第一章 家族/少年時代/初等学校

 マルセル・シュウォッブはラビと医者を輩出した家系の出である。一方には科学、他方には慈しみがあった。

 母方は、厳格で卓越したカアン家であった。マルセル・シュウォッブはよくこう言っていた。《僕たちの不幸はカアン(Cahun、Câymとも)の子であることだよ。もっとも、そのおかげで愚か者にはならずにすんだけれどね》。

 父、イサーク=ジョルジュ・シュウォッブ*1バーゼルで、もともとグレ*2出身の家庭に生まれた。祖父のレオポルド・シュウォッブ*3は、サント・エレーヌ勲章を授与されている。ジョルジュ・シュウォッブはギュスターヴ・フローベールの同級生で、テオドール・ド・バンヴィルやテオフィル・ゴーチエが籍を置く文学サークルに所属していた。彼はボードレールの『海賊=魔王』*4紙に寄稿し、またジュール・ヴェルヌと共同で一篇の戯曲をしたためたが、これが成功を収めることはなかった*5フーリエ主義の運動に深く傾倒した彼は、『平和民主主義』*6紙上で執筆を行った。しかし、彼は早くに文学からは手を引いた。保険の調査員を経て、健康上の理由からエジプトで十年間を過ごすことになった彼は、イタリア語の知識も駆使して、エジプト学士院の秘書官やシェリフ・パシャ*7の執務室長、ヘディーヴ*8の外務公使などをつとめた。

 マルセル・シュウォッブの母マチルド*9は、厳格で教養あるカアン家の女性であった。もともとはシャンパーニュ地方のカアン(Caym)氏の出で、彼女の息子はよく、ジョワンヴィル*10が海外遠征に連れて行ったというサント=ムヌー*11のカアンの話をすすんでしたものだった。《二年の間、その者は、かつて身の回りや故国で傍に置いた誰よりもよく私に仕えた……》と、聖王ルイの重臣は語っている。この人物については、カアンの家に伝えられた伝承がある。このカアンは、ジョワンヴィルに向けて振りおろされた剣の一撃を払いのけ、サン=ジャン・ダクル*12の手前で主君の傷の手当てをし、さらにコレラを治療したという。

 他にも多くのユダヤの伝承が、マルセル・シュウォッブの幼年期を育んだ。彼は時に身内の者とのつきあいを避けたがるところがあったが、自らの民族には誇りを抱いていた。それらの伝承は、彼の叔父レオン・カアン*13が、『ユダヤの暮らし』という素晴らしい本にまとめている。この本はフランスからの贈りもの、真に誰もが知るに値する偉大な書物である。

 同書の中で、著者はアンセルム老の話を語っている。ラビであり一家の長老であったマルセル・シュウォッブの母の祖父*14は、また政教条約の時代*15におけるユダヤ教長老会議の議長でもあった。彼が育てた十五人の生徒たちは、ホッホフェルデン*16ユダヤ人コミュニティの希望だった。彼らはロモンのフランス語文法をがむしゃらに学び、シナゴーグで祈りの書のヘブライ語を覚える以上の熱心さで九九の表を習った。小学校の壁の大きな掲示板には、ストラスブールで印刷された世界史一覧が張られていた*171830年に国民衛兵*18が結成されたとき、アンセルムは伍長の徽章をつける栄誉にあずかった。男前で女性に人気のあった彼は、シナゴーグで素人説教を行った。ラビも聖歌隊員も、あえて口を挟むことはなかった。彼には文法やタルムードやカバラの知識があったからだ。彼にはカトリック司祭の友人がいて、新刊の文学作品を貸してくれた。それから、トゥーレ大尉というのは、第一帝政時代の元軍人で、彼の間借り人でもあったが、ある日、名士の居並ぶ前でこう言った。《メイエールさん、私が北京の要塞の司令官となったあかつきには、貴君を秘書官に連れて行きますぞ、いやはや!》。生徒たちの学費が払い込まれる時期には、緑の礼服に白いネクタイを締め、花柄のベストをまとった身なりでテーブルに着き、上質のアルザスワインと、鯉とカワカマス料理に舌鼓を打つアンセルムの姿が見受けられた。そうしてこの老いたラビは、魔法のランプやアリ・ババの話、他にも百もの東洋の物語を語って聞かせるのだった。彼の妻は、ありとあらゆる騎士道もののバラードを知っていて、『シリュス』や『クレリー』*19のような小説を読む際にも、しつけよく作法を心得ていた。

