第三章 学士マルセル・シュウォッブ

 1885年から1886年にかけて、召集前入隊を志願したマルセル・シュウォッブは、ヴァンヌ*1の第35砲兵連隊において兵役に就いた。

 この兵役生活の想い出は、『二重の心』のここかしこに容易に見出つけだすことができる。解き放たれた激しい情動を彼に教えたのはじつにこのときの経験であった。彼は勝手知ったブルターニュの土地で自らを鋳直し、また、夢を追って街道を流れ歩くガーヴルの森の幼い〈家出娘〉*2や、林檎酒の椀を傾ける船乗りたち*3や、沿岸を警備する税関吏たち*4に出会った。J・F・マリー・ポデール*5は、どんちゃん騒ぎに興じて夜間点呼に姿を見せないこともしばしばで、しょっちゅう営倉につながれていた。仲間の喇叭手ギットーは、壁を飛び越え兵営を抜け出した。彼らを友としたマルセル・シュウォッブは、野営地に向け連隊が出発する際、道連れに徒歩で行進するのを余儀なくされた。

 《好漢ポデールは放浪の生活を送ってきた。彼は街道を靴で歩き回り、寝る時は溝の中に頭隠して尻隠さず。食べるのは少しばかり、何だって口に入れた。時には立ったままで食べたし、まったく飲み食いしないこともあった。なあ新兵、と彼は言った。流れ者にはツキがねえよ。今じゃあ鉄道屋がみんなを客車に乗せて運んじまって、野次馬連中は田舎見物になんか来やしねえ。俺も何か商売でも始めなきゃな。あの娘が屋敷奉公を終えたら、家馬車を手に入れるんだ……》。そしてポデールは、どこで覚えたのか知らないが、〈フートロー〉というひどいゲームの遊び方をシュウォッブに教えたのだった。

 マルセル・シュウォッブはポデールと一緒にいたそのブルターニュ娘と近づきになった。頬骨の高い、ほつれ髪の、背の低い娘だった。彼らはルグラ小母さんの店の豚を眺めながら、絵付けした陶器の椀で林檎酒を飲んだ。このポデールという男は、しじゅう縁無しの軍帽を目深にかぶり、兵営の雑役で手押し車を押していたが、ある晩放浪生活の夢を実現することになった。彼はマルセル・シュウォッブに100スーをねだり、それを手に脱走したのだ。その後、シュウォッブがこの良き相棒に再び出会うことはなかった。

 砲兵のマルセル・シュウォッブはまた、バデールの下方でモルビアン湾へと突きだした岬の突端まで馬を追い立ててやって来る*6。彼は修道士島と、渡し守と、結婚相手を見つけるためにアルス島へ赴く少女を目にする。彼は彼女と言葉を交わし、荷物の包みをサーベルの先にぶら下げて肩に担いでやる。そして彼女はサン=タンヌ=ドーレの乞食たちと暮らした日々のことを語り出す。

 また、同じ湾に沿ったナヴァロ港で出会った乾物屋の老人から、マルセル・シュウォッブはある義勇兵の話を聞いた*7。アンジェール修道女の物語*8に描かれた病院は、ヴァンヌにある。《街の壁は長くつづき、先細りの港は銀のナイフの刃のようだった。その向こうには入江の傍らのポン=ヴェール地区、そしてコンロー地区の繁った樹々が、背景の空に押しつけられた茶色い染みのように見えた》。さらに、サーブル街道沿いでマルセル・シュウォッブが見かけた石切り場では、アイスキュロス風の荒事が繰りひろげられる*9

 

 官能の目覚めを、生の呼び声をマルセル・シュウォッブが真に理解したのはこの連隊でのことだった。この頃彼はまた、船乗りたちや娘たち、そして安酒場を描いた写実的な詩をものしている*10

 

   べとつく陰が部屋の隅まで満ちてゆき

   ねばつく小蠅がパン切り板を覆う

   嵩張る毛布の下、二人の兵士は眠る

   新入りの輜重兵、そして年老いた同僚

 

