。私はいかなる資格試験も受けてはおりませんし、勲章の授与を請願したこともありません。私の名前に付されたこの二重の肩書きが、当然ながら、私に多大な迷惑を及ぼすものである以上、教員協会の教授職を辞することをお認め願いたい。また、この書簡を科目表と同様公開に付されるよう、とりわけ、議会と大統領閣下、さらに公教育省と関連部局に届けられるよう求めます。これが熟慮を重ねた上での結論であることは請け合います。どうか受理されますよう。マルセル・シュウォッブ、哲学士》。

 マルセル・シュウォッブは議事録の複写の送付を求めたが、この書簡が公になることは決してなかった。この意地の悪いユーモアの激発は、後の彼の人生にもしばしば見られるものだったが、このときすでに彼の憧憬の的であった詩人ヴィヨンの言を借りれば、《学校の屑ども》の無能ぶりを暴き出すものであった。

 

 マルセル・シュウォッブは『マリー・ファン、ローマの生活、西暦2000年の地(ジュール・ヴェルヌ風に)』と題された〈マントと剣〉もの*38の小説のアイディアを紙に書き留めている。

 彼は炭坑夫についての中篇(おそらく「地下坑道への降下」*39の続篇か)の粗筋を作り、マーク・トウェイン風のユーモラスなエセーを書いた。この作家に加えて、彼を深く感動させ、さらに言えば幻惑した書き手として、エドガー・ポー、スティーブンソン、シェイクスピア(彼はパスカルと同時期に『ハムレット』を読んでいた)、その詩を諳んじていたヴィヨン、そしてウォルト・ホイットマンの名を挙げねばならない。彼は当時ホイットマンの「埋葬詩」*40の非常にみごとな翻訳をものしている。また後に「地上の大火」となる作品の粗描も生まれた。

 この頃、ある仲間から送られた彼の作品の分析に対して、マルセル・シュウォッブは次のようにコメントしている。《僕自身に関して言えば、僕が何も感じない、何も愛せないという君の言葉は完全に間違いだ。僕のようにはっきりと三つの人格——実際に持ち合わせた人格と、持ち合わせると信じた人格、それに持ち合わせることを望んだ人格——を内に持つ人間は、おそらくかつて存在しなかっただろう。僕は心の奥では途方もなく感じやすく、本を読んではしばしば泣いてしまうほどだ*41。それに、僕を打ちのめし粉々にするこの傷つきやすさの必然的な作用がどれほど耐えがたいものであろうと、僕はそれを拒んだりしない。けれど、そうしたすべては、僕が周りにどれだけ哀れで滑稽に見えているか気づいたとたん、今度は僕が持ちたいと望んだ人格によって覆い隠されてしまうのだ。うわべの冷静さと冗談好きの仮面で、滑稽さ(少なくとも上記の理由によって生じたもの)は消え去る。そして残るひとつが変わることはない。僕にあっては、もっとも優勢な人格は〈意志の病〉*42を患っている。それは僕をある種の誘惑に対して無抵抗にさせ、とりわけ一度なされた決断に固執させるのだ。たとえその動機がもはや存在しなくとも》。

 

 実に恐ろしいほどの洞察力である。マルセル・シュウォッブはこの後も少年か青年のままでありつづける。壮年期は、彼にあってはとてつもない早熟というかたちで訪れた。だが三十を迎える頃には、彼自身が予告したとおり七十代の生を生きることとなるだろう。彼はその真の才能を呼び起こすことになるふたつの感情的危機の狭間で成長してゆく。自己の思想を、彼は突如としてつくりあげる。あたかもアロエの花が大砲の轟きほどの束の間に数メートルの高みまで伸び上がるように。

*1:ブルターニュ地方、モルビアン湾に面した沿岸の街。この記事を参照。

*2:「木靴」の主人公。

*3:陶器の椀で林檎酒を飲むブルターニュ地方の風俗は、「木靴」「ポデール」「ミロのために」に描かれる。そのうち「船乗りたち」les  mathurins に近いのは「木靴」の主人公の夫である漁師か。

*4:「三人の税関吏」の主人公。

*5:「ポデール」の登場人物。以下の記述と引用は同作から。

*6:以下の記述は「アルスの婚礼」によるもの。

*7:「ミロのために」。

*8:「病院」。

*9:「面」。

*10:以下は『幻と目覚め、夢とうつつ』所収の無題のソネット

*11:フランス軍において教練に用いられた織布。文字の読めない兵向けに、さまざまな指示規則を示す図柄が印刷されている。

*12:中世の北部フランスで流行した、宮廷詩の滑稽なパロディ。

*13:〔原注〕表紙には《『赤いランタン』のための素描。グセル、コレヲ著セリ》とある。ポール・グセルは彼の友人であった。〔以下訳注〕『初期作品集』のこの箇所に付されたシャンピオンの注によれば、当時シュウォッブとグセルは強い友情で結ばれており、同じ筆名(グセル)を共有していたという。

*14:以下の詩の原文を掲げる。行頭の文字を縦読みすると「マルセル・シュウォッブ」の名が浮かびあがる。

   Mes braves frangins argotiers,

   A vous ce fafiot je dédie.

   Radinons-nous les mi-setiers:

   C'est de la bonne comédie.

   Esgourde ouverte et clairs calots!

   Le blot est des plus rigolos.

 

   Surin au poing, et ventre au riffe,

   C'est ainsi qu'il faut calancher;

   Ho, la Camarde vous aggriffe,

   Veinards en train de pitancher!

   Oublions la Muette gourde,

   Buvons ferme, et prêtons l'esgourde!

*15:赤い角灯は娼家の目印に用いられた。

*16:〔原注〕この〈親父〉は酒商人で大衆ダンスホールの店主でもある。

*17:「娼家の窓辺で首を吊ったジェラール・ド・ネルヴァル」 "Gérard de Nerval pendu à la fenêtre d'un  bouge"、『初期作品集』の『隠語詩篇』に収録。

*18:ウジェーヌ・フランソワ・ヴィドック Eugène François Vidocq 1775-1857。フランスの脱獄囚でパリ警察の密偵となり、後には世界初の探偵業を始めた。

*19:ピエール・フランソワ・ラスネール Pierre François Lacenaire 1803-1836。犯罪集団を組織して詐欺・強盗・殺人等を繰り返し、死刑に処された詩人。

*20:40-102頃。ローマの詩人。諷刺や機知に富む短詩で知られる。

*21:Sully Prudhomme 1839-1907。フランス高踏派の詩人。

*22:「ロンドー」 "Rondeau"、『幻と目覚め、夢とうつつ』所収。

*23:『幻と目覚め、夢とうつつ』所収の無題詩。

*24:『幻と目覚め、夢とうつつ』所収の無題のソネット

*25:「バラード」 "Ballade"、『幻と目覚め、夢とうつつ』所収。

*26:「光」 "La Lumière"、『幻と目覚め、夢とうつつ』所収。

*27:エミール・ブートルー Émile Boutroux 1845-1921。パリの高等師範学校およびソルボンヌ大学で教授した哲学者・哲学史家。

*28:フランスの大学制度において、研究と同時に教育を主たる任とする職。

*29:サウル・レヴィ・モルテイラ Saul Levy Morteira 1596-1660。オランダのラビ。

*30:モーセス・マイモニデース Moses Maimonides 1135-1204。コルドバ出身のラビ、学者。ユダヤ法を体系化した。

*31:ルドヴィク・カロー Ludovic Carrau 1842-1889。フランスの哲学者。『両世界通信』の当該号に、「エピクロス、その時代と宗教」 "ÉPICULE, SON ÉPOQUE, SA RELIGION"と題した論文を発表している。

*32:ジャン=マリー・ギュイヨー Jean-Marie Guyau 1854-1888。フランスの哲学者、詩人。カローの論文にはギュイヨーの『エピクロスの道徳』 La Morale d'Épicure(1878)が引かれている。

*33:Sergeant William Lawrence。ワーテルローの戦いで活躍したイギリスの軍人。その自叙伝は1886年に出版された。

*34:〔原注〕《(戦争以来、フランスにおける人文学分野の花形は)時の知性を擁する哲学の授業であり、(ビュルドーのような)騒々しい教師であった》。ゴンクール『日記』240頁、1891年5月31日。*()内は訳者による補足。

*35:フランソワ・ラブレーラテン語表記、この署名はラテン語ギリシア語で記されている。

*36:テオデュール=アルマン・リボー Théodule-Armand Ribot 1839-1916。フランスの哲学者、心理学者。

*37:ミシェル・ブレアル Michel Bréal 1832-1915。フランスの文献学者、比較言語学者

*38:『三銃士』など、マントと剣を身につけた人物の登場する通俗的なジャンル。

*39:『初期作品集』所収の掌編。

*40:『草の葉』所収。

*41:〔原注〕これに対し、この仲間は以下のように返した。《本を読んで泣くことはあっても、君は現実の悲惨や恐怖を見ようとしない。たまたま目に入ることがあっても、君は自分を欺いて目を瞑ってしまおうとするのだ。そのような感じやすさはいつだって不毛なものだ。もし疑うのなら、先入観なしに自分の胸に聞いてみたまえ》。

*42:テオデュール・リボーの著書『意志の病』 Les Maladies de la volonté (1883)による表現。

灰色の石の墓 La Tombe de pierre grise

 それは古びた——ひどく年古りた墓だった。時代のついた墓石は灰色にくすんでいた。墓は劫を経た古森のただ中に開けた空き地にあった。樹々の幹は苔と地衣に覆われていた。その下の地面には樫の古木の高みからドングリが降り敷き、黄色い落ち葉が絨毯のように地を覆っていた。来る日も来る日も、ひとひらひとひら葉は枝を離れて大地に降りつもり、大風の吹く日には、海の波のように頭をもたげた黄色の絨毯の立てるざわめきが樹々の天蓋の下に鳴りわたった。この森の奥の空き地にある池は、風に吹かれた落ち葉に水面を覆われ、淀んでいた。そして時に落ち葉の覆いが割れると、黒く深い水が姿を現し、見る者は身を震わせて後じさりするのだった。
 森はむっとする暑い空気に包まれていた。朽ちた葉群からほてった蒸気が立ちのぼり、池の水は手に生温かく触れた。空に輝く陽の光は樹々の葉に遮られたが、蒸れた気はあたりに立ちこめ、池を覆う靄はなおも濃くなり増さった。
 この地に雨の降るとき、生い繁った樹々の葉を伝わった雫は埃に黒く汚れ、一滴一滴静かに音もなく、死せる葉群の寢床の上に滴り落ちるのだった。
 この森の中の空き地に賑わいは無縁であった。沈黙のしじまを破るいかなる生き物とてなかった。黄昏刻には、墓碑の上に据えられた古い石の梟の姿が見分けられた。
 ああ!その墓のなんと古びていたことか!葉末から絶え間なく滴る雨だれがところどころに穴を穿ち、墓石に刻まれたいにしえの彫像は一面の黴に覆われていた。樫の木には折れた枝が落ちかけたまま引っ懸かり、根もとには朽ちた葉がうずたかく積もっていた。

・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

 これが僕が若い頃目にした風景だ。生い繁った古木の頂きにある巣の高みから、僕はこの空き地をじっと眺めたものだった。眺めるたび、僕は深い孤独に囚われて、暗がりに沈む死せる葉群れと、決して青空を見ることのない黒みを帯びた池に歎きの声を挙げたのだ。
 そしてわが幼き日々は過ぎ去り、僕は兄弟の鳩たちとともに、エジプトの燃える沙地を目指し旅立った。けれども、僕はあの寂しい空き地と黒い古池、そしていにしえの灰色の墓を忘れたことはなかった。やがて僕の心の孤独が、より深い絶望の景をその慰めに求めたとき、僕はアラビアの沙漠を離れた——僕は樫の繁る地へと戻ったのだ。
 故郷に到着した僕は、わが暗き森を長い長い間探しまわった。ところが森は見つからなかった。というのも、かつて森のあった場所には緑の草原がひろがり、清澄な湖がその水面に青々とした古樫の木立を映し出していたのだ。澄んだ湖の傍らには灰色にくすんだ古い墓があり、石の梟が墓碑にとまっていたけれども、墓石を覆っていた黴はすっかり消え去り、彫像は花の冠で飾られていた。
 そこで僕は、わが古き友ナイチンゲールに、僕の古い樫の森と寂しい空き地、そして真っ黒な池はどうなってしまったのかと訊ねた。すると、彼はこう歌った。「君がここを離れたとき、おお、鳩よ、旅人よ、すべては暗くか黒かった。そして君は帰って来た、すべてが明るく緑に包まれたこの場所に。
 なぜなら黒き樹々の葉の下に、ふたりの恋人たちがやって来たのだ。そうして寂寞の光景に、彼らはその身をおののかせたのだ。
 けれどもふたりが空き地に足を踏み入れたとき、幾星霜の昔よりこのかた初めて、太陽の光が樫の葉群を貫いたのだ。
 そして黒き水面は煌めきを返し、陽光に変じた水は明るく澄みわたった。
 やがて黒き森は緑なす草原となり、古びた墓も姿を変え、ふたりの恋人たちは永遠の愛を謳歌することとなったのだ」。