 勇敢なるアンセルムは、より近代的であった。スキュデリー嬢の作品は彼の書庫から消え、ジャンリ夫人*20がとって代わった。彼は物知りであった。村では、アフリカで兵役に就いた人々*21を遠方から受け入れていた。やって来た人々は、シナゴーグで、徽章と赤い房飾りをつけた口髭の軍人に出会うこととなった。アンセルムはドイツにとっての脅威であった。ミサの日には煙草を吸わず、噛み煙草を噛んだ。この方便は、革命暦の二年*22に、クレベール将軍とオーベール・デュバイエとともに戦ったマインツで身につけたものだった。

 ここで触れておきたい一幅の光景がある。真に迫った魅惑を放つ彩色版画の間に飾っておきたいようなその光景は、幸いにも、エルクマン=シャトリアン*23が『友なるフリッツ』の中で描いてくれたものである。家の小さな丸テーブルを囲み、一家の主、祭司、また王として、父親の尊厳のすべてをもって子供たちに向かい合う彼の姿。イスラエルの男たちは、天幕の下でも、ユダヤの山々の砦に囲まれた農地にあっても、しゃんと伸ばした首すじを曲げたりしないことを、アンセルムは知っていた。カアン家はユダヤ王国の兵士の出で、先祖はベニヤミンの射手や投石兵であったと言われていた。彼は神の戦士エズラから始まる祖先たちの家系図の写しを持っていて、オリジナルはメッスのシナゴーグに保管されていた。ジョワンヴィルの従者についての家の伝承を物語り、レヴィ公爵家*24の先祖がかつてカアン家に仕え、手水の水差しを差し出す係であった話を何度も口にした。レヴィ家と同じく、カアン家も自分たちの紋章を持っていた。

 フランス革命のおかげで、ユダヤ教徒は二度目の「出エジプト」を経験することになった。中には黄金の仔牛やファラオの鍋*25を望む者たちもいたが、それ以外の者は、兵士や芸術家、詩人に技術者、なかんづく種々の職人となった。アルザスユダヤ教徒たちは、故国フランスを愛した。ドイツの同宗の徒には気の毒なことだったが。大学は彼らの新たな寺院であった。

 息子が移り住んでいたことから、アンセルム老はパリに鉄道でやって来ると、その遠征先にささやかな拠点を設けた。彼はセーヌ左岸のとある寄宿舎で講義を行った。カルチエ・ラタンに住み、医学校通りの建物の五階、学生や教授や中等学校の生徒たちに囲まれた場所に居を構えた。彼は無宗派の小学校に職を得ることを望んでいた。祭りの日や亡くなった両親の命日には、ビエット通りの小さな礼拝堂の典礼に参加するため、二つ折り版のマハゾール*26を抱え、足取りも軽く出かけて行った。そこには、アルザス・ロレーヌ地方出身の同宗の徒が集まっていた。ヴィエイユ=ド=タンプル通りのウォルムゼルは、すでに四分の三以上パリっ子であった。ちびのブリュムはユダヤ暦の製作家。レヴィ老はセケス祭*27のためにナツメヤシの枝を切る。レーマンはかつてイスラエルの婚礼と祝宴向けの店を持っていた。礼拝堂で、アンセルムは芸術について彫刻家と、文学について詩人と語った。しばしば彼はクロッシュ=ペルス通りで肉製品を商うマニュエル・ストロースと一緒になった。この男こそは、アルザスでお馴染みの胡瓜の塩漬けや、コッハー風ソーセージに燻製牛肉を、パリに普及させた立役者であった。