   ここかしこ剝がれた壁に走る傷は

   大きな黒い蜘蛛の巣のよう くるくる巻かれたひとひら

   教練用ハンカチーフ*11の白と黒

   おろしたての筒帽を兎の耳と飾り立て

 

   扉口に姿を現した伍長の靴が蹴飛ばしたのは

   ガラガラ響く空っぽの飯盒

   男たちは目を覚まし寢床でもぐもぐと呟く

 

   伍長は手探りで板の寢床に横たわり

   手足を投げだし泥のように眠る

   重い身体の下、寢床の枠を軋ませながら

 

 マルセル・シュウォッブがいくつかの写実的な作品を、フランス北部の〈道化歌〉*12に似せた詩の形式で書いたのも同じ頃のことだった。この〈道化歌〉はヴィヨンにも影響を与えたもので、後にシュウォッブはそれらを蒐集することになる。

 おそらくマルセル・シュウォッブは、この手の作品を詩集に編もうと考えていたのではないだろうか? 私はこれらの奔放な詩を『赤いランタン』*13の総題のもとに集めた清書原稿を発見した。そこには自分の名を織り込んだ献辞が付されている*14

 

   勇猛なるわが兄弟、隠語の使い手たちよ

   貴兄らにこの紙片を献げよう

   でっかい酒杯を傾けて

   楽しい騒ぎといこうじゃないか

   耳の穴かっぽじって目ん玉開け!

   お代は格安、最高だ

 

   拳にナイフ、腹には拳銃突きつけられて

   かくて絶体絶命の危機

   ほら、死神があんたを攫ってゆくぞ

   果報者の呑兵衛どもよ!

   とんまな良心なんか忘れちまえ

   したたか呑もうぜ、歌声浴びて!

 

 言うなればこれはヴィヨンへのオマージュである。盗賊団を主役とした残虐で猥雑な場面の数々が、〈赤いランタン〉亭*15と、加えて居酒屋〈ダンス酒場の親父〉*16で繰りひろげられる。マルセル・シュウォッブはその中に、屑拾いや警察のガサ入れ、ワイン商人や水死体の引き上げ人夫を描いた。また、あるバラードの中では、娼家の窓辺で首を吊られたジェラール・ド・ネルヴァルを描き出している*17

 

   黄昏のか暗き魔の衢に

   アンダルシア女のまなざしを燃やすおまえが

   隠し言葉でおれに愛を囁いて

   それがためおれは吊られたのだ、禍いの醜女よ!

   もの憂げにおまえを愛撫するあの女衒

   やさしげな顔でおまえを誑しこむあの情夫が

   おまえの貞潔の代償におれを吊るしあげたのだ

   おれはのたうち死に喘ぐ、おまえの赤いランタンの下で!

 

 見てのとおり、ここに用いられた言葉は非常に凝った博識なもので、ヴィドック*18やラスネール*19、そしてまた宗教改革期の隠語がほとんどどの言葉にもちりばめられている。

 

 マルセル・シュウォッブがまだ数年の在籍期間を残していたルイ=ル=グラン校に復学生として戻り、師範学校の受験に備える頃には、彼は風変わりな端倪すべからざる青年、その辛辣で厭世的かつまばゆいほどの天才で友人たちに畏怖の念を抱かせる存在となっていた(ダニエラからの愛の手紙の一節)。彼はマルティアリス*20、学校のリベルタンであった。彼の書く詩、頽唐期ローマのそれに倣った自由な、そしてしばしば完璧な詩が記された紙片を友人たちは回し読みした。その作品にあえてケチをつけられる者はなかった。皆は彼を心底尊敬していた。彼はマルレ氏とアッツフェル氏の授業に加えて新たな学説を教えられるほどの才人で、教授たちの手ぶり口ぶりを真似て、様々な話をつけ加えることもできたのだ!