無情の一撃 Giroflée

 僕は両親の反対を押し切って、十二歳で海に出た。不幸なことに、最初に出会ったのが意地の悪い船長だった。海の世界のあれこれなんて噂で聞いたことしかなかった僕は、八日にわたる体験ののち、自分の馬鹿さ加減をひどく悔やむことになった。「ああ」、僕はひとりごちた、「優しい両親のもとを離れる必要なんてあったのか?残酷な船長にいじめられるために?」とはいえ、船の上ではとても気の合う友を見つけることもできた。気立ての良いフランス人で、人をからかったり冷やかすのが得意だけれど、冗談好きなのと同じくらい人好きのする男だった。八日間が過ぎる頃には、僕らは友達みたいにからかいあい、兄弟みたいに仲良くなっていた。年の頃は三十くらいで、腕っ節が強く筋骨隆々、平の水夫だったけれど、甲板員クラスよりも船乗り暮らしは長かった。そのことで船長に談判することもできただろうに、どうして昇進を求めないのか尋ねると、彼は言った。「船の士官ってやつはな、それ相応の読み書きができなきゃならないんだ。でなきゃあ士官とは言えないからな」。我が友はこんな男だった。勇敢で、誠実で、正直者で……いくら言葉を費やしても書き尽くせない。彼のことを思うと、涙がこみ上げてくるんだ。
 ある夜——恐ろしい時化がやってきて——波は舷側を越えて打ち上げてきた。僕は船長と操舵手とともに艦橋にいた。雷雲から降りそそぐ雨の雫が舷灯のガラスを伝って流れ、索具が風を切って唸りをあげた。突如、巨大な波が夜の闇に真っ白な波頭をもたげ、上看板を横殴りに撃ち据えた。僕は波にさらわれたが、幸いにもロープではしごに身を結わえていた。年とったアザラシみたいに咳き込み、息を切らせながら這い上がったとき、僕は操舵手が十字を切るのを見た。あいつはブルトン人なのだ。舷牆に身をもたせた船長は、海面を見つめながら肩をすくめ首を振っていた。僕は眼で友を探した。彼の姿はどこにも見当たらなかった。僕は操舵手の方へ駆け寄った。するとあいつが口の中で祈りをつぶやくのが見えた。それからあいつは、皮紐の付いた銀の大きな懐中時計を取りだし、舷灯にかざしてなんとか数字を読みとった。「いま十一時」、あいつはゆっくりと言った。「奴なら四時までは泳ぐことでしょうな」。

第二章 サント=バルブ中等学校からルイ=ル=グラン高等学校、およびソルボンヌまで/レオン・カアンのもとで/初期の習作

 アンセルム長老や叔父のカアンと同じように、マルセル・シュウォッブもまたパリにやって来た。サント=バルブ校、つづいて由緒あるルイ=ル=グラン高等学校へ。高校で彼を迎えたブドール氏は、この若者の厚かましさに憤慨したものだった。地方の三年生がそのままパリで二年生になるとは、と*1。ここでも、受賞者名簿には相変わらず彼の名前を見つけることができる。1882年、彼は高名なブドール教授のクラスの二年次生だった。「メイエール・シュウォッブ」*2という名の生徒は優勝賞を手にしており、とりわけラテン語ギリシア語翻訳に秀でていた。学術コンテストでは、ドイツ語の二等賞だった。修辞学の第二部門をジャコブ氏とシャブリエ氏に学び、またしても二等賞を得た。上級修辞学はアッツフェル氏とメルレ氏に学んだが、彼らには篤い感謝の気持ちを後々まで保ちつづけた*3。また、哲学を著名なビュルドー氏のもとで学んだ。氏の容貌とその授業については、バレス*4が『デラシネ』の中で生き生きと描き出している。そこでもまた次点第一位であったが、大学入学資格試験ではワディントン氏に哲学で落第点をつけられることになる。その翌年に、この若者は賞賛すべき成績で合格を果たした。

 マルセル・シュウォッブは、当時すでに異彩を放っていた生徒たち、レオン・ドーデ*5ポール・クローデル*6、レオン・ベラール*7、ジョセフ・ベディエ*8、レオン・ドレス*9、ガブリエル・シヴトン*10らの知己を得た。マルセルはとりわけ学識があり、学校の授業は歯牙にもかけないところがあった。レオン・ドーデの証言によれば、彼は目先の結果などに囚われず、物事を草の根分けて調べつくす性質であった*11。《複数言語を操る能力に長けたユダヤ人らしく、彼は英語とドイツ語を流暢に話し、イマヌエル・カントを原書で読んでいた*12。彼を顧みようとしなかったビュルドー氏も、これには気を惹かれたに違いない》。好奇心は彼をさらに彼方へと導いた。マルセル・シュウォッブは初期からエウリピデスに至るギリシア哲学を研究した。彼は1883年から1884年にかけて、高等研究院で行われたジャコブ氏の講演に足繁く通った。『年報』の業績欄には彼の名が見えている。《文献学に対して勤勉な態度を有するシュウォッブ氏は、国立図書館所蔵の690年のギリシア語手稿に含まれたルキアノスの五つの対話の校訂を再検討し、完成させた。これはデルソー氏よって着手されたものである》*13。当時の学友の一人は、こんなふうに彼を皮肉っている。マルセル・シュウォッブはまるで、祈りの絨毯にうずくまり、ほとんど全身が隠れてしまいそうなほどの大冊を広げたタルムード学者、子羊の毛皮でできた縁なしのとんがり帽ををかぶった長老のようだった、と。

 そんな彼であったが、一方ではユーモアに富んだパスティーシュ、「我が歯の驚くべき物語」と題した作品をマーク・トウェインに献げる一面もあった。

 ともあれ、とりわけマルセル・シュウォッブに真の影響を与えた人物は、レオン・カアンであった。

 レオン・カアンは早くからマルセル少年に関心を抱いていた。彼は1881年にマルセルの母へ送った手紙にこう書いている。《もしもマルセルが閉ざされた部屋にいるならば、私たちがその鍵を回して彼を外へ連れだそう》。また、マルセルにはこのような手紙を送った。《親愛なるマルセル。君の翻訳は悪くない。文字どおりにみればね。むろん私はもっとも分かり易い例を挙げておいた。さあこの機会に、文字どおりの翻訳、つまり逐語的な訳と、正確な翻訳、つまり物事と思考を訳すことの違いがどこにあるのか、君に示そう。「torquere agmen ad dextram vel ad sinistram」という文を、君は「軍隊を右に、または左に移動させる」と訳した。1.torquere は「移動する」ではなく、「ぐるっと廻転させる」という意味だ。弩や投石機は torquere missilia、つまり「砲弾を発射する」ことができる。なぜなら、それらの武器は廻転するものだからだ。2.agmanは「軍隊」ではない。軍隊ならば exercitus だ。agmen は「行進のために整列した兵隊」、専門用語で言えば「歩兵縦隊」だ。3.「軍隊を右に廻転させる」というのも意味をなさない。もし君が平原の真っただ中で隊の先頭に立っていて、その隊には四人の兵士に伍長が一人しかいなかったら、そしてもし私が君に隊を右に移動しろと言ったら、君は私の命令をどう実行したらいいのか、理解できなくて困るだろう。さて、では agmen を「歩兵縦隊」の意味にとってごらん。君は二列に並んで行進する五十人の兵士を率いて、ある特定の方向に進んでいる。君が行進を別の方向に向けたければ、君はこう言う、《torquere agmen ad sinistram vel ad dextram》、すなわち《縦隊、右へ回れ、縦隊、左へ回れ》だ。フランス語の専門用語では、「方向転換、右!」だし、ドイツ語では「右へ、進め!」だ。

 覚えておくといい。このような場合すべてにおいて、言葉を子細に分析することで、つねに正確な翻訳が得られるのだ。

 今日はここまでにしておこう、親愛なるマルセル。私の少しばかりの語彙と、古代ギリシアとローマの成立と時代ごとの発展についての手短な概観も、もう君には分かっただろうが、有益なものだし、少しも退屈なことではない。時代ごとと言ったのは、第二次ポエニ戦争の時代とカエサルの時代*14とでは、技術水準に似ても似つかない隔たりがあるからだ。古代のスキピオの軍団がマリウスのものと異なり*15ルイ14世の連隊がナポレオンの連隊とは異なる*16のと同じことだ。

 蒙古関係の質問も山ほどあったね。手みじかに。ウイグル文字は古代のシリア文字で、中央アジアにはネストリウス派によってもたらされた。15世紀の終わりまで、中央アジアではトルコ語ウイグル文字で記したのだ。今ではアラビア文字と、他に二種類の文字を使っているがね。……心からのキスを。……君の叔父にして名づけ親、レオン・カアン》。

 

 今でも彼のことを憶えている人は多い。当時彼はマザラン図書館の主任管理員で、蔵書目録のカードに記す筆跡は大ぶりのはっきりした直立体、剣で刻んだような文字だった。彼の風貌はあたかも、古代の戦術について喜んで話をしているどこかの退役軍人を思わせた。この図書館員は、ありとあらゆる冒険家や船乗りや戦士の物語を知っていた。本の中でだけではなく、実際に小アジアやユーフラテス川流域に何度も旅をしたことがあった。中央アジアトルキスタンの人々の話は彼の専門だった。その知識には限りがなかったが、とりわけトルコについては詳しかった。けれども、彼の想像力は、彼自身をアジアの征服者たちの歴史と移住について書くだけにとどまらせなかった。彼は学問により想像的な形式を与え、しかも同時に事実に正確でありつづけた。そのようにして、彼はジュール・ヴェルヌマルセル・シュウォッブの父の友人でもあった)と同じ時代に、当時の男の子たちを魅了し空想をかきたてた多くの本を書いたのだった。『マゴン船長の冒険、あるいは紀元前一千年のフェニキア探検』(1875)、『青い旗、十字軍と蒙古征服時代のイスラム教徒・キリスト教徒・異教徒の冒険』(1877)、『アンゴーの水先案内人たち』(1878)、『傭兵たち』といった彼の著作を、子供時代に読んだことのない者などいるだろうか?*17

 

  W.G.C.ベイファンクが、仕事部屋でのレオン・カアンの姿を描いてくれている*18。そこには歩哨に立つ二人のタタール人の肖像があって、《トルコの小刀、半月刀、古い鉄砲が壁を飾り、写真の額には精悍な顔立ちをしたアラビア砂漠の部族長が、暗色の双眸に生気を湛えた姿を浮かべ、厳かな視線を投げかけていた。レオン・カアンは東洋風に胡座を組んで座り、煙草の巻紙を巻いている。この瞬間、彼の表情は静かだ。その顔つきは、頭上の壁に掛かったアラビア人の顔写真と、いくぶん似通ったところがあるかもしれない。けれども、その落ち着いた表情が一秒と続くことは決してない。少々の刻み煙草を巻紙で巻いたら……》そうして彼は立ち上がり、滔々と話しだすのだ。

 何と愉快で、魅力的で、果てしなく風変わりな男であったことか。剽軽で、意外性に富み、何でも心得ていて、探検家で、歴史家で、小説家で、文献学者で!豊かではなかったかもしれないが、彼の家は誰にでも開かれていた。そこを訪れる者は、学士院宮殿の高窓から眺めるセーヌ川の昼夜の眺めを賞賛した。それは、パリで最も美しい光景のひとつだった。《何と気持ちのいい空気じゃないかね?セーヌの川面と桟橋に沿っていっぱいのこの光を見たまえ!フランス学士院の中に間借りさせてくれるなんて、国もなかなか粋なはからいをするじゃないか。ここはパリでいちばん美しく、いちばんにぎやかな場所だよ》。

 レオン・カアンが迎え入れた人々の中には、エレディア家の者たち*19もいた。彼らは時おり晩餐にやって来た。「パルミラ小母さん」*20と呼ばれたレオンの妻は、気取ったところのない善良な主婦で、子供たちを立派に育てあげた。レオン・カアンは、笑いながら、聖書風の悪態を口にして、彼女に呼びかけるのだった。《人の顔をした畜生よ、煙草を寄こしてくれ!》

 それが、この切れ者の小男のやり方だった。どこも見ていないような目をして、グレーの髪を後になでつけ、鼻は剣の刃のよう、口髭はタタール人風だった。なによりも、レオン・カアンの大いなる力が発揮されるのは、彼が話をするときであった。また彼は大変なトルコ通で、トルコ青年党*21にも親しかった。