 子供たちのアルザス訛りは間もなく消えていった。彼らはサン=ルイの高等学校で学んだ。セケス祭の日には、医学校通りの五階に仮庵を建てるわけにもいかないので、ナツメヤシの枝一本とシトロンひとつだけ、そして梨や葡萄を手に入れてきた。年上の娘たちは、マルセル・シュウォッブの母もその一人だったが、英国清教会の運営する寄宿制の学校が引けてからやって来て、初めて父のテーブルについた。《そして、大きく開け放たれた南向きの窓から、フランスの太陽が、いっぱいの光の熱と、陽気さと、とらわれのない思考と、生命の息吹を投げかけていたのだった!》

 彼女たちはなんと大きく、強く育ったことだろう、そしてまたなんと多くの語り合うべき事のあったことか!そのころにはすでに、アルザスの奥田舎からやって来たユダヤ人教師は、すっかりギリシア・ローマ文明化されていた。彼は、過越の祭*28の祝宴で歌われる古い賛歌に《キロノエ、キロイオエ》とあるのが、おそらく古代のバッカスの祭りの《イオエ、エウオエ》というリフレインからきたもので、その音楽はローマの軍団が行進するときのものにほかならないことを知っていた。唯一神の概念や、奴隷状態からの解放を祝う祭りに、彼はギリシア風の心地よく楽しげな想像力を混ぜあわせた。エルサレムの寺院の祭壇に、ユダヤ人たちを犠牲に捧げたというマケドニアアレキサンダーの伝説を、彼は知っていた。そのユダヤ人たちは、ペルシアの王と戦うために武器を取るのを拒んだのだという。彼はまた、パラス・アテーナーやミュリッタやイアッコス*29の魅惑から身を護るため、 ユダヤの民が必死で抗わねばならなかったこと、また彼らがフェニキアの淫蕩な女たちの愛撫にも、ギリシア勝利者たちの恩寵にも屈することがなかったことを知っていた。

 こうした申し分のない環境で、レオン・カアンは育った。そしてその精神的な息子となったのが、マルセル・シュウォッブだったのである。

 

 マルセル・シュウォッブは、シャヴィル*30の教会通りで、1867年8月23日に生まれた*31。父はエジプトから戻ってきたばかりで、その後間もなくトゥールに身を落ち着けることになった。その地で、普仏戦争ただ中の1870年、ドイツ占領期に、彼は共和主義の日刊紙を創設することで国防政府*32に奉仕した。こうして、ジョルジュ・シュウォッブはトゥールの人々の政治感情に革命をもたらしたのである。彼はガンベッタを迎え入れ*33、市議会にも参加した。

 そのころ、マルセル・シュウォッブは脳性の発熱に悩まされていた。もっとも古い想い出として、彼がこう語るのを聞いたことがある。父の貯蔵庫からワインをくすねたこともあるプロシア人たち*34が、家の階段を上る時には、ある種の思いやりと呼べるものを示すのだった。早くも脳に言葉をつめこみすぎて、頭を患っている子供を苦しめることがないように、彼らは靴を脱いで段を上ったのだ。というのも、マルセル・シュウォッブは三歳でドイツ語と英語を話すことができたのである。

 1876年、父が『ロワールの灯台』紙をエヴァリスト・マンガンから買い取ったことで、一家はナントに住むこととなった。ジョルジュ・シュウォッブが引き継いだこの古い日刊紙の創刊は18世紀に遡るが、以来ずっと、大いなる自由主義の刻印を捺された宣伝と商業広告を掲載し続けてきた。復古王制期*35や、とりわけ帝政期*36には、マンガン家の人間は投獄された経験もある。当時、『灯台』紙は西部フランスで唯一の自由主義紙で、ヴィクトル・ユゴーミシュレ、リトレ、ジョルジュ・サンドらが寄稿していた。マンガンはそれを共和主義の紙面に変えた。この地では革新的なことであったが、党派的な排他性とは無縁であった。街にやってきたばかりのよそ者にとって、マンガンのやってきたことを引き継ぐのは苦労の多い難しい仕事だったが、ジョルジュ・シュウォッブの持ち前の誠実さと善良さと熱意に、すぐに周りは一目置くようになった。