 とりわけ1888年には、このサント=バルブの復学生マルセル・シュウォッブは無数の詩を書いた。間違いなく、それらは十四歳の頃の作品と較べれば力強く巧みさを備えていた(彼は二十一歳になっていた)。定型を踏まえたソネットはエレディアのそれや、シュリ・プリュドム*21の優美な小品を思い起こさせるものであった。とはいえ、それらの詩からもっともよく伝わってくるのは、アレクサンドリア派詩人たちの享楽的な頽廃であり、あえて言うならば、若い同級生たちを感嘆させようとする年長者の作物だった。

 

   楽園の花の盛りの汝が唇は

   わが手の投げる口づけの的

   命果つるまで我は熱望に身を焦がさん

   汝が甘き言の葉を慰み草に*22

 

 ボードレール流の享楽の粗描がここにはみとめられる。マルセル・シュウォッブは娼家の女たちの愛を、苦く洗練された肉体的な官能とともに歌いあげる。

 

   おまえのあえかな唇は薔薇色のひだ

   絹のかんばせに花開く……*23

 

 しかしながら、マルセルシュウォッブの詩は詩人の作というよりも手練れの名人芸というべきもので、脚韻はきっちりと踏まれ、確固とした強弱が繰り返されている。

 

   満足顔の船乗りは、テーブルのうえ肘をつき

   舌に甘き美酒に夢見心地

   店主の注ぐブリキの大杯を手に握り

 

   甲板員のかたわらに転がり出でたは

   油まみれの虫食いだらけ、この安酒場の階段を

   すべって落ちた、赤い顔したおさげ娘*24

 

 高踏派に倣って、マルセル・シュウォッブがとりわけ重んじたのは押韻だった。

 

   研ぎ出したひとひらの詩を僕は絶え間なく磨きあげる

   ランプのほの明かり、その焔の輝きが

   韻を揃えた言葉を金色に染めるもと

   暁いろの光輪にいまひとしおの艶を重ねる

   韻よ、おまえはおもねることを知らない

   瀟洒閨房ねやにお前を探し求めるのはこの僕だ

   《歎けとて何かはせん、開けよ汝が玉くしげ!》

   おまえの宝玉は閉ざされた匣に秘められて

   ムーアびとの巧みな指も、その掛け金はずすことはかなわない*25

 

 またときには、マルセルシュウォッブは未来の散文詩人を予感させる作品を残した。

 

   青い光は過ぎ去った

   行こう、白い光の方へ

   可愛い人よ、君は退屈してるのかい?

   僕らの身体には羽がある

 

   青を追われた僕たちは

   この羽をひろげよう、恋人よ

   早船のように渡ってゆこう

   白い炎に燃える太陽へ

 

   白い光は過ぎ去った

   行こう、赤い光の方へ

   《愛する人よ》僕は君を離さない

   僕の手に血に濡れたナイフがひらめく

 

   この紅の中を生きよう

   君の細指に嵌める指輪は

   短刀でひと突きにされた心臓

   僕は黄金を手に入れた、君は眠たくないのかい?

 

   赤い光は過ぎ去った

   行こう、緑の光の方へ

   凍えたその喉を暖めに

   入ろう、扉は開かれている

 

   飲もう、この融けた緑金を

   飲もう、僕らは見るだろう

   白い炎が血に染まり、ゆっくり燃え立つそのさまを

   可愛い子、何か言ったかい?

 

   緑の光は過ぎ去った

   行こう、蒼白き光の方へ

   行こう、僕らの輪郭は消え

   オパールの波に呑まれゆく*26

 

 かくて、マルセル・シュウォッブはまったくの自己流で師範学校受験の準備を進めた。

 ナントで遠くから彼を気にかけていた母のもとには、三通の短い手紙、母に言わせれば《電報みたいな》手紙を送っただけだった。けれども『灯台』紙には、1889年に掌編「三人の税関吏」を寄稿している。その時の母の喜びようといったら!《あなたの「三人の税関吏」は素晴らしいわ。お父さんはあなたの校正入りの原稿を印刷に回しました》。そしてユダヤ式の心づけとして、マルセルは母に《極上のソーセージ》を贈った。ナントの人々は《今すぐにでも》彼が帰ってくるのを待っていた。