 

 1883年頃、マルセル・シュウォッブはこの叔父の傍らで、カトゥルス*22の詩を「マロ*23の時代の古フランス語に」翻訳しようと企てたことが知られる。その原稿は見つけることができなかったが、それに付された序文があって、こちらはずっと後になって書かれたものと思われる。というのは、マルセル・シュウォッブの晩年に、彼の口からそこに書かれた教えを度々耳にしたからだ。この序文には、彼の美しい翻訳の秘密の一端が示されている。

 《ここに、新たな〈猿楽詩〉——ボードレールが存命ならばそうも呼んだに違いないものをひとつお目にかけよう。私はこれを知的な文学人の世界に献げたい。嗜みがあり、良い書き手の価値がわかっていて、作家を高く評価するのに自分の考えを押しつけるようなことは決してしない人々に。すなわち、私のこの書は鼻にかかった口調で話し、文章もまたそのように書く人々のためのものではない。

 

   ところが彼ら物知り顔の行きつくところは、ただ単に

   疑わしい言葉を秤にかけて訂正するにとどまらなかった。*24

 

 韻文の翻訳というのは評判の悪いものだ。一方で形式を保とうとすれば、意味が完全に別物になってしまう。他方で意味を変えずにいようとすれば、形を悪魔に売り渡すことになる。どちらの方式も等しく不完全である。韻律を踏むという詩の技法が、翻訳の妨げとなるのは自明の理だ。それゆえ、韻文としての形態を保ちながら、多少なりとも正確な翻訳につとめるならば、破格の韻律法を選ぶ必要がある。私はマロの破格の韻律法、16世紀の自由な言葉遣いを真似ることで、これをなし遂げ得たと考える。

 カトゥルスを16世紀の言葉に翻訳した理由は、それだけではない。カトゥルスの時代におけるラテン語の形成段階は、我々においてはおおよそアンリ4世*25時代のフランス語のそれに相当するのである。私は、ホメロスを初期フランス語に翻訳したリトレの理論*26に従った。同程度の形成段階にあるこの二つの言語の間の、表現や言い回しの類似は信じがたいほどである。そもそもこの類似には、この場合はっきりとした理由があるのだ。16世紀には、カエサルの時代と同じく、ギリシア文学由来の言葉が影響力を持っていた。語彙のレベルでも観念のレベルでも、ギリシア的なものがみとめられるのだ。

 それゆえ、どれほど風変わりな考えに見えようとも、私の考えでは、カトゥルスを翻訳するには古フランス語によるほかない。私の翻訳の良し悪しはおいて、この試みが私につづく人々に、今や地ならしされた新たな道——形成段階を同じくする言語と文学間の類似性という道を切り開くことを望むものである》。

 1881年、十四歳のマルセル・シュウォッブは、「幻と目覚め、夢とうつつ」と題した覚え書きを書き留めた。思慮深くも、彼はこのように書いている*27。《五月には、これらの作品は素晴らしい出来ばえに思えた。六月には、莫迦げたたわごとと感じた。ヴィクトル・ユゴー氏は、若き日の詩を記したノートに、《我が未生の日々にものせし愚草集》と題している。私ならさらにこう書き加えるだろう。おそらくは死産、よりあり得べくは流産に終わるほかなき我が未生の日々に、と。この私が生まれ出る日を迎えることができるなどと言えば、自惚れのそしりはまぬがれまい……》。

 この作品というのは詩集であった。その最初の一篇、「何故ニ?」からは、彼の魂の在りようを如実に見てとることができる。

 

   この万能の予言者たちが、そうして何を得たというのか?

   死は、彼らを打ち倒すのを見逃しただろうか?

   マホメットにモーゼ、アブラハムとキリスト

   彼らがこの世を去ってのち、何かを手に入れただろうか?

   すべては虚妄、すべては誤謬、真なるものは何もない

   いかなる宗教であろうと、砂上の塔にほかならない

 

  これらの少年時代の夢想の中には、すでに一人の女性の姿、マルセル・シュウォッブの熱情的な面をあますところなく伝える恋の姿が現れている*28。彼女は十八歳で、彼はまだ幼くひ弱、人を魅了する眼差しもいまだ身につけてはいない。彼女のドレスがわずかに触れるや、彼は彼女の足の踏んだ地面に口づけるのであった。

 ユゴーが彼の師であった。『アイスランドのハン』*29を「発明した」ユゴーが。

 

   ——ああ!誰がかの時代を取り戻せるというのだろう

   犯罪と、アザラシの毛皮をまとった大男たちの時代を?

 

 彼の部屋の壁には、ユゴーの肖像が飾られていた*30。韻律が思い浮かばぬ時には、彼はその姿をじっと見つめるのだった(1881年5月)。

 

   …………………………………………そしてまた僕はその詩を読む。

   あまりに優しく魅惑に溢れ、大海原よりも穏やかな詩を。

   《星降る夜、波打ち際に僕はひとり……》

 

 マルセル・シュウォッブはまた絵も描いた。力強い筆で防塞を粗描した、ドラクロワ流の絵だった。少年時代の彼の詩は総じて、たぐいなき憂愁と、人間的な恐怖の感情と、人類の前途に対する悲観に満ちていた。読む者に訴えかける真正の才能は、たとえば絶対的な理想主義を謳った「カエサルの幽霊の言葉」にみとめることができる。

 

   ゾラを否定せよ!神よ、それはまさしく汚辱を否定することなのだ!

 

 彼の心はすでに愛と死にまつわる深い感情を宿していた。彼はノートル・ダムの塔に登ったが、それは「忌まわしき」パリの大都会を眺めるためではなく、ただ青い空を見上げるためだった。彼は三面記事の事件に基づく詩を作った。後々のモネルに通じる死を迎えたジスカという少女についての記事だった。憐れみを込めて、少年はこの若き娼婦の愛ゆえの自死を詩に作りなした*31

  1883年から1886年の間、高等学校のベンチに腰掛け、マルセル・シュウォッブショーペンハウアーを読み耽った。またそれと同時に手がけていた二篇の詩を、大作に仕立てあげるつもりであった。荒々しい野卑なロマンティシズムの詩「ファウスト」と、彼にサンスクリットの学習を決意させることになった「プロメテウス」である。

 《現代の文学は深い孤独を抱えてい*32。この世の文学がかつていかなる時代にも直面したことのないほどの孤独を。今日の人々は大いなる失望の中にある。少なくともこのフランスでは間違いなく、そして私の見るところ、世界中の国々も変わりはない。今この時にあって、我々はもはや笑うすべを知らない。その理由は、我々があまりにも生を急ぐことにあるに違いない。我々は、三百年前と比べ十倍もの早さで生きている。言葉、習わし、しきたり、知識、すべては変化し、目も眩むほどの速さで姿を消してゆく。蒸気と電気はこの恐るべき速さの象徴である。それらは我々を急峻な斜面に立たせ、七十年の人生を四十年で生きることを強いる。「もはや子供は存在しない」と言われて久しい。これは我々の誤ちではなく、老いた人類そのものの誤ちなのだ。我々は、まだ分別もつかない子供たちを戦士に、自己の存在の一部に責任を持たねばならない存在に仕立て上げるのだ。そうして我々は小さな老人をつくりだす。これは我々の誤ちではない。子供たちは年老い、そして老人たちは孤独だ。因習に囚われ思考停止した状態で、人生が足早に過ぎ去って行くのを彼らは感じている。また、現代の人間は専門化したあげくの袋小路に陥っている。かつて、靴直しや、パン屋や、指物師、そのほか他人の役に立つ専門の職人が必要とされたように、今日では専門小説家、専門詩人が求められており、兼業は許されなくなった。アア!カツテノ様ノナント変ワリハテタルコトヨ!

 これは十六世紀のある賢者のもじりによる格言である*33》。

 

 彼の日記にはまたこうも書かれている。

 《私は二通りの人間を知っている。顕微鏡人間と望遠鏡人間である。一方の調子が良い時には、他方の調子が狂いだす。それが、私が世界について知っていることのすべてだ。顕微鏡人間は、コップ一杯の水に溺れる人々だ。彼らの目にはすべてが大仰に映り、うわさ話や陰口を好んでそこから様々な結論を引きだす。彼らにかかれば、三階に間借りする女が家主の婦人を罵って言った言葉が、フランス一国の運命を左右しかねないことになる。この手の人々が、近親眼的な哲学者や偏狭な教授連になるのである。彼らはしばしば回想録を記したり、書簡のやりとりを行ったりするのを好む。人類の利益のためにはそうしなければならないのだ。

 望遠鏡人間の有益さもまた五十歩百歩である。彼らはあらゆる物事を大局的に眺める。そうして進歩の道筋を示すが、自らその道をたどることは決してない。そんな能力は無用の長物である。何の変哲もないの人生の出来事が、彼らにとっては未知のものなのだ。彼らはそのような人生は夢にも見ないし、顕微鏡人間と同じ考えを頭の中にめぐらせて同じ仕事をしようものなら、十五分に一度は怒りの発作を起こすのだ。彼らはその妻たちにとっての不幸であり、家族にとっての災いの種である。彼らはしばしば思い切った行動に出るが、そうして偉人の列に名を列ねることもある。人類の利益のためにそうでなければならないのだ。

 この二つの種族の間に、双眼鏡の軸の位置に身を置いた第三の種族が存在する。見た目にはどちらかの種族に属し、何も知ることなく何でもうまくやる。もっともありふれた種族である》。

 《どんな人間でも、何らかの私利私欲に基づいて物事を選択するものだ。魂の奥底にはエゴイスムがある。それを否定するのは子供じみたことであろう。それは計算づくの問題ではなく、本能の問題なのだ。もっとも取るに足りない不興も、もっともはかない喜びも、動機を持たないものはない。もしこのことが納得できないとすれば、それは私たちの知性が、動機の決定には何ら関わりを持たないからである》。

 《なかには私欲を持たぬように見える人々もいる。彼らは善良な人間と呼ばれる。大概は、彼らを動かす動機が隠されているだけなのだ。しかし、希に本当にそうでない者がいた場合、その人物は頭のおかしな人間とみなされる。私はそのような善良な人物というのを知っている。周りからは頭が足りないのだと思われているが、じつは彼は望遠鏡人間で、平凡な生というものを知らないだけなのだ。そうでなければ、彼もまた他の人々と同じようなエゴイストになっていたであろう》。

 《批評家という連中は、真っ直ぐに生きる正直者を嘲る不能者、宦官、傴瘻のようなものだ。彼らは何も生み出すことができず、他人の作品にヒキガエルの毒を吐きかけるのだ。これは妬み深いエゴイストである》。

 《間違いなく、すべての人間が何かしらの情熱を持っている。ある者は食欲に、ある者は恋愛に、ある者は酒に、また別の者は仕事に、野望に、安逸に、享楽に。めいめいが自分なりの喜びを手にとるのだ》。

 《私たちは他人の頭の中で生きることはできないので、他者の印象を自分の知覚を通じて判断しなければならない。だからこそ、他でもない人間観察家たることを学ばなければならないのだ。ブリュイエール*34セネカ*35も、顕微鏡人間以外の何者でもなかった》。

 《人間は、言われるほど怪物的な存在ではない。欲望を見つけ出せ。それが鍵だ》。

 

 後の人生においてもそうだったように、マルセル・シュウォッブはこの頃すでに隠棲生活を送っていた。というのも、彼が「監獄」とあだ名していた高等学校ではいつも上の空で、引き出しの奥深くに引き籠もっていたのである。1885年に書かれたこのバラード*36のように。

 

   樫の扉の下、僕の希望はついえた……

   清澄な光に包まれた寝室で、僕は夢みる……

   いま、ぐっすりと、安らかに息づきながら僕は眠る

   ただひとつの苦悩は、この目に何も映らぬこと

   そして泉水の湧き出づる地を、僕は求める

   マリーとマドレーヌは澄んだ鏡の中に……

   ビロードと黒檀の閨を、また僕は夢みる……

   

 この享楽とないまぜになったニヒリスムを、マルセル・シュウォッブはとりわけ「ファウスト」の中に移し替えている。

 

   《もう俺は疲れてしまった、死ぬほどくたくただ!

   来たれ、痩せ衰えた幻影どもよ!

 

   俺は死にたい、棺の中で腐ってゆきたいのだ

   俺とともにあるのはお前たち幻影だけ!

 

   智慧を求めて俺が見たのは虚無だった

   口を開けた深淵の底を俺の目は見た

   千もの口を開けた深淵を

 

   俺は旅から戻った、疲れ果てて

   俺は太鼓を打ち叩き、鐘を鳴らして回った

   宇宙は俺を挽き臼にかけ、粉々にした!