 こういうわけで、マルセル・シュウォッブは少年時代をナントで、教養あるジャーナリストの父と、すぐれた教師であった母のもとで過ごすこととなったのである。彼ら両親の傍らで、生涯にわたって熱烈に愛読しつづけることになるテオフィル・ゴーチエへの崇拝も始まった。

 マルセル・シュウォッブは父親を愛していた。母親に対しては、畏怖に覆われた愛情を感じていた。つまるところ、一家はとても強く結ばれていた。マルセルは、自分がこの強い女性に負っているもの、子供たちを一人前に育てるのに両親が乗り越えねばならなかったさまざまな困難や、彼らに住み込みの英語教師とドイツ語家庭教師をつけるため、自分たちが大きな犠牲を払って倹約していたことなどをよく心得ていた。私は、マチルド・カアンの少女時代の肖像写真を見たことがある。秀でた額を縁どる聖母風の黒髪に、マリアのような褐色の瞳。唇のかたちはマルセルそっくり。ゆったりとした黒絹の衣服の下のすらりと細い腰は、ジラルダンの最初の妻*37の友人でもあったこの女性の美点であった。また私はずっと後年になって、固くこわばった老婦人の顔もかいま見た。マルセル・シュウォッブの母の子供たちへの愛には、少々専制的なところがあった。確かに彼女は子供たちを導こうとしていたのだったが、自立した息子を遠くから徹底的に監督しようとする誤ちも犯した。晩年にはほとんど視力を失い、息子よりも長らえることとなった。

 マルセル・シュウォッブは、好きではなかったナントについても、身内の事柄についても、すすんで話そうとはしなかった。彼はただ自分の民族と、とりわけ両親から与えられた教えに誇りを抱いていた。ナントで過ごした六年目の1879年、学校の受賞者名簿には、最優秀賞のほか、ラテン語翻訳、ラテン語作文、国語、ギリシア語演習、算数、暗誦の受賞者に彼の名前を記している。彼はまた英語の一等賞もとっていたが、英会話の流暢さはイギリス人と変わらぬほどであった。彼の同級生には、ミレイエ博士、ナント伯、そして市の助役となったアレクサンドル・ヴァンサンがいた。引きつづく学年(1880-1881)の受賞者名簿も、同じくらい様々な分野でのマルセル少年の才能を証している。

 少年には魅力があった。十二歳の時の肖像写真には、すでに青年期の特徴をみとめることができる。その視線の鋭さ、美しい額、肉づきの良い少し厚ぼったい唇、生き生きとした手。すべては支配者たちの民族によく似ており、どこかしらローマの大理石像の若きアウグスティヌス帝を髣髴とさせるところがあった。この少年時代の雰囲気を、マルセル・シュウォッブは生涯保ちつづけた。

 その頃の彼は、なんと陽気であったことか。私の知る彼は、物静かであると同時に熱狂的な人物だったけれど、当時は、中等学校まで行くのに、仔犬の鳴きまねをしながらナントの通りを渡っていったのだ!彼の住んでいたカンブロンヌ大通り、当時新聞社のあったスクリブ通りから、高等学校の方へ降り、荘厳なカテドラルの前を通って、気高きルイ十六世広場を横切ってゆく。建物の立ち並んだ古いナントの街並み、鉄道に沿った、洗練された手すりのある桟橋、川船、島々と平底舟、 活気にあふれた騒がしい街の雰囲気を醸し出す煙と蒸気、それらのものは、マルセル・シュウォッブの作品になにひとつ跡を留めてはいない。ただし、冒険好きの傾向はすでに彼の中にあって、そのころ英仏海峡を泳いで渡ったイギリス人船長の偉業*38に夢中になり、間違いなくこの時代の彼の神であったジュール・ヴェルヌに手紙を書いていた。