 だが、家族を大いにがっかりさせたことに、マルセル・シュウォッブ師範学校の受験に失敗してしまった。息子の挫折を我が身のことのように受けとめた母は、あきらめずに再度挑戦することを勧め、受験の準備を続けるよう手紙に書いた。彼女はまた、ロスチャイルド家の使用人もしくは書生として出入りできるよう取り計らおうとさえした。

 しかし、マルセルシュウォッブ自身は学位の取得を望んでいた。彼は学校の授業と並行して、ソルボンヌでの講義も受講した。そこで出会った哲学者のブートルー*27に、彼は心酔していたのだ。

 ブートルーの講義について、マルセル・シュウォッブは晩年に至るまで敬愛をこめて語っていた。ブートルーは彼にとっての師であり典型的な〈メートル・ド・コンフェランス〉*28であった。彼はデカルトに関する16回の講義を熱心に受講した。《近代的システムの父であり、哲学をその根源、普遍的思考へと導いた》デカルトは、マルセル・シュウォッブにとって〈二重の男〉であった。彼はこう記している。《この男は、三十年戦争においては騎士道精神を失わぬ軍人であり、またいかなる時代、いかなる国の誰にも結びつけることのできない孤高の思索者であった》。

 ブートルーは、多くの観点から見て、マルセル・シュウォッブの知性を揺り動かした師であった。彼は労を厭わずデカルトの時代の精神を描き出し、その伝記からデカルト哲学の解釈を導いた。《自然法則の偶発性》についてのブートルーの講義のことを、マルセル・シュウォッブは私にたびたび話して聞かせた。かつて私たちが出会ったばかりの頃に、そのノートを貸してくれたこともある。師の講義は彼にとってたいへん美しく新しいものに思えたし、実際その通りだった。彼はスピノザについてのブートルーの講義も同じく受講した。アムステルダムポルトガルに起源を持つユダヤの家庭に生まれたバールーフ・デ・スピノザ、初めてのタルムードの教えをサウル・レヴィ*29に受け、もう一人のコルドバユダヤ人、マイモニデース*30と、カバラを研究したあのスピノザである。さらに同じ師のもとで、マルセル・シュウォッブは《科学とは普遍であり、必然である》としたアリストテレスを熱心に学んだ。

 けれども、とりわけ大きな影響をマルセル・シュウォッブに与えたブートルーの講義は、《連続性の概念》に関するものだった。当時、彼は《時空間の中にあらゆる連続性が存在するように見せかける記憶の性質》についてのノートをまとめた。この研究から彼が得たのは、《単一の物体上に知覚を静止させることで、意識から時間の感覚を消し去り、内的な永遠性を生み出す》脱我体験であった。やがて『架空の伝記』の中でエピクロスを描くことになる彼は、この時代に『両世界評論』(1888年8月1日号)に掲載されたカロー*31の研究の要約を作成している。

 《愛他心の見てくれの下にあるのは利己心である》。彼はエピクロスの時代に関するギュイヨー*32の研究に言及した箇所の行間にそう書き込んでいる。

 彼はまた、ウィリアム・ローレンス軍曹*33の自叙伝から拝借し、後にさらに発展させることになった一節を記している。《また、福音書にはじめに言葉ありきとあるように、ある意味において、人間は神の言葉である》。

 時にマルセル・シュウォッブは、論文の原稿の裏を使って韻の組み立てに取り組み、また詩といわず散文といわず、古代の作品に片端から目を通した。古代ギリシア研究に身を入れていた彼にとって、中世の聖職者においてもそうであったように、アリストテレスが権威であった。書写したその著作と飾り文字で書かれた引用文の数々が彼の思考をかたちづくっていた。

  マルセル・シュウォッブは、師範学校受験失敗の雪辱を果たさねばならなかった。1888年、彼は文学士の学位を授与された。百名の志願者、十四名の合格者のうちの首席だった。