 

   港を目にしたとき、俺はふたたび航海に出た

   道なき道を俺は望んだ

   美しい夢を宝物に変えるため

   そして貪欲な死の手から隠しておくため

   なのに何も見つけられずに、俺はまだ探しつづけている!

 

 また女たちはこう語りかける。

 

   波打つ腰と両の腿

   心細げに震える胸の蕾

   半ば閉じた瞳に蒼褪めた唇

   喜びに満ちた胸もと膨らませ

   悖徳を知りつくした黒い瞳の美女たちを

   繻子の衣の腰うねらせる女たちを

   あなたは忘れたというのかしら!   

 

 ついに幸福にめぐり会えなかったことを歎くファウストに、現れたメフィストが言う。《ああ!気づきませんか、哀れな友よ、それは死に至る希望ってやつです。次から次へと約束をちらつかせ、精も根も尽き果てるまであなたを引きずりまわしますよ!》

 美しい愛の場面、無言の一幕が、ファウストとマリヨンとのあいだに繰りひろげられる。これに先立つ「プロメテウス」の中でも描かれていたものである。マリヨンは赤いベルベットで覆われた長椅子に横たわり、黒いシャツを身に纏っている。純朴なマリヨン。ファウストは彼女に口づけ、甘噛みする。しかし、物思いに耽ったまま長椅子の上で体を伸ばした彼女は、悲しげに頭を振る。——駄目、と言うかのように。

 

 お世辞抜きに評価して、これら初期の試作は、マルセル・シュウォッブの孤独な思春期、いや、すべての彼の世代の、ボードレール流の享楽が跡を留める思春期の、貴重なドキュメントを提供するものであると認めねばならない。そしてここにはすでに、装飾過多の詩人と、散文作家的な詩人との違いを見てとることが出来る。その後者として、やがてマルセル・シュウォッブは頭角を現してゆくのである!

 

 《なんて君は美しい、君の髪はなんて長くて艶やかなんだ——その瞳の青の深さにもひけをとらないほど——君は似ている……

  :マルゲリートに。

  ファウスト:天なる神よ、そのとおりだ!

  暗転……》

 

 ファウストをあちらこちらに引きずり回すメフィストフェレスのキャラクターは、ショーペンハウアーをヒントに造型されたものであった。

 

  ファウスト:お前が俺を押したり引いたり、そうやってもうずいぶん長いじゃないか。なのに俺はまだ何も見つけていない。いまだ人生は暗いトンネルみたいに俺の前で口を開けている。光はこっちまで届きやしない。

  メフィストフェレス:あなたの気に入るように世界を作り変えるなどと、約束した覚えはありませんよ。それに、私にあなたの考えを変えさせる力があるとでも?あなたの目に映るものを、見ているのはあなたです。そうではないとでも言うのですか?

  ファウスト:俺にはわからない——いや、わかるのが怖いんだ。すべてを変えるのは俺の認識だと言いたいのか?宇宙は俺自身の中にあるのだと?

  メフィストフェレス:どうとでもお気に召すまま。白状しますが、その時その時私はいつだって同じように、あなたの背中を一押ししていただけなのですよ。それがどうです——こうしてあなたは地上に生まれ出たじゃないですか!

  ファウスト:そしてお前は天に生まれ出たのだ。お前は俺の探し物を全部持っているくせに、俺に隠して決して見せようとしないのだ。

  メフィストフェレス:ええ、あなたとお近づきになれて幸運でした。あなたは決して死ぬことはありません。この世がこの世となって以来、あなたは常に存在しつづけてきたのです——そしてこの私も。私たちはいつだって道連れの仲間同士でした。憶えていませんか?

  ファウスト:何が言いたい?舌先三寸のプロテウス*37め。俺はこれまでもこんなふうにみじめな生を生きてきたのか?俺は何度も何度も齢をとって、そしてお前を知っていたような気がする。だがそれはきっと昔の夢だ、俺が現実と知るものを俺は信じる。

  メフィストフェレス:現実!またこの無意味な言葉のひとつが出ましたよ。あなたたち人間ときたら、そんなことを口にするのをやめようとしない!いったい現実の他に何があるというのです?夢だって、あなたがたの感覚の世界から生まれたものではないですか?——莫迦め——大莫迦め——人間を粘土にでもして、自分たちが知ることのならぬ未知の何かを捏ねあげるがいい!

  ファウスト:そんなことができるものか——お前が俺に約束したのはそんなことじゃない。

  メフィストフェレス:私はあなたをあなた自身の外に連れ出す約束はしていませんよ。私が差し出したのはまるごとの人生です。そして自分の使命に疲れ果て、あなたが命を落とした暁には……

  ファウスト:否——千回だって否だ!——俺は死なない。もしもスフィンクスが俺に質問したければ、俺は答えてやるさ……》

 

 さて、十六歳から十九歳にかけて、マルセル・シュウォッブはローマの地勢、街の人々の私生活、売り物の種類、劇場や円形競技場、浴場や旅籠や娼家の周りで繰りひろげられた様々な場面について、盛んにメモをとっていた。また、盗賊、奴隷、行商人や家畜商についても。それらのメモは、後々古代の盗賊や娼婦を描く際に役立った。
 彼はまた長編小説の構想を練っていた。ある女性の生涯を描く「プーパ、ローマ時代の生の光景」(1883-1886)である。彼はローマの田舎の風景を粗描している。この作品の中で、彼は、ローマの奢侈な暮らし、捨て子となったプーパ、その窮乏、スルピキウス橋の盗賊、ユダヤ人たち、「橋の下に住む卑劣な詐欺師」、そしてプーパの帰還を描くつもりだった。

 この試みの最初のページは、すでにシュウォッブらしさに溢れた確固たる筆致で記されている。

 

 《ナル川*38に沿った樹々の下に、プーパは横たわっていた。重なり合った枝々の下で水は静かに流れ、木漏れ日が影になった芝生の上に白々と光の斑を投げかけていた。彼女は仰向けに寝そべって、黒髪を垂らし、両手を頭の後ろにまわして支えながら物思いに耽っていた。山犬のストルヌーが腹ばいに巨躯を横たえ、その手を舐めていた。彼女はそうやって何時間も沈黙をつづけた。目はぶんぶんと飛び回る虫を追い、陽光の中を舞う蚊の気まぐれな輪舞や、水たまりの上を滑ってゆく水蜘蛛を眺めながら……》

 そしてまた、ギュスターヴ・フローベールを髣髴とさせるこのようなくだりもある。

 《その夜、スブリキュー橋の下は祝祭の気に満ちていた。襤褸をまとった乞食たち、忍びやかな盗賊たち、残忍な絞首人たちが、乱痴気騒ぎに興じていた。アーチの下には踊りの輪が廻り、熱狂した女たち、泥棒の腕の中で踊る売笑婦*39たちが、交叉させた足でリズムを刻んでいた。導火線の火がパチパチと爆ぜて不意の閃きを彼方此方の集団に投げかけた。橋の支柱に沿って、赤い火が焔の舌を伸ばして昇ってゆき、枝分かれして橋の石材に灯る燈りとなった。片隅では、小石の山の上に蹲った乞食が、椀に注いだ酒を黙って飲んでいた……》。

 この青年はまた、とりわけペローの時代の妖精譚をマザラン図書館で書写した。彼は「阿呆のマリー」の物語を考え出した。天国を夢みる頭の弱い女乞食の話であった。

 十六歳のマルセル・シュウォッブは、他にも多くの短編を書き残している。その一部は非常に重たく写実的な、女性の物語で、「フジェール」のような作品がこれにあたる。また一方では夢のような光景と慈しみに満ちた「灰色の石の墓」や「ヴィオレット」といった作品がある。ヴィオレットという名の少女は、盲目の男が中庭の手回しオルガンを奏でるのを聴き涙する(彼女はモネルを先取りした、その姉妹の一人に数えられよう)。彼は見習い水夫と難船の物語*40や、物事を知りすぎて自分自身を信じることができず、生きることを知らぬまま死んでいった男の物語*41を生み出した。

 また、「ナルシス」の中には、マルセル・シュウォッブ自身の姿を見てとることができる。この作品は間違いなく彼自身の自画像に基づいて描かれたものだ。

 《認めよう。少年時代には突然の情熱、しばしば後悔をともなう暴力的な激情にとらわれたこともあった。幸いにも、それは訪れた時と同じくらい速やかに消えていったけれど。僕はアプレイウス*42ペトロニウス*43、カトゥルスにロンゴス*44アナクレオン*45を読み耽った。すべての女性が僕には花に見え、僕は自分自身をその花に舞う蝶だと信じた。僕の楽しみは、街に出て、一篇のロマンスを夢みさせてくれそうな、洒落た女性たちの姿を追うことだった——つまり、後ろ姿ということだけれど。顔を見る危険はあえて冒さなかった。がっかりしたくなかったから。虚勢でいっぱいの僕は、どちらかといえば太りじしではあったけれど、詩的なポーズをとるのが大好きだった。詩は作らなかったけれど、やろうと思えばできただろう*46。ああ、自惚れに満ちたわが若き日々よ!僕は髪を伸ばし、ユゴーを天まで持ち上げた後で今度は批判するのだ——僕は若きゾイルス*47、たちの悪いアルセスト*48だった——そして誓おう、僕は実に魅力的なんだ。部屋の窓は僕の舞台。そこから毎日僕は自分を見せつける……》。

 ある夏の日、彼の庭に面した窓に、バイロン風の雰囲気につつまれて姿を現したうら若き乙女に、彼は一目惚れをする。彼女に向かってナルシスは叫ぶ、《愛しています》。彼は、彼女がもっとも清らかな接吻を投げて寄こそうとしていると思いこむ。そこでこの青年は、双眼鏡を取り出して彼女を覗く。すると目に映ったのは、鼻に指をつっこんだ彼女の顔であった*49

*1:フランスの学年制度は、初等学校 École élémentaireに入学した時点で第11学年から始まり、以下学年が減ってゆく。初等学校は第11学年から第7学年まで。中等学校 Collège は第6学年から始まって第3学年まで、高等学校 Lycéeは第2学年から始まり第1学年を経て最終学年に至る。ここでは、ナントの中学生だったシュウォッブが留年することなくパリの高校に進学できたことを言っている。

*2:シュウォッブのフルネームはメイエール=アンドレマルセル・シュウォッブ Mayer-André-Marcel Schwob である。

*3:〔原注〕ギュスターヴ・メルレについての彼の記事(『事件』 L'Évènement 紙、1891年2月20日)を参照。

*4:モーリス・バレス Maurice Barrès 1862-1923。作家、ジャーナリスト、政治家。フランス祖国同盟(次注参照)の幹部。シュウォッブとも交流があった。『デラシネLes Désracinés は1897年の作品。

*5:Léon Daudet 1867-1942。作家、ジャーナリスト、政治家。アルフォンス・ドーデの息子。1894年に起きたドレフュス事件(フランス陸軍参謀本部大尉のユダヤ人アルフレッド・ドレフュスがスパイの嫌疑で逮捕された冤罪事件)では、反ドレフュス派の知識人愛国者によって結成され、父アルフォンスが幹部を務めていたフランス祖国同盟 Ligue de la partie françcaise に加盟し、さらにそこから分かれた反ユダヤ主義・反共和主義の右翼運動ラクション・フランセーズ L'Action français に参加した。

*6:Paul Claudel 1868-1955、劇作家、詩人、外交官。

*7:未詳。レオン・ドーデの回想録『亡霊たちと生者たち』 Fantômes et vivants(1914)に、ビュルドー教授の哲学の授業で一緒になった学友として、シュウォッブ、クローデル、ベディエ、シヴトンらとともに名を挙げられているヴィクトル・ベラール Victor Bérard 1864-1931 の誤りかと思われる。ヴィクトルはヘレニズム研究者、外交官、政治家。ホメロスオデュッセイアー』の翻訳で知られる。

*8:Joseph Bédier 1864-1938。作家、中世フランス史研究者。

*9:Léon Dorez 1864-1922。司書、ローマ・イタリア史研究者。

*10:Gabriel Syveton 1864-1904。歴史学者。フランス祖国同盟の幹部の一人。

*11:〔原注〕『亡霊たちと生者たち』135頁。

*12:〔原注〕筆者は彼の書類の中から、トマス・ド・クインシー「イマヌエル・カント最後の日々」の非常に優れた翻訳を発見した。

*13:〔原注〕署名:ブラック氏。

*14:第二次ポエニ戦争は紀元前219-201年、カエサルの時代をその執政官就任から暗殺までとすれば、紀元前59-44年。

*15:スキピオは第二次ポエニ戦争カルタゴハンニバルを破ったローマの軍人スキピオ・アフリカヌス(大スキピオ)、もしくはその妻の甥で、第三次ポエニ戦争(紀元前149-146年)でカルタゴを陥落させたスキピオ・アエミリアヌス(小スキピオ)。マリウスはキンブリ・テウトニ戦争(紀元前113-101年)でローマ軍を率いて勝利に導いたガイウス・マリウスを指す。