 当時のマルセルは風変わりな子供で、エドガー・ポーの愛読者だったが、英語やドイツ語の家庭教師たちを遠ざけてひとりきりで本を読みたがった。音楽にも多感な性質で、その点は後に完璧な音楽家となる姉のマギー*39と同様だった。リズムと数が、早くも彼を支配していたのだ。六年次生の時に、オーギュスト・ブラシェの『比較文法』を耽読し、すっかり身につけてしまったのには、その本を貸した教師のラロンズ氏も驚嘆したものだった。1882年に、マルセル・シュウォッブはサント=バルブ校*40に転校し、パリに住むことになった。パリでの下宿先は叔父のレオン・カアンのもとであった。つまりは、マザラン図書館*41ということである。

 彼の少年時代を通じて、これこそもっとも重要な出来事だった。レオン・カアンは、マルセル・シュウォッブにとって冒険との出会いであり、そしてまた真の学問と博識との接点であった。かの叔父は、はじめから小さな古典研究家に対する敬意をもって彼を扱い、その真の師となったのである。

*1:Isaac "George" Schwob 1822-1892。

*2:フランス東部オート=ソーヌ県のコミューン(地方自治区)。

*3:Léopold Schwob 1796-1872。

*4:1823年に創刊された、芝居や文学、芸術などを扱う日刊紙『海賊』(Le Corsaire)を前身とし、ペトリュス・ボレルが編集長を務めた同ジャンルの『魔王』紙(Le Satan、1844-1847刊)と合併して『海賊=魔王』(Le Corsaire-Satan)となった。ボードレールは同紙の編集者であった。1858年終刊。

*5:1849年の通俗喜劇『アブダッラー』(Abd'Allah)を指す。同作は上演されずに終わった。

*6:『四運動の理論』『愛の新世界』等の著作で知られるシャルル・フーリエ(Charles Fourier 1772-1837)の提唱した、農業共同体に基づく社会の実現を目指すフーリエ主義者の機関誌。1843-1851刊。

*7:Chérif Pacha 1826-1887。後にエジプトの首相を三度つとめた政治家。

*8:Khédive。副王の意で、1867年6月から1914年12月までのエジプト国家元首の称。その下に首相が置かれた。

*9:Mathilde Cahun 1829-1907。

*10:ジャン・ド・ジョワンヴィル Jean de Joinville 1224-1317。ルイ9世(聖王ルイ)の伝記作者として知られる。シャンパーニュの貴族の家に生まれ、1248-1254年の第七回十字軍に参加した。この時のことは彼の『聖王ルイ伝』に記されている。

*11:フランス北東部マルヌ県のコミューン。かつてのシャンパーニュ州に属する。

*12:アッコ Acco。イスラエル北部、西ガラリヤ地方の港湾都市。1192年、エルサレム王国(十字軍によって1099年に建設された国家)の首都となる。1291年、マムルーク朝のアシュラフ・ハリールの率いるイスラム軍によって陥落、エルサレム王国も終焉を迎えた。

*13:Léon Cahun 1841-1900。マチルドの弟。『ユダヤの暮らし』La Vie Juive は1885年の著作。

*14:著者シャンビオンはここでアンセルムをマルセルの母の祖父、すなわちマルセルの曾祖父としているが、アンセルム・カアン Anselme Cahun 1785-1854 はマチルドの父メイエール・カアン Mayer Cahun 1795-1860の兄で、マチルドには伯父、マルセルには大伯父にあたる。レオン・カアンの『ユダヤの暮らし』は、アルザスユダヤ人たちの日々の暮らしを物語風に描いた作品で、主要人物として登場する「アンセルム老」(bonhomme Anselme)は、Anselme Mayer とも呼ばれており、マルセルの祖父(レオンの父)のメイエールとその兄のアンセルムをモデルとして作られた人物と思われる。