 彼がマザラン宮を出て、1890年から1891年にかけて住んだユニヴェルシテ通りに移ったのもこの時期のことだった。大学に籍を置いたまま働いていたが、実家の家族は彼が教授資格試験のための勉強をつづけており、いずれは教授になるものと信じていた。彼の父は愛情を込めた手紙を書き送っている。《たいへん忙しいだろうけれど、君が先生方に高く評価されているのは知っている。そう思えば疲れも吹き飛ぶことだろう。だから愛するわが息子よ、これからも皆を満足させるように。もちろん私たち家族も含めて》。彼は名刺にこう彫りつけた。「マルセル・シュウォッブ、学士」。

 だが実際には、彼は自身の才能の赴くまま、本を読み耽り、自己流で学び、個人的な研究を行い、原典に遡った。彼が二十歳の時に言っていたように、《人が何に関心を抱くかは、ただその人間が身を置く視点によるのだ》。

 つまるところ、ビュルドーに始まりブートルーに至るまで彼の頭脳に詰め込まれた哲学*34に背を向けることとなったのは、ひとつの奇跡であった。というのも、マルセル・シュウォッブは、その小さく美しい繊細な筆跡で、数え切れないほどの枚数にのぼる哲学関係の論考をしたためていたのだ。しかし彼のノートに記された覚え書きからは、別の興味関心が看てとれる。とりわけ目を惹くのは文献学と博学とであった。カントの実践理性に関する研究の末尾に、彼はフランソワ・ラブレーの署名、その蔵書票に《フランキスクス・ラベラエス*35——医師フランキスクス・ラベラエスス、及ビソノ友人タチ蔵》とあるものを書き記している。彼は大胆不敵にも、《形而上学は下手くそな詩である》というリボー*36の考えを検討する目論見を持っていた。

 結局、マルセル・シュウォッブは哲学を離れ文献学——古ドイツ語、隠語、サンスクリット、とりわけギリシア古文書に関するもの——へと赴いた。高等研究実修院では、F・ド・ソシュールから印欧語の音韻について学んだ。同じ場所で、後にその励ましと教えから大いに影響を受けることとなるM・ブレアル*37にも出会っている。面白いことに、マルセル・シュウォッブは大学入学資格試験の受験生向けに補習授業を受け持っていた。彼はまた、《フランス教員による科学・人文学協会》でも教えていたが、1890年の12月18日に辞表を叩きつけることとなった。というのは、彼が持ってもいない称号を勝手にチラシに載せられてしまったからなのだ!そこにはプライドが高く気難しいシュウォッブの性格がすでに表れている。

 《足下、私は協会の科目表に私の名前が〈教育功労二等勲章〉と〈大学教授資格者〉の肩書きとともに載せられているのを、耐えがたい驚きをもってみとめました。私はいかなる資格試験も受けてはおりませんし、勲章の授与を請願したこともありません。私の名前に付されたこの二重の肩書きが、当然ながら、私に多大な迷惑を及ぼすものである以上、教員協会の教授職を辞することをお認め願いたい。また、この書簡を科目表と同様公開に付されるよう、とりわけ、議会と大統領閣下、さらに公教育省と関連部局に届けられるよう求めます。これが熟慮を重ねた上での結論であることは請け合います。どうか受理されますよう。マルセル・シュウォッブ、哲学士》。

 マルセル・シュウォッブは議事録の複写の送付を求めたが、この書簡が公になることは決してなかった。この意地の悪いユーモアの激発は、後の彼の人生にもしばしば見られるものだったが、このときすでに彼の憧憬の的であった詩人ヴィヨンの言を借りれば、《学校の屑ども》の無能ぶりを暴き出すものであった。

 

 マルセル・シュウォッブは『マリー・ファン、ローマの生活、西暦2000年の地(ジュール・ヴェルヌ風に)』と題された〈マントと剣〉もの*38の小説のアイディアを紙に書き留めている。