*16:ルイ14世の在位は1643-1715年。ナポレオン1世の在位は1804-1814、1815年。

*17:〔原注〕一方で、『近衛兵ハッサン、1516年』(1891)や、『女暗殺者、1241年』は、きわめて優れた歴史叙述の書である。

*18:〔原注〕W.G.C.ベイファンク『1891年のパリのオランダ人』147頁。

*19:キューバ生まれのフランス高踏派詩人ジョゼ・マリア・ド・エレディア José Maria de Heredia 1842-1905 とその娘たち。娘のエレーヌ、マリー、ルイーズ三姉妹は、アンリ・ド・レニエピエール・ルイスをはじめとする文学者たちと恋愛、結婚、不倫を繰りひろげたことで知られる。参照、ドミニク・ボナ『黒い瞳のエロス——ベル・エポックの三姉妹』。

*20:パルミラはシリア中央部にある古代ローマ時代の遺跡都市。レオンの研究に因むあだ名であろう。

*21:オスマン・トルコ末期の19世紀末から20世紀初頭にかけて、専制政治の打倒を目指して運動した活動家たちの称。

*22:ガイウス・ウァレリウス・カトゥルス Gaius Valerius Catullus B.C.84-54、ローマの詩人。

*23:クレマン・マロ Clément Marot 1496-1544、ルネッサンス期フランスの詩人。

*24:フランスの諷刺詩人マチュラン・レニエ Mathurin Régnier 1573-1613 の『諷刺詩』Satires 第九篇からの引用。この詩は、古代の詩に対して、文法的におかしいなどとあげつらい、得意げに改竄をほどこして悦に入る悪しき文芸批評家たちを揶揄したものである。

*25:在位1589-1610。

*26:エミール・リトレ Émile Littré 1801-1881 は『フランス語辞典』 Dictionnaire de la langue française 1863-1873, 1877 の編纂で知られる。彼は『両世界評論』 Revue des Deux Mondes 誌第一期19巻(1847)に、「ホメロスの詩と古フランス語詩」 "La Poésie homérique et l’ancienne poésie française" と題した長編の論文を掲載し、その中でホメロスの翻訳に13世紀のフランス語を用いるべき理由を解説し、『イーリアス』第一巻の翻訳の実例を示している。

*27:本書『マルセル・シュウォッブとその時代』と同じ1927年にピエール・シャンピオンの編集でベルヌアール社から出版されたマルセル・シュウォッブ全集の第一巻『初期作品集』 Écrits de jeunesse に、同じ『幻と目覚め、夢とうつつ』 Illusions et désillusions, Rêverie et réalité の題名のもとに以下の文章を序文とし、シュウォッブの初期の詩が収められている。

*28:以下は『幻と目覚め、夢とうつつ』の第二篇「少年の愛」の内容。

*29:ヴィクトル・ユゴーが18歳で執筆した、17世紀末のノルウェーを舞台とした長編小説(1823)。「アイスランドのハン」はそこに登場する山賊の呼び名。

*30:以下の記述は、『幻と目覚め、夢とうつつ』に収められた詩「ユゴー」による。引用されたユゴーの詩は、『東方詩集』(1829)収録の「恍惚」。

*31:『幻と目覚め、夢とうつつ』所収の詩「歎き」"Douleur" 。

*32:以下は、「随想」 "Pensées" としてまとめられた1883-1884年頃の日記の文章。

*33:原文ラテン語 Heu! quantum mutatus ab illa. これはウェルギリウスアエネーイス』第二巻で、アイネイアースの夢にかつての勇姿を失い憔悴しきったヘクトールが姿を現した時に、アイネイアースの発した言葉で、昔と様変わりした様子を目にした時にしばしば用いられる格言。ただし、本来は末尾の語は illo (英語のthatにあたる指示代名詞 ille の男性形もしくは中性形奪格)で、この文ではかつてのヘクトールを指すが、シュウォッブの引用では女性形の illa となっていて、「かつての文学(la littélature=女性形)」の意をこめていると思われる。「16世紀の賢者」が誰を指すか不明だが、「もじり」と訳した licence(破格)というのはこの用法を指すか。

*34:ジャン・ド・ラ・ブリュイエール Jean de La Bruyère 1645-1696。フランスの作家。人間観察・探求家(モラリスト)として、『カラクテール』 Les Caractères ou les Mœurs de ce siècle(1688)の著作で知られる。

*35:ルキウス・アンナエウス・セネカ Lucius Annaeus Seneca B.C.1頃-65。古代ローマの哲学者、詩人。深い人間観察に基づく『幸福な人生について』De Vita Beata その他の随筆を多く残し、モラリストの先駆けともされる。

*36:『幻と目覚め、夢とうつつ』所収の詩「監獄」"Le Cachot" 。

*37:ギリシア神話の海神プロテウスが変身能力を持つことから、態度をころころ変える人、変節漢の意で用いられる。

*38:ローマのナルニア市(現在のイタリア中部、ウンブリア州テルニ県ナルニ)付近を流れる川。

*39:「泥棒」「売笑婦」は原文 foures および loupae 。それぞれラテン語の furis (盗賊、強盗)、lupae(雌狼の意で娼婦の隠喩として用いられる)と解してこのように訳した。

*40:「平手打ち」 "Giroflée" と題された掌編を指す。

*41:「物思い」 "Pensée" と題された掌編を指す。

*42:ルキウス・アプレイウス Lucius Apuleius 123頃-? 『黄金のろば』の作者。)

*43:ガイウス・ペトロニウス Gaius Petronius 20頃-66。『サテュリコン』の作者とされる。

*44:Longos 2-3世紀。『ダフニスとクロエ』の作者。

*45:Anacreon B.C.582頃-B.C.485頃。初期ギリシアの詩人。

*46:〔原注〕マルセル・シュウォッブが自身の詩を好まず、大半を破棄してしまったことが思い出される。とはいえ彼は無数の詩を書いた。「レオン・ドーデ夫人が食卓で彼の詩のひとつを引用したことに、彼は激怒した」(ジュール・ルナール『日記』、321頁)。

*47:Zoilus B.C.400頃-B.C.320。ギリシアの文法家・文芸批評家。ホメロスの批判で知られる。

*48:モリエール『人間嫌い』の登場人物。正直がモットーで他人を率直に批判する。

*49:原文 Elle fourrait ses doigts dans son nez。錯覚する、見間違える意の言い回し se fourrer le doigt dans le nez (自分の鼻に指をつっこむ)に掛けた洒落。シャンピオンの要約で省略された箇所には、ナルシスは近眼で、彼女の仕草が唇に指を当て投げキッスをしようとしているように映ったとある。

ヴィオレット Violette

 あのね、叔父さん、年とったお爺さんだったの。とってもとっても年とってて。腰はすっかり曲がって、背中は波を打つようで、どこもかしこもそんな感じ。それで手回しオルガンを弾くの。あのね、ずっとおぼえてるわ。だって大好きだったから、手回しオルガン。長い長い音がするのよ。女の子が歌を歌ってるみたいな感じかなあ。でもそのお爺さんのオルガンは壊れちゃってたの。ハンドルを回すと——すてきなすてきな音がして、それから急に止まっちゃう。どうしてだかわからないの。声がしゃがれてしまったみたい。ほんとに、わたしお爺さんが大好きだった。まず目が優しそうだったの。青い目で、とっても深い深い色で、まるで海みたいな感じかな。——それから——ええと、白くて長いあごひげ。とってもきれいできれいで、猫ちゃんの毛みたいだった。それでね、叔父さん、パパと一緒にいると、そのお爺さんがうちの庭に来て、悲しい悲しい歌を歌うの。——わたしが泣くと、パパはいつもお前はお莫迦さんだね、そんなもの気にするんじゃないよ、って言ったわ。でもそんなこと言われたって、私は感動したんだもの。それからね、叔父さん。お爺さんのきれいな目は動いたことがなかったの。少しもよ。それで、わたしは一度こんなふうに訊いたわ。《ねえお爺さん、どうしてわたしを見てくれないの?》——《お嬢ちゃん、わしが目しいだからだよ》——わたしは意味がわからなくって、パパに訊いたの。パパが教えてくれて——わたしってお莫迦さんじゃない?——ベッドの中で眠りにつくまで泣いたわ!だけど、ねえ叔父さん、何も見ることができないなんて、とってもかわいそうじゃない!いつも暗闇の中にいるなんて、きっととっても寂しい寂しいわ。でもお爺さんは、いつだって楽しそうだった。
 それから、お爺さんは犬も飼っていたの。ああ、可愛い犬だった!あれ?変ねえ、名前が思い出せないや。でもまあ、わたしはその犬が大好きだった。ママの戸棚からこっそりもらったお砂糖をあげたこともあったわ。
 あっ!叔父さん、そんなに目を丸くしないでよ。自分のためじゃないってわかってるでしょ。じっとしてられなかったのよ。
 でもすごくおかしな犬だった。お爺さんが《プロシアのためにジャンプ!》って言うと——ただ唸るだけ。怖い怖い声で。するとお爺さんは言うの。《黙らんか、老いぼれの不平屋め!ご令嬢が怯えておられるぞ!》って。ご令嬢って私のことよ。それで今度は《フランスのためにジャンプ!》って言うと、もうその犬ったら飛び跳ねて飛び跳ねて、なんだろう、昔サーカスで見たピエロみたいだった。その犬はお爺さんに何でも持ってきて、お爺さんの食べ物も買いに行ってたのよ。——ほんとだってば、叔父さん。お金をくわえてパン屋まで行って、パンをくわえて帰って来るの。ああもう、何か持ってきた時の得意そうな顔ったら!
 それでね!叔父さん、ある日からこんなふうに、お爺さんはやって来なくなったの。変じゃない?きっと死んじゃったんだって、時々わたしは思うわ。あんなに年をとっていたんだもの!あの犬もきっと吠えたでしょうね。犬は人が死ぬと吠えるって言うから。そうね、叔父さん、わたしがお莫迦さんだって言うんでしょ。でもね、時々夜にお星さまを見上げると、高い高い空から、あの優しい青い目がわたしを見てるような気がするんだ。

第一章 家族/少年時代/初等学校

 マルセル・シュウォッブはラビと医者を輩出した家系の出である。一方には科学、他方には慈しみがあった。

 母方は、厳格で卓越したカアン家であった。マルセル・シュウォッブはよくこう言っていた。《僕たちの不幸はカアン(Cahun、Câymとも)の子であることだよ。もっとも、そのおかげで愚か者にはならずにすんだけれどね》。

 父、イサーク=ジョルジュ・シュウォッブ*1バーゼルで、もともとグレ*2出身の家庭に生まれた。祖父のレオポルド・シュウォッブ*3は、サント・エレーヌ勲章を授与されている。ジョルジュ・シュウォッブはギュスターヴ・フローベールの同級生で、テオドール・ド・バンヴィルやテオフィル・ゴーチエが籍を置く文学サークルに所属していた。彼はボードレールの『海賊=魔王』*4紙に寄稿し、またジュール・ヴェルヌと共同で一篇の戯曲をしたためたが、これが成功を収めることはなかった*5フーリエ主義の運動に深く傾倒した彼は、『平和民主主義』*6紙上で執筆を行った。しかし、彼は早くに文学からは手を引いた。保険の調査員を経て、健康上の理由からエジプトで十年間を過ごすことになった彼は、イタリア語の知識も駆使して、エジプト学士院の秘書官やシェリフ・パシャ*7の執務室長、ヘディーヴ*8の外務公使などをつとめた。

 マルセル・シュウォッブの母マチルド*9は、厳格で教養あるカアン家の女性であった。もともとはシャンパーニュ地方のカアン(Caym)氏の出で、彼女の息子はよく、ジョワンヴィル*10が海外遠征に連れて行ったというサント=ムヌー*11のカアンの話をすすんでしたものだった。《二年の間、その者は、かつて身の回りや故国で傍に置いた誰よりもよく私に仕えた……》と、聖王ルイの重臣は語っている。この人物については、カアンの家に伝えられた伝承がある。このカアンは、ジョワンヴィルに向けて振りおろされた剣の一撃を払いのけ、サン=ジャン・ダクル*12の手前で主君の傷の手当てをし、さらにコレラを治療したという。

 他にも多くのユダヤの伝承が、マルセル・シュウォッブの幼年期を育んだ。彼は時に身内の者とのつきあいを避けたがるところがあったが、自らの民族には誇りを抱いていた。それらの伝承は、彼の叔父レオン・カアン*13が、『ユダヤの暮らし』という素晴らしい本にまとめている。この本はフランスからの贈りもの、真に誰もが知るに値する偉大な書物である。