*15:1789年に始まったフランス革命キリスト教が非国教化した後、1801年にナポレオンがローマ教皇ピウス7世との間に修好条約を結んだ以降の時代を指す。条約は1905年の政教分離まで保持された。

*16:フランス北東部バ=ラン県のコミューン。アルザス地方北部に位置する。

*17:ユダヤの暮らし』によれば、アンセルム老は国語、ドイツ語、歴史、算数、幾何の教師であり、この一覧表も自分で作成したものという

*18:国民衛兵 la Garde nationale はフランス革命期に創設された民兵組織。はじめパリで結成され、国内各都市に広まった。その後ナポレオンにより武装解除されたが、1830年七月革命後に復活した。この時の再結成は実際には1831年に行われている。

*19:『シリュス』(Artamène ou le Grand Cyrus、全10巻、1648-1653)、『クレリー』(Clélie、全10巻、1654-1661)は、17世紀の作家、マドレーヌ・ド・スキュデリー Madelaine de Scudéry 1607-1701 の大河小説。スキュデリーは、古代ギリシア・ローマやエジプトを舞台にとりつつ、当時のフランス上流社会の人々を想起させる登場人物を配した作風で人気を博した。

*20:Madame de Genlis 1746-1830。フランス貴族出身の作家、教育研究家。とくに児童教育の理論で知られた。

*21:復古王政最末期の1830年6月に、フランスはアルジェリアへ出兵し、軍事力による占領支配を開始する。1834年アルジェリアをフランス領に併合し、その後植民地化が進む中でも、抵抗勢力との戦闘は断続的に続いていった。

*22:グレゴリオ暦の1793年9月22日から1794年9月21日に相当。革命期のフランス軍は1792年10月にライン川流域のマインツに侵攻し、革命とマインツ共和国の樹立を宣言した。1793年7月に反革命軍の攻撃を受けフランス軍は撤退するが、このマインツ攻防戦の際、クレベール Jean-Baptiste Kléber 1753-1800 とオーベール・デュバイエ Aubert Dubayet 1757-1797 は、ともに准将としてフランス軍を率いた。

*23:エミール・エルクマン Émile Erckmann 1822-1899 と アレクサンドル・シャトリアン Alexandre Chatrian 1826-1890 の二人による筆名。両者はともにロレーヌ地方のモゼル県に生まれ、共同で多数の作品を遺した。怪奇小説作家としても知られたが、アルザス・ロレーヌ地方を舞台とした愛国的な作品も著し、1870年の普仏戦争以降アルザス・ロレーヌがドイツ領となった時代にとくに注目された。「1813年のある新兵の物語」の副題を持つ『友なるフリッツ』Histoire d'un Conscrit de 1813l'Ami Fritz 1864年の著作。

*24:レヴィ家は中世からつづくフランスの家系のひとつで、1732-1734年と1785-1863年の間、公爵の爵位を与えられていた。

*25:黄金の仔牛は旧約聖書出エジプト記32章、神から十戒の石版を授かるためシナイ山に赴いたモーセを待ちかねたイスラエルの民が、新しい導き手として造り出した仔牛の黄金像。偽りの神であり拝金主義の象徴。ファラオの鍋は出エジプト記16章、モーセに率いられエジプトを脱出したイスラエルの民がシンの曠野で飢えに苦しんだ時、エジプトの地で肉の鍋の前に座りパンを飽食して、神の怒りに触れて死んだ方がましだったと不平を漏らした言葉を指す。

*26:ユダヤの祭日に用いる祈祷を集めた書物。

*27:セケス Sékess はユダヤの仮庵の祭り Soukkoth のアルザス方言。仮庵の祭りは、ユダヤ暦の第七月(グレゴリオ暦では9月〜10月)の15日から七日間にわたって行われる祭りで、エジプト脱出時に曠野で天幕に寝泊まりしたことを記念し、木の枝で仮庵を建てて住む。また、ナツメヤシ、ミルトス、柳などの枝とオリーブあるいはシトロンなどの実を束ねて振る儀式を行う。