 彼は炭坑夫についての中篇(おそらく「地下坑道への降下」*39の続篇か)の粗筋を作り、マーク・トウェイン風のユーモラスなエセーを書いた。この作家に加えて、彼を深く感動させ、さらに言えば幻惑した書き手として、エドガー・ポー、スティーブンソン、シェイクスピア(彼はパスカルと同時期に『ハムレット』を読んでいた)、その詩を諳んじていたヴィヨン、そしてウォルト・ホイットマンの名を挙げねばならない。彼は当時ホイットマンの「埋葬詩」*40の非常にみごとな翻訳をものしている。また後に「地上の大火」となる作品の粗描も生まれた。

 この頃、ある仲間から送られた彼の作品の分析に対して、マルセル・シュウォッブは次のようにコメントしている。《僕自身に関して言えば、僕が何も感じない、何も愛せないという君の言葉は完全に間違いだ。僕のようにはっきりと三つの人格——実際に持ち合わせた人格と、持ち合わせると信じた人格、それに持ち合わせることを望んだ人格——を内に持つ人間は、おそらくかつて存在しなかっただろう。僕は心の奥では途方もなく感じやすく、本を読んではしばしば泣いてしまうほどだ*41。それに、僕を打ちのめし粉々にするこの傷つきやすさの必然的な作用がどれほど耐えがたいものであろうと、僕はそれを拒んだりしない。けれど、そうしたすべては、僕が周りにどれだけ哀れで滑稽に見えているか気づいたとたん、今度は僕が持ちたいと望んだ人格によって覆い隠されてしまうのだ。うわべの冷静さと冗談好きの仮面で、滑稽さ(少なくとも上記の理由によって生じたもの)は消え去る。そして残るひとつが変わることはない。僕にあっては、もっとも優勢な人格は〈意志の病〉*42を患っている。それは僕をある種の誘惑に対して無抵抗にさせ、とりわけ一度なされた決断に固執させるのだ。たとえその動機がもはや存在しなくとも》。

 

 実に恐ろしいほどの洞察力である。マルセル・シュウォッブはこの後も少年か青年のままでありつづける。壮年期は、彼にあってはとてつもない早熟というかたちで訪れた。だが三十を迎える頃には、彼自身が予告したとおり七十代の生を生きることとなるだろう。彼はその真の才能を呼び起こすことになるふたつの感情的危機の狭間で成長してゆく。自己の思想を、彼は突如としてつくりあげる。あたかもアロエの花が大砲の轟きほどの束の間に数メートルの高みまで伸び上がるように。

*1:ブルターニュ地方、モルビアン湾に面した沿岸の街。この記事を参照。

*2:「木靴」の主人公。

*3:陶器の椀で林檎酒を飲むブルターニュ地方の風俗は、「木靴」「ポデール」「ミロのために」に描かれる。そのうち「船乗りたち」les  mathurins に近いのは「木靴」の主人公の夫である漁師か。

*4:「三人の税関吏」の主人公。

*5:「ポデール」の登場人物。以下の記述と引用は同作から。

*6:以下の記述は「アルスの婚礼」によるもの。

*7:「ミロのために」。

*8:「病院」。

*9:「面」。

*10:以下は『幻と目覚め、夢とうつつ』所収の無題のソネット

*11:フランス軍において教練に用いられた織布。文字の読めない兵向けに、さまざまな指示規則を示す図柄が印刷されている。

*12:中世の北部フランスで流行した、宮廷詩の滑稽なパロディ。

*13:〔原注〕表紙には《『赤いランタン』のための素描。グセル、コレヲ著セリ》とある。ポール・グセルは彼の友人であった。〔以下訳注〕『初期作品集』のこの箇所に付されたシャンピオンの注によれば、当時シュウォッブとグセルは強い友情で結ばれており、同じ筆名(グセル)を共有していたという。

*14:以下の詩の原文を掲げる。行頭の文字を縦読みすると「マルセル・シュウォッブ」の名が浮かびあがる。

   Mes braves frangins argotiers,

   A vous ce fafiot je dédie.

   Radinons-nous les mi-setiers:

   C'est de la bonne comédie.

   Esgourde ouverte et clairs calots!

   Le blot est des plus rigolos.