 同書の中で、著者はアンセルム老の話を語っている。ラビであり一家の長老であったマルセル・シュウォッブの母の祖父*14は、また政教条約の時代*15におけるユダヤ教長老会議の議長でもあった。彼が育てた十五人の生徒たちは、ホッホフェルデン*16ユダヤ人コミュニティの希望だった。彼らはロモンのフランス語文法をがむしゃらに学び、シナゴーグで祈りの書のヘブライ語を覚える以上の熱心さで九九の表を習った。小学校の壁の大きな掲示板には、ストラスブールで印刷された世界史一覧が張られていた*171830年に国民衛兵*18が結成されたとき、アンセルムは伍長の徽章をつける栄誉にあずかった。男前で女性に人気のあった彼は、シナゴーグで素人説教を行った。ラビも聖歌隊員も、あえて口を挟むことはなかった。彼には文法やタルムードやカバラの知識があったからだ。彼にはカトリック司祭の友人がいて、新刊の文学作品を貸してくれた。それから、トゥーレ大尉というのは、第一帝政時代の元軍人で、彼の間借り人でもあったが、ある日、名士の居並ぶ前でこう言った。《メイエールさん、私が北京の要塞の司令官となったあかつきには、貴君を秘書官に連れて行きますぞ、いやはや!》。生徒たちの学費が払い込まれる時期には、緑の礼服に白いネクタイを締め、花柄のベストをまとった身なりでテーブルに着き、上質のアルザスワインと、鯉とカワカマス料理に舌鼓を打つアンセルムの姿が見受けられた。そうしてこの老いたラビは、魔法のランプやアリ・ババの話、他にも百もの東洋の物語を語って聞かせるのだった。彼の妻は、ありとあらゆる騎士道もののバラードを知っていて、『シリュス』や『クレリー』*19のような小説を読む際にも、しつけよく作法を心得ていた。

 勇敢なるアンセルムは、より近代的であった。スキュデリー嬢の作品は彼の書庫から消え、ジャンリ夫人*20がとって代わった。彼は物知りであった。村では、アフリカで兵役に就いた人々*21を遠方から受け入れていた。やって来た人々は、シナゴーグで、徽章と赤い房飾りをつけた口髭の軍人に出会うこととなった。アンセルムはドイツにとっての脅威であった。ミサの日には煙草を吸わず、噛み煙草を噛んだ。この方便は、革命暦の二年*22に、クレベール将軍とオーベール・デュバイエとともに戦ったマインツで身につけたものだった。

 ここで触れておきたい一幅の光景がある。真に迫った魅惑を放つ彩色版画の間に飾っておきたいようなその光景は、幸いにも、エルクマン=シャトリアン*23が『友なるフリッツ』の中で描いてくれたものである。家の小さな丸テーブルを囲み、一家の主、祭司、また王として、父親の尊厳のすべてをもって子供たちに向かい合う彼の姿。イスラエルの男たちは、天幕の下でも、ユダヤの山々の砦に囲まれた農地にあっても、しゃんと伸ばした首すじを曲げたりしないことを、アンセルムは知っていた。カアン家はユダヤ王国の兵士の出で、先祖はベニヤミンの射手や投石兵であったと言われていた。彼は神の戦士エズラから始まる祖先たちの家系図の写しを持っていて、オリジナルはメッスのシナゴーグに保管されていた。ジョワンヴィルの従者についての家の伝承を物語り、レヴィ公爵家*24の先祖がかつてカアン家に仕え、手水の水差しを差し出す係であった話を何度も口にした。レヴィ家と同じく、カアン家も自分たちの紋章を持っていた。

 フランス革命のおかげで、ユダヤ教徒は二度目の「出エジプト」を経験することになった。中には黄金の仔牛やファラオの鍋*25を望む者たちもいたが、それ以外の者は、兵士や芸術家、詩人に技術者、なかんづく種々の職人となった。アルザスユダヤ教徒たちは、故国フランスを愛した。ドイツの同宗の徒には気の毒なことだったが。大学は彼らの新たな寺院であった。

 息子が移り住んでいたことから、アンセルム老はパリに鉄道でやって来ると、その遠征先にささやかな拠点を設けた。彼はセーヌ左岸のとある寄宿舎で講義を行った。カルチエ・ラタンに住み、医学校通りの建物の五階、学生や教授や中等学校の生徒たちに囲まれた場所に居を構えた。彼は無宗派の小学校に職を得ることを望んでいた。祭りの日や亡くなった両親の命日には、ビエット通りの小さな礼拝堂の典礼に参加するため、二つ折り版のマハゾール*26を抱え、足取りも軽く出かけて行った。そこには、アルザス・ロレーヌ地方出身の同宗の徒が集まっていた。ヴィエイユ=ド=タンプル通りのウォルムゼルは、すでに四分の三以上パリっ子であった。ちびのブリュムはユダヤ暦の製作家。レヴィ老はセケス祭*27のためにナツメヤシの枝を切る。レーマンはかつてイスラエルの婚礼と祝宴向けの店を持っていた。礼拝堂で、アンセルムは芸術について彫刻家と、文学について詩人と語った。しばしば彼はクロッシュ=ペルス通りで肉製品を商うマニュエル・ストロースと一緒になった。この男こそは、アルザスでお馴染みの胡瓜の塩漬けや、コッハー風ソーセージに燻製牛肉を、パリに普及させた立役者であった。

 子供たちのアルザス訛りは間もなく消えていった。彼らはサン=ルイの高等学校で学んだ。セケス祭の日には、医学校通りの五階に仮庵を建てるわけにもいかないので、ナツメヤシの枝一本とシトロンひとつだけ、そして梨や葡萄を手に入れてきた。年上の娘たちは、マルセル・シュウォッブの母もその一人だったが、英国清教会の運営する寄宿制の学校が引けてからやって来て、初めて父のテーブルについた。《そして、大きく開け放たれた南向きの窓から、フランスの太陽が、いっぱいの光の熱と、陽気さと、とらわれのない思考と、生命の息吹を投げかけていたのだった!》

 彼女たちはなんと大きく、強く育ったことだろう、そしてまたなんと多くの語り合うべき事のあったことか!そのころにはすでに、アルザスの奥田舎からやって来たユダヤ人教師は、すっかりギリシア・ローマ文明化されていた。彼は、過越の祭*28の祝宴で歌われる古い賛歌に《キロノエ、キロイオエ》とあるのが、おそらく古代のバッカスの祭りの《イオエ、エウオエ》というリフレインからきたもので、その音楽はローマの軍団が行進するときのものにほかならないことを知っていた。唯一神の概念や、奴隷状態からの解放を祝う祭りに、彼はギリシア風の心地よく楽しげな想像力を混ぜあわせた。エルサレムの寺院の祭壇に、ユダヤ人たちを犠牲に捧げたというマケドニアアレキサンダーの伝説を、彼は知っていた。そのユダヤ人たちは、ペルシアの王と戦うために武器を取るのを拒んだのだという。彼はまた、パラス・アテーナーやミュリッタやイアッコス*29の魅惑から身を護るため、 ユダヤの民が必死で抗わねばならなかったこと、また彼らがフェニキアの淫蕩な女たちの愛撫にも、ギリシア勝利者たちの恩寵にも屈することがなかったことを知っていた。

 こうした申し分のない環境で、レオン・カアンは育った。そしてその精神的な息子となったのが、マルセル・シュウォッブだったのである。

 

 マルセル・シュウォッブは、シャヴィル*30の教会通りで、1867年8月23日に生まれた*31。父はエジプトから戻ってきたばかりで、その後間もなくトゥールに身を落ち着けることになった。その地で、普仏戦争ただ中の1870年、ドイツ占領期に、彼は共和主義の日刊紙を創設することで国防政府*32に奉仕した。こうして、ジョルジュ・シュウォッブはトゥールの人々の政治感情に革命をもたらしたのである。彼はガンベッタを迎え入れ*33、市議会にも参加した。

 そのころ、マルセル・シュウォッブは脳性の発熱に悩まされていた。もっとも古い想い出として、彼がこう語るのを聞いたことがある。父の貯蔵庫からワインをくすねたこともあるプロシア人たち*34が、家の階段を上る時には、ある種の思いやりと呼べるものを示すのだった。早くも脳に言葉をつめこみすぎて、頭を患っている子供を苦しめることがないように、彼らは靴を脱いで段を上ったのだ。というのも、マルセル・シュウォッブは三歳でドイツ語と英語を話すことができたのである。

 1876年、父が『ロワールの灯台』紙をエヴァリスト・マンガンから買い取ったことで、一家はナントに住むこととなった。ジョルジュ・シュウォッブが引き継いだこの古い日刊紙の創刊は18世紀に遡るが、以来ずっと、大いなる自由主義の刻印を捺された宣伝と商業広告を掲載し続けてきた。復古王制期*35や、とりわけ帝政期*36には、マンガン家の人間は投獄された経験もある。当時、『灯台』紙は西部フランスで唯一の自由主義紙で、ヴィクトル・ユゴーミシュレ、リトレ、ジョルジュ・サンドらが寄稿していた。マンガンはそれを共和主義の紙面に変えた。この地では革新的なことであったが、党派的な排他性とは無縁であった。街にやってきたばかりのよそ者にとって、マンガンのやってきたことを引き継ぐのは苦労の多い難しい仕事だったが、ジョルジュ・シュウォッブの持ち前の誠実さと善良さと熱意に、すぐに周りは一目置くようになった。

 こういうわけで、マルセル・シュウォッブは少年時代をナントで、教養あるジャーナリストの父と、すぐれた教師であった母のもとで過ごすこととなったのである。彼ら両親の傍らで、生涯にわたって熱烈に愛読しつづけることになるテオフィル・ゴーチエへの崇拝も始まった。

 マルセル・シュウォッブは父親を愛していた。母親に対しては、畏怖に覆われた愛情を感じていた。つまるところ、一家はとても強く結ばれていた。マルセルは、自分がこの強い女性に負っているもの、子供たちを一人前に育てるのに両親が乗り越えねばならなかったさまざまな困難や、彼らに住み込みの英語教師とドイツ語家庭教師をつけるため、自分たちが大きな犠牲を払って倹約していたことなどをよく心得ていた。私は、マチルド・カアンの少女時代の肖像写真を見たことがある。秀でた額を縁どる聖母風の黒髪に、マリアのような褐色の瞳。唇のかたちはマルセルそっくり。ゆったりとした黒絹の衣服の下のすらりと細い腰は、ジラルダンの最初の妻*37の友人でもあったこの女性の美点であった。また私はずっと後年になって、固くこわばった老婦人の顔もかいま見た。マルセル・シュウォッブの母の子供たちへの愛には、少々専制的なところがあった。確かに彼女は子供たちを導こうとしていたのだったが、自立した息子を遠くから徹底的に監督しようとする誤ちも犯した。晩年にはほとんど視力を失い、息子よりも長らえることとなった。

 マルセル・シュウォッブは、好きではなかったナントについても、身内の事柄についても、すすんで話そうとはしなかった。彼はただ自分の民族と、とりわけ両親から与えられた教えに誇りを抱いていた。ナントで過ごした六年目の1879年、学校の受賞者名簿には、最優秀賞のほか、ラテン語翻訳、ラテン語作文、国語、ギリシア語演習、算数、暗誦の受賞者に彼の名前を記している。彼はまた英語の一等賞もとっていたが、英会話の流暢さはイギリス人と変わらぬほどであった。彼の同級生には、ミレイエ博士、ナント伯、そして市の助役となったアレクサンドル・ヴァンサンがいた。引きつづく学年(1880-1881)の受賞者名簿も、同じくらい様々な分野でのマルセル少年の才能を証している。

 少年には魅力があった。十二歳の時の肖像写真には、すでに青年期の特徴をみとめることができる。その視線の鋭さ、美しい額、肉づきの良い少し厚ぼったい唇、生き生きとした手。すべては支配者たちの民族によく似ており、どこかしらローマの大理石像の若きアウグスティヌス帝を髣髴とさせるところがあった。この少年時代の雰囲気を、マルセル・シュウォッブは生涯保ちつづけた。

 その頃の彼は、なんと陽気であったことか。私の知る彼は、物静かであると同時に熱狂的な人物だったけれど、当時は、中等学校まで行くのに、仔犬の鳴きまねをしながらナントの通りを渡っていったのだ!彼の住んでいたカンブロンヌ大通り、当時新聞社のあったスクリブ通りから、高等学校の方へ降り、荘厳なカテドラルの前を通って、気高きルイ十六世広場を横切ってゆく。建物の立ち並んだ古いナントの街並み、鉄道に沿った、洗練された手すりのある桟橋、川船、島々と平底舟、 活気にあふれた騒がしい街の雰囲気を醸し出す煙と蒸気、それらのものは、マルセル・シュウォッブの作品になにひとつ跡を留めてはいない。ただし、冒険好きの傾向はすでに彼の中にあって、そのころ英仏海峡を泳いで渡ったイギリス人船長の偉業*38に夢中になり、間違いなくこの時代の彼の神であったジュール・ヴェルヌに手紙を書いていた。