*28:過越の祭りもイスラエルの民のエジプト脱出を記念したユダヤの祭りで、ユダヤ暦の第一月(グレゴリオ暦では3月〜4月)の15日から一週間にわたって行われる。

*29:パラス・アテーナーギリシアの智恵や芸術と戦いの女神アテーナーの異称。ミュリッタはヘロドトス『歴史』第Ⅰ巻199章に登場するバビロニアの女神。バビロニアの女性は貴賤を問わず、生涯に一度ミュリッタの神殿に赴き、訪れた男に選ばれて任意の値で一夜を買われるまで帰郷することはかなわないという。イアッコスはギリシアの女神デーメーテールの祭儀、エレウシスの秘儀において、アテナイからエレウシスの地まで、入信者の行進を導く少年神。アリストパネスの喜劇『蛙』に、この行進の様子が描かれている。

*30:パリ郊外の西南部に位置するコミューン。

*31:〔原注〕シャヴィル戸籍係、メイエール・アンドレマルセル・シュウォッブの出生届による。証人は公立小学校教員のジャン=フランソワ・ファンキュー氏。

*32:1870年9月にナポレオン3世がプロイセン軍の捕虜になると、共和派議員のレオン・ガンベッタ Léon Gambetta 1838-1882 はパリで共和国宣言を行った。かくて第二帝政は終わりを迎え、国防政府 Gouvernement de la Défense nationale が成立した。

*33:国防政府の内相に就任したガンベッタは、パリがプロイセン軍に包囲されると気球でパリを脱出し、トゥールに拠点を移して抵抗をつづけた。

*34:2000年に刊行されたシルヴァン・グドマール Sylvain Goudemare による新たなシュウォッブの伝記『マルセル・シュウォッブもしくは架空の伝記』 Marcel Schwob ou les vies imaginaires に引かれた、マルセルの兄モーリスの書簡によると、この「プロシア人」は後文に見えるドイツ語の家庭教師のことを指し、彼らはイエナ大学の関係者であったという。

*35:ナポレオン1世退位後の1814年から1830年七月革命までの期間。

*36:第一帝政はナポレオン1世が皇帝に即位した1804年から1814年の退位までと、幽閉されたエルバ島を脱出したナポレオンが復位した1815年の一時期、第二帝政はナポレオン3世が皇帝に即位した1852年から1870年まで。

*37:デルフィーヌ・ド・ジラルダン Delphine de Girardin 1804-1855。ゴーチエ、バルザックユゴーらとも交友のあった作家。夫のエミール・ド・ジラルダン Émile de Girardin は当時の著名なジャーナリスト・政治家。

*38:1875年8月24日から25日にかけて、イギリス人マシュー・ウェッブ Matthew Webb、通称ウェッブ船長が、イギリスのドーバーからフランスのカレーまでを単独で泳いで渡り、初の英仏海峡遠泳横断の成功者となった。

*39:マリー=マルゲリート・シュウォッブ Marie-Marguerite Schwob 1863-?。マギーは Marguerite の愛称。

*40:パリのカルチエ・ラタンに位置するパリ大学の付属校。1999年閉校。

*41:17世紀の枢機卿ジュール・レモン・マザラン Jules Raymond Mazarin 1602-1661 の個人蔵書をもとに設立された図書館。ルーブル美術館と向かいあうセーヌ左岸に位置する。1643年から研究者に開かれ、パリ最古の公共図書館となった。マザランの死後、遺言により建てられたカトル=ナシオン校 Collège des Quatres-Nations(パリ大学付属校)の一部となる。1805年にはフランス学士院の本部がカトル=ナシオン校の建物に置かれ、現在は学士院宮殿 Palais de l'Institut と呼ばれている。学士院職員としてマザラン図書館の管理員をつとめていた叔父レオンは、この建物内に住居を与えられていたのである。