 

   Surin au poing, et ventre au riffe,

   C'est ainsi qu'il faut calancher;

   Ho, la Camarde vous aggriffe,

   Veinards en train de pitancher!

   Oublions la Muette gourde,

   Buvons ferme, et prêtons l'esgourde!

*15:赤い角灯は娼家の目印に用いられた。

*16:〔原注〕この〈親父〉は酒商人で大衆ダンスホールの店主でもある。

*17:「娼家の窓辺で首を吊ったジェラール・ド・ネルヴァル」 "Gérard de Nerval pendu à la fenêtre d'un  bouge"、『初期作品集』の『隠語詩篇』に収録。

*18:ウジェーヌ・フランソワ・ヴィドック Eugène François Vidocq 1775-1857。フランスの脱獄囚でパリ警察の密偵となり、後には世界初の探偵業を始めた。

*19:ピエール・フランソワ・ラスネール Pierre François Lacenaire 1803-1836。犯罪集団を組織して詐欺・強盗・殺人等を繰り返し、死刑に処された詩人。

*20:40-102頃。ローマの詩人。諷刺や機知に富む短詩で知られる。

*21:Sully Prudhomme 1839-1907。フランス高踏派の詩人。

*22:「ロンドー」 "Rondeau"、『幻と目覚め、夢とうつつ』所収。

*23:『幻と目覚め、夢とうつつ』所収の無題詩。

*24:『幻と目覚め、夢とうつつ』所収の無題のソネット

*25:「バラード」 "Ballade"、『幻と目覚め、夢とうつつ』所収。

*26:「光」 "La Lumière"、『幻と目覚め、夢とうつつ』所収。

*27:エミール・ブートルー Émile Boutroux 1845-1921。パリの高等師範学校およびソルボンヌ大学で教授した哲学者・哲学史家。

*28:フランスの大学制度において、研究と同時に教育を主たる任とする職。

*29:サウル・レヴィ・モルテイラ Saul Levy Morteira 1596-1660。オランダのラビ。

*30:モーセス・マイモニデース Moses Maimonides 1135-1204。コルドバ出身のラビ、学者。ユダヤ法を体系化した。

*31:ルドヴィク・カロー Ludovic Carrau 1842-1889。フランスの哲学者。『両世界通信』の当該号に、「エピクロス、その時代と宗教」 "ÉPICULE, SON ÉPOQUE, SA RELIGION"と題した論文を発表している。

*32:ジャン=マリー・ギュイヨー Jean-Marie Guyau 1854-1888。フランスの哲学者、詩人。カローの論文にはギュイヨーの『エピクロスの道徳』 La Morale d'Épicure(1878)が引かれている。

*33:Sergeant William Lawrence。ワーテルローの戦いで活躍したイギリスの軍人。その自叙伝は1886年に出版された。

*34:〔原注〕《(戦争以来、フランスにおける人文学分野の花形は)時の知性を擁する哲学の授業であり、(ビュルドーのような)騒々しい教師であった》。ゴンクール『日記』240頁、1891年5月31日。*()内は訳者による補足。

*35:フランソワ・ラブレーラテン語表記、この署名はラテン語ギリシア語で記されている。

*36:テオデュール=アルマン・リボー Théodule-Armand Ribot 1839-1916。フランスの哲学者、心理学者。

*37:ミシェル・ブレアル Michel Bréal 1832-1915。フランスの文献学者、比較言語学者

*38:『三銃士』など、マントと剣を身につけた人物の登場する通俗的なジャンル。

*39:『初期作品集』所収の掌編。

*40:『草の葉』所収。

*41:〔原注〕これに対し、この仲間は以下のように返した。《本を読んで泣くことはあっても、君は現実の悲惨や恐怖を見ようとしない。たまたま目に入ることがあっても、君は自分を欺いて目を瞑ってしまおうとするのだ。そのような感じやすさはいつだって不毛なものだ。もし疑うのなら、先入観なしに自分の胸に聞いてみたまえ》。

*42:テオデュール・リボーの著書『意志の病』 Les Maladies de la volonté (1883)による表現。