 当時のマルセルは風変わりな子供で、エドガー・ポーの愛読者だったが、英語やドイツ語の家庭教師たちを遠ざけてひとりきりで本を読みたがった。音楽にも多感な性質で、その点は後に完璧な音楽家となる姉のマギー*39と同様だった。リズムと数が、早くも彼を支配していたのだ。六年次生の時に、オーギュスト・ブラシェの『比較文法』を耽読し、すっかり身につけてしまったのには、その本を貸した教師のラロンズ氏も驚嘆したものだった。1882年に、マルセル・シュウォッブはサント=バルブ校*40に転校し、パリに住むことになった。パリでの下宿先は叔父のレオン・カアンのもとであった。つまりは、マザラン図書館*41ということである。

 彼の少年時代を通じて、これこそもっとも重要な出来事だった。レオン・カアンは、マルセル・シュウォッブにとって冒険との出会いであり、そしてまた真の学問と博識との接点であった。かの叔父は、はじめから小さな古典研究家に対する敬意をもって彼を扱い、その真の師となったのである。

*1:Isaac "George" Schwob 1822-1892。

*2:フランス東部オート=ソーヌ県のコミューン(地方自治区)。

*3:Léopold Schwob 1796-1872。

*4:1823年に創刊された、芝居や文学、芸術などを扱う日刊紙『海賊』(Le Corsaire)を前身とし、ペトリュス・ボレルが編集長を務めた同ジャンルの『魔王』紙(Le Satan、1844-1847刊)と合併して『海賊=魔王』(Le Corsaire-Satan)となった。ボードレールは同紙の編集者であった。1858年終刊。

*5:1849年の通俗喜劇『アブダッラー』(Abd'Allah)を指す。同作は上演されずに終わった。

*6:『四運動の理論』『愛の新世界』等の著作で知られるシャルル・フーリエ(Charles Fourier 1772-1837)の提唱した、農業共同体に基づく社会の実現を目指すフーリエ主義者の機関誌。1843-1851刊。

*7:Chérif Pacha 1826-1887。後にエジプトの首相を三度つとめた政治家。

*8:Khédive。副王の意で、1867年6月から1914年12月までのエジプト国家元首の称。その下に首相が置かれた。

*9:Mathilde Cahun 1829-1907。

*10:ジャン・ド・ジョワンヴィル Jean de Joinville 1224-1317。ルイ9世(聖王ルイ)の伝記作者として知られる。シャンパーニュの貴族の家に生まれ、1248-1254年の第七回十字軍に参加した。この時のことは彼の『聖王ルイ伝』に記されている。

*11:フランス北東部マルヌ県のコミューン。かつてのシャンパーニュ州に属する。

*12:アッコ Acco。イスラエル北部、西ガラリヤ地方の港湾都市。1192年、エルサレム王国(十字軍によって1099年に建設された国家)の首都となる。1291年、マムルーク朝のアシュラフ・ハリールの率いるイスラム軍によって陥落、エルサレム王国も終焉を迎えた。

*13:Léon Cahun 1841-1900。マチルドの弟。『ユダヤの暮らし』La Vie Juive は1885年の著作。

*14:著者シャンビオンはここでアンセルムをマルセルの母の祖父、すなわちマルセルの曾祖父としているが、アンセルム・カアン Anselme Cahun 1785-1854 はマチルドの父メイエール・カアン Mayer Cahun 1795-1860の兄で、マチルドには伯父、マルセルには大伯父にあたる。レオン・カアンの『ユダヤの暮らし』は、アルザスユダヤ人たちの日々の暮らしを物語風に描いた作品で、主要人物として登場する「アンセルム老」(bonhomme Anselme)は、Anselme Mayer とも呼ばれており、マルセルの祖父(レオンの父)のメイエールとその兄のアンセルムをモデルとして作られた人物と思われる。

*15:1789年に始まったフランス革命キリスト教が非国教化した後、1801年にナポレオンがローマ教皇ピウス7世との間に修好条約を結んだ以降の時代を指す。条約は1905年の政教分離まで保持された。

*16:フランス北東部バ=ラン県のコミューン。アルザス地方北部に位置する。

*17:ユダヤの暮らし』によれば、アンセルム老は国語、ドイツ語、歴史、算数、幾何の教師であり、この一覧表も自分で作成したものという

*18:国民衛兵 la Garde nationale はフランス革命期に創設された民兵組織。はじめパリで結成され、国内各都市に広まった。その後ナポレオンにより武装解除されたが、1830年七月革命後に復活した。この時の再結成は実際には1831年に行われている。

*19:『シリュス』(Artamène ou le Grand Cyrus、全10巻、1648-1653)、『クレリー』(Clélie、全10巻、1654-1661)は、17世紀の作家、マドレーヌ・ド・スキュデリー Madelaine de Scudéry 1607-1701 の大河小説。スキュデリーは、古代ギリシア・ローマやエジプトを舞台にとりつつ、当時のフランス上流社会の人々を想起させる登場人物を配した作風で人気を博した。

*20:Madame de Genlis 1746-1830。フランス貴族出身の作家、教育研究家。とくに児童教育の理論で知られた。

*21:復古王政最末期の1830年6月に、フランスはアルジェリアへ出兵し、軍事力による占領支配を開始する。1834年アルジェリアをフランス領に併合し、その後植民地化が進む中でも、抵抗勢力との戦闘は断続的に続いていった。

*22:グレゴリオ暦の1793年9月22日から1794年9月21日に相当。革命期のフランス軍は1792年10月にライン川流域のマインツに侵攻し、革命とマインツ共和国の樹立を宣言した。1793年7月に反革命軍の攻撃を受けフランス軍は撤退するが、このマインツ攻防戦の際、クレベール Jean-Baptiste Kléber 1753-1800 とオーベール・デュバイエ Aubert Dubayet 1757-1797 は、ともに准将としてフランス軍を率いた。

*23:エミール・エルクマン Émile Erckmann 1822-1899 と アレクサンドル・シャトリアン Alexandre Chatrian 1826-1890 の二人による筆名。両者はともにロレーヌ地方のモゼル県に生まれ、共同で多数の作品を遺した。怪奇小説作家としても知られたが、アルザス・ロレーヌ地方を舞台とした愛国的な作品も著し、1870年の普仏戦争以降アルザス・ロレーヌがドイツ領となった時代にとくに注目された。「1813年のある新兵の物語」の副題を持つ『友なるフリッツ』Histoire d'un Conscrit de 1813l'Ami Fritz 1864年の著作。

*24:レヴィ家は中世からつづくフランスの家系のひとつで、1732-1734年と1785-1863年の間、公爵の爵位を与えられていた。

*25:黄金の仔牛は旧約聖書出エジプト記32章、神から十戒の石版を授かるためシナイ山に赴いたモーセを待ちかねたイスラエルの民が、新しい導き手として造り出した仔牛の黄金像。偽りの神であり拝金主義の象徴。ファラオの鍋は出エジプト記16章、モーセに率いられエジプトを脱出したイスラエルの民がシンの曠野で飢えに苦しんだ時、エジプトの地で肉の鍋の前に座りパンを飽食して、神の怒りに触れて死んだ方がましだったと不平を漏らした言葉を指す。

*26:ユダヤの祭日に用いる祈祷を集めた書物。

*27:セケス Sékess はユダヤの仮庵の祭り Soukkoth のアルザス方言。仮庵の祭りは、ユダヤ暦の第七月(グレゴリオ暦では9月〜10月)の15日から七日間にわたって行われる祭りで、エジプト脱出時に曠野で天幕に寝泊まりしたことを記念し、木の枝で仮庵を建てて住む。また、ナツメヤシ、ミルトス、柳などの枝とオリーブあるいはシトロンなどの実を束ねて振る儀式を行う。

*28:過越の祭りもイスラエルの民のエジプト脱出を記念したユダヤの祭りで、ユダヤ暦の第一月(グレゴリオ暦では3月〜4月)の15日から一週間にわたって行われる。

*29:パラス・アテーナーギリシアの智恵や芸術と戦いの女神アテーナーの異称。ミュリッタはヘロドトス『歴史』第Ⅰ巻199章に登場するバビロニアの女神。バビロニアの女性は貴賤を問わず、生涯に一度ミュリッタの神殿に赴き、訪れた男に選ばれて任意の値で一夜を買われるまで帰郷することはかなわないという。イアッコスはギリシアの女神デーメーテールの祭儀、エレウシスの秘儀において、アテナイからエレウシスの地まで、入信者の行進を導く少年神。アリストパネスの喜劇『蛙』に、この行進の様子が描かれている。

*30:パリ郊外の西南部に位置するコミューン。

*31:〔原注〕シャヴィル戸籍係、メイエール・アンドレマルセル・シュウォッブの出生届による。証人は公立小学校教員のジャン=フランソワ・ファンキュー氏。

*32:1870年9月にナポレオン3世がプロイセン軍の捕虜になると、共和派議員のレオン・ガンベッタ Léon Gambetta 1838-1882 はパリで共和国宣言を行った。かくて第二帝政は終わりを迎え、国防政府 Gouvernement de la Défense nationale が成立した。

*33:国防政府の内相に就任したガンベッタは、パリがプロイセン軍に包囲されると気球でパリを脱出し、トゥールに拠点を移して抵抗をつづけた。

*34:2000年に刊行されたシルヴァン・グドマール Sylvain Goudemare による新たなシュウォッブの伝記『マルセル・シュウォッブもしくは架空の伝記』 Marcel Schwob ou les vies imaginaires に引かれた、マルセルの兄モーリスの書簡によると、この「プロシア人」は後文に見えるドイツ語の家庭教師のことを指し、彼らはイエナ大学の関係者であったという。

*35:ナポレオン1世退位後の1814年から1830年七月革命までの期間。

*36:第一帝政はナポレオン1世が皇帝に即位した1804年から1814年の退位までと、幽閉されたエルバ島を脱出したナポレオンが復位した1815年の一時期、第二帝政はナポレオン3世が皇帝に即位した1852年から1870年まで。

*37:デルフィーヌ・ド・ジラルダン Delphine de Girardin 1804-1855。ゴーチエ、バルザックユゴーらとも交友のあった作家。夫のエミール・ド・ジラルダン Émile de Girardin は当時の著名なジャーナリスト・政治家。

*38:1875年8月24日から25日にかけて、イギリス人マシュー・ウェッブ Matthew Webb、通称ウェッブ船長が、イギリスのドーバーからフランスのカレーまでを単独で泳いで渡り、初の英仏海峡遠泳横断の成功者となった。

*39:マリー=マルゲリート・シュウォッブ Marie-Marguerite Schwob 1863-?。マギーは Marguerite の愛称。

*40:パリのカルチエ・ラタンに位置するパリ大学の付属校。1999年閉校。

*41:17世紀の枢機卿ジュール・レモン・マザラン Jules Raymond Mazarin 1602-1661 の個人蔵書をもとに設立された図書館。ルーブル美術館と向かいあうセーヌ左岸に位置する。1643年から研究者に開かれ、パリ最古の公共図書館となった。マザランの死後、遺言により建てられたカトル=ナシオン校 Collège des Quatres-Nations(パリ大学付属校)の一部となる。1805年にはフランス学士院の本部がカトル=ナシオン校の建物に置かれ、現在は学士院宮殿 Palais de l'Institut と呼ばれている。学士院職員としてマザラン図書館の管理員をつとめていた叔父レオンは、この建物内に住居を与えられていたのである。

わが記憶の書 IL LIBRO DELLA MIA MEMORIA

イメージの《章》*1

 わが記憶の書のその箇所に−−それより前にはとりたてて読むべきものとてない−−、とある章題が記されている……
 ダンテ・アリギエリ
*2


1 キリストと小夜鳴鳥


 聖なる金曜日
 キリストは十字架のうえで瀕死のてい
 弟子たちはおそれおののき逃げ散った
 マリアは涙も涸れて家路についた
 きっと彼はよみがえる
 ところがよみがえったのはべつの男
 弟子たちが見つけだしたのは彼とよく似た赤の他人
 マリアとマグダラのマリアとわが目を疑う巡礼者たちの前にあらわれたのはその男
 うち棄てられたキリストは
 十字架のうえで最期のときを待っている、焼け焦げた、茨のはびこる峡谷の地で
 それは日曜の朝のこと
 贋者はここに復活し、苦悶にうめくキリストが耳にしたのは遠いどよめきと喜び歌う人々の声−−主ヨ、アワレミタマエ
 それからまた沈黙がおとずれた
 聖なる日曜のあらたなしじま
 すると小石のころがる穴のへりから野兎が顔をのぞかせた
 小夜鳴鳥が飛んできて茨の枝からじっと見た
 そして小さな小夜鳴鳥はイエスに話しかけたのだった


2 ある本の想い出


 大好きな本をはじめて読んだときの想い出は、その場所の記憶や、刻と光の記憶と不思議に混じりあっているものだ。今日でも私の目にはあの瞬間と変わらぬ十二月の緑がかった靄をとおして、あるいは六月のまばゆい陽ざしに照らされて、いまはもうない懐かしい小物や調度に囲まれた本の頁が浮かびあがる。長いあいだ窓を見つめたあとで目を閉じると、その透明なまぼろしがまなうらの闇にたゆたうように、文字の書かれた紙葉が記憶の中で輝きを増し、昔日のひかりを取り戻すのである。匂いもまた記憶を呼び覚ます鍵となる。私がはじめて手にした本は、子守の婦人がイギリスから持ってきたものであった。私は四歳だった。彼女のものごし、ドレスのひだ、窓の向かいの裁縫台、赤い表紙の新しく輝く本、そして頁の間から立ちのぼる鼻に沁みる〈匂い〉を、いまもはっきりと思い浮かべることができる。イギリスの新刊書は、いつまでも真新しいインクと防虫剤のつんとくる匂いがする。私はこの本を通じて読むことを学んだのだが、そのことはいずれまた話そう。匂いについて言えば、それはいまも私に、新しい世界をかいま見る震えるようなときめきと、知ることへの渇望をもたらしてくれる。いまでも私は、イギリスから新しい本が届くと、決まって開いた頁のとじ目まで鼻先をうずめ、立ちのぼるかすみともやをかぎ、わが子供時代の喜びの残り香をあますところなく吸いこむのである。


3 本と寝床


 寝床での読書のうちには、安らぎにつつまれた知のよろこびと満足がないまぜになっている。だがその質は齢とともに変わってゆく。
 十五のころ、夜、寝床についてからむさぼり読んだ長い小説の、いちばん面白かった頁を思い浮かべてみたまえ。霧につつまれたように薄暗がりへ溶けこんでゆく時刻、燭台の蠟燭はパチパチと音を立てながら燃え尽き、青く揺らめいて消える。朝になれば私は五時前に目を覚まし、長枕の下の隠し場所から、国立図書館発行の五スーの小さな本を取りだしたものだった。そうやって私は、ラムネーの『信仰者の言葉』や、ダンテの『地獄篇』を読んだ。以来、ラムネーを読みかえしたことは一度もないが、七人の人物たち(記憶違いでなければ)の恐ろしい晩餐の場面はいまも印象に残っている*3。そこには、もっと後にポーの短編のなかで知ったいわゆる振り子刃の音が鳴り渡っていた。私はその小さな本を枕の上に置き、朝一番のほのかな陽の光に照らした。そして腹ばいに寝そべり、おとがいを肘でささえ、言葉を胸に吸いこんだのだった。あれより心地よく本を読んだためしはない。つい先日の夜、私はかつての五時の姿勢をふたたびこころみてみたのだが、長くはつづけられそうになかった。
 ある日、魅力的なスラブ系の婦人が、読書をするのに《理想の》姿勢がどうしても見つからないと、私に訴えたことがある。机に向かって席に着いても、本との《交感》など望むべくもない。もっと近づきたくて両手のあいだに顔を寄せると、血がのぼって溺れそうな気になるのだ。ソファーではすぐに本が重荷に変わってしまう。寝床に仰向けでは腕が冷たくなってくる。手もとが暗いこともしょっちゅうだし、頁を繰るのも億劫だ。かといって横を向けば、本の片側が手からすりぬける。とてもこれが正しい姿勢とは言えない。
 とはいえ、そんなことに悩まされずにすむ方法もある。善良な人々が言うように《目に悪いからよしなさい》というわけだ。読書など少しも好まないのが、善良な人々というものだ。
 不意をつかれるおそれもなく護られてあることの喜び、どんなに大胆な空想でも安心して羽をひろげられる喜びを、歳月だけがすり減らしてゆく。安逸で暖かな孤独、夜の静寂、睡りのおとずれにつれランプの下で照り映える家具と思考とをつつみこんでゆく金色の輝き、わが身のかたわら、心のすぐそばに、愛する本があることの確かな喜びはいつまでも残る。寝床で《睡眠薬》がわりに本を読むような人たちは、神の食卓につくことを許されながら、不死の美酒を錠剤にしてくれと頼む小心者に思えてしまう。


4 《ヘスペリディーズ》


 ヘリック*4を読むことは、すなわち蜜蜂とミルクを読むことである。言葉は花の精油に照り輝き、ナルドの香油で磨きあげられ、かぐわしい露のしずくをちりばめられている。その詩は、小さな黄金の翼をはためかせながら永遠に向かって飛翔する。必要なのは、『ヘスペリディーズ』をひもとき、安息香の香気につつまれるようにただちに目をひたすことだけだ。あらゆる詩句は目ににおう薫りに彩られている。真あたらしい純白の蠟と霧氷、豊かに花粉をつけた蘂、蝶の鱗粉、薔薇色をした雛菊の柔らかな花冠。ヘリックの頭は巻き毛で鷲鼻、顔の造作はみな、黄金のあぶくを吹きだす唇のほうへ寄りあつまっている。詩想の泡でふつふつと湧きたつワインが彼を酔わせていた。極薄の玻璃の集涙壺*5でその詩歌をあおるがいい。ひとときのあいだ、君はこのうえなく白い春と金色のかぎりに輝く夏とにとりまかれることだろう。だが読み過ぎにはご注意。薔薇の海に溺れてしまわないように。


5 ロビンソン、青ひげ、アラジン


 読者にとって最高の楽しみは、作者にとっても同じことだが、ごっこ遊びの楽しみである。子供の頃、私は北極への旅の物語*6を読むのに、屋根裏部屋に閉じこもり、コップの水にひたした乾パンを食べながら読んだものだった。たぶん、お昼はしっかり食べていたのだろう。だがそうやって、私はいっそう自分の英雄たちの窮状を分かちあっているつもりになっていたのだ。
 真の読者は、ほとんど作者と変わらぬほどの創り手である。ただ、読者は行間で創作をおこなう。頁の余白を読むことを知らない者は、決して本の美食家にはなれない。交響曲の音の響きと同じように、目に映る言葉はつぎつぎに湧きだすイメージを生み、君を導いてゆくのだ。
 私はロビンソンが食事をした大きな荒削りのテーブルを目に浮かべる。食べものは子ヤギの肉かな?それとも米のごはん?ちょっと待って……すぐにわかるから。おや、赤土で真ん丸いお皿ができた。ほらほら鸚鵡が鳴いてるぞ。もうじき、あたらしい小麦のおこぼれをもらえるよ。差しかけ小屋の貯えの山からみんなが盗んでくるから。病気のロビンソンが飲んだラム酒の瓶は、黒くて大きくてすじ模様が入ってるんだ。《fowling piece》(鳥打ち銃)という語が少しもわかっていなかった私は、ロビンソンの銃がどれほど風変わりなものかと想像をたくましくしていた(長いこと私は、『東方詩集』の《icoglans stupides》という言葉*7から、カメレオンの一種かなにかを思い浮かべていた。いまだに、これがただの近衛兵にすぎないと自分の想像力を納得させるのはたいへん苦労する)。
 アラジンのランプはどんなかたちをしていただろう?私の頭のなかでは、勉強部屋のオイルランプにいくぶん似ていた。アラジンがどうやって魔物をひっぱり出したのかにも、私は興味津々だった。彼が磨き砂で−−こんな言葉はどこにも書かれていないが、そう連想せずにはいられなかった。「青ひげ」の妻も鍵についた血の染みを消そうとしてこの磨き砂を使ったのだ−−こすったのは、ふくらんだ金属の胴のとある箇所だった。いまでは私は、アラジンのランプは銅製で、注ぎ口がついて蓋がなく丸みをおびた、ギリシアやアラビアのランプのようなものだと知っている。だが、もはやそれが私に《見える》ことはない。
 青ひげの鍵に話をもどそう。私の興味を惹いたのは、それが《fée》、妖精だということだった。これには考えあぐねてしまった。まったくわけがわからなかったのだ。それでも私は、ことあるごとに思案をかさねた。ところがなんということか!それは古くからの誤植だったのである。初期の版(ごくまれにしか手に入らないが)を見ると、鍵は《féée》*8−−ラテン語の fata −−、つまり魔法にかけられていたとなっている。要するに妖精のわざがかけてあったのだ。じつに明快。ただし、もはや夢見ることはできない。
 シンデレラのガラスの上履き−−このガラスがどれほどかけがえのないものに思えたことか。透きとおって、よく遊びに使ったヴェネチアの手燭台のように繊細な線細工に飾られて−−この上履きもじつは斑入りの毛皮でてきていた*9。もはやそれが《見える》ことは決してない。
 カマラルザマーン王子の壺に入った、金粉をまぶした緑のつややかなオリーブの実を、私はこと細かに思い浮かべたものだった*10。木蔦が這う苔むした崩れかけの壁いっぱいに陽の光のそそぐ下、庭師のもとで仕事に励む王子の姿も。菓子屋になったブドレッディン・ハサンの店、小さなせむし男の喉に刺さった魚の骨、毒を塗った頁の貼りついた大きな本、その茶色い革表紙に、こごった獣脂で蠟燭を立てるように、固まった血でくっついたドゥーバン医師の首……。いくたびもかえり見たくなる彩りに満ちた、愛しい、愛しいイメージの数々は、かの章のもと、わが記憶の書に収められている。


訳注

*1:本エッセーはシュウォッブの死の直前に書かれ、死後まもなく Vers et Prose 創刊号巻頭に掲載された。執筆の時点ではシュウォッブはこれを連載とするつもりだったらしく、初出時にこの見出しの前にIというローマ数字を付している。すなわち、この「イメージの《章》」は、自らの「記憶の書」のなかの一章について語ると同時に、連載エッセー『わが記憶の書』の第一章となるべきものだったと思われる。

*2:『新生』 La Vita Nuova 第一章より。

*3:フェリシテ・ド・ラムネー Félicité de Lamennais(1782-1854)はフランスのカトリック司祭・思想家。ダンテ『神曲』の翻訳者でもある。『信仰者の言葉』Paroles d'un croyant(1834)第13章に、ある闇夜、いずことも知れぬ土地に七人の王冠を戴いた人物が集まり、次々に髑髏の盃で血を飲み干しながらキリスト教を呪詛する言葉を吐く場面がある。

*4:ロバート・ヘリック Robert Herrick(1591-1674)。イギリスの詩人。女性や恋愛を歌った短詩を数多く遺した。その主なものは生前刊行された『ヘスペリディーズ』 Hesperides(1648)に収められている。なお、ヘスペリディーズ(ヘスペリデス)は、ギリシア神話において世界の西の果てにある園で黄金の林檎の樹を守る乙女たちのこと。

*5:lacrymatoire ローマ時代の葬具。泣き女の涙を入れたものと考えられたことからこの名がある。実際には葬送儀礼に用いる香油などを入れた。

*6:ジュール・ヴェルヌ Jules Verne(1828-1905)『ハテラス船長の冒険』 Voyages et aventures du capitaine Hatteras(1866)を指すか。子供時代のシュウォッブがヴェルヌの大ファンであり、ファンレターを送った経験もあることが、ピエール・シャンピオン『マルセル・シュウォッブとその時代』に記されている。

*7:icoglan はオスマン・トルコ皇帝に仕えた近衛士官。ヴィクトル・ユゴー Victor Hugo(1802-1885)『東方詩集』 Les Orientales(1829)第一部にこの「まぬけな近習たち」icoglans stupides の語が見える。

*8:《féée》は動詞 féer(魔法にかける)の過去分詞女性形だが、この箇所、現在までに本エッセーを収録した著作集・全集類(Mercure de France (1921)、François Bernouard (1930)、Union Générale d'Editions (1979)、Phébus (2002)、Les Belles Lettres (2002))ではいずれも《fée》(妖精)となっており、意味が通じない。いま、初出の Vers et Prose tome 1 (1905) に拠り改めた。

*9:シンデレラのガラスの上履き pantoufle de verre は、本来は pantoufle de vair(vair は模様の入ったリスなどの毛皮)であり、ペローの童話を仏語から英語へ翻訳する際に vair を verre に誤ってガラスと訳されたとする説が当時信じられていた。実際にはこの説には根拠がなく、今日ではペローの表現は初めから verre であったことが明らかになっている。

*10:以下いずれも『千夜一夜物語』中のエピソードから連想された光景。なお、ブドレッディン Bedreddin の名は、注8に挙げた諸本いずれも Brededdin に誤る。これも初出に拠り改めた。