序文 Préface

 この書物には、いくつもの仮面と隠された顔が収められている。黄金仮面の王、毛皮の面をかぶった未開人、ペストに面貌を蝕まれたイタリアのならず者と作りものの顔を持つフランスのならず者たち。赤い帽子に頭を包んだガレー船徒刑囚。鏡の中でたちどころに年老いてしまう少女たち。そして風変わりな癩者の群れ、木乃伊つくりの女たち、宦官、暗殺者、悪魔憑きに海賊……。読者よ、これらの登場人物について、私が選り好みしているなどとは考えないでいただきたい。というのも、彼らのうちに違いがあるとは、私は聊かも思ってはいないのだ。そのことをよりはっきり示すため、これら一連の物語で繰り広げられる仮面劇の、仮面同士の結びつきを示すことはしなかった。それらの仮面が類似もしくは対照によって結ばれていることは、おのずと明らかだからである。おかしいだろうか?では私は喜んでこう言おう。相違と類似はただ見方の違いにすぎないと。私たちは個々の中国人を見分けるすべを知らないが、羊飼いならば羊の群れを、私たちには見てとることのできない徴しによって、一頭一頭見分けることができる。私たちの司祭と兵士と商人が異なっているように、蟻にとっては他の蟻が異なって見えるだろう。微生物といえども、ほんのかすかな知覚さえ与えられたならば、互いに見分けあうことのできる微妙な特色を持つに違いない。私たちはこの宇宙で唯一の個性的存在ではないのだ。言語において、文と文がピリオドによってわずかずつ距てられているように、そしてことばが文から身を解き放ち、それ自身の独立と色彩を獲得するのに似て、私たち自身もまた、きわめて相対的な価値によって差異化された一連の「私」なのだ。そうした微妙な差異は、数世紀も経つうちに見失われてしまうので、私たちはもはや、アテナイ人がアリストパネスの文体とエウポリスの文体とを比較するさいに拠りどころとした特徴を見分けることができない。異世界からやって来た観察者の目から見れば、わたしの木乃伊つくりも海賊も、未開人も王も、互いになんら異なるところはないであろう。この人間以上の能力を持った訪問者が、例によって芸術家流の特異な視野と学者流の普遍化能力とを持ち合わせていれば、わたしたちの生物社会に関する正確な知識を得たのち、おそらくこのようにも言うことだろう。
 −−私は人類のうちにあまたの本能的な行動を見いだした。一万年もの昔より人はそうした行動様式を練り上げてきたので、もはやそこには改善の余地もないほどである。貴方がたは穀物を砕き、小麦をを水とともに捏ね、イーストを混ぜて生地をつくり、黄金色になるまで焼く習慣を持っている。人類がこの世に現れたときから、人はパンを食べ続けてきたが、その味が苦くなるようなことはなかった。貴方がたは絶えず火を用いて、おおかたの食物を作りつづけてきた。蜜蜂もまた、貴方がたに劣らぬ執拗さで彼らの幾何学的な密房をつくりつづけてきたし、おなじように、蟻も決まった時間になると透明な卵を陽のもとに運び出す。私にはアガメムノン王の戦車とプチ・ヴワチュール社製の辻馬車とを隔てる差異がよくわからない。トロイの大火の知らせをギリシアまで伝えた焔のリレーとヒューズ氏の電信機は、ひとつの範疇に分類せねばならない*1。連射式小銃と燧石の切っ先を持った矢は、どちらもおなじ本能を実現する類似の手段である。貴方がたの皮の焼けたパンがエジプトの石棺からも見つかることや、フェニキアの素焼きの鉢と同じものを、今日のプロヴァンスの陶工が貴方がたのために轆轤を回して作りだしている事実は、実用上の問題や知的流行から生まれる変化より以上に、この上ない敬意を私に懐かせる。おそらくそのような伝統と本能の力だけが、人類に世界的な破局を越えて何らかの足跡を残す唯一の手だてを提供したのだろう。そうした手段を持たなかったがため、貴方がたの祖先の猿人たちはこの地上に何ものも残さなかったのである。
 −−物事の差異に対する貴方がたの感覚は瞠目すべきものであり、貴方がたはそれに芸術家のような細心の配慮を払っているが、にも関わらず、貴方がたの一人は、人間は社会的な動物だと言った*2。つまるところ、都市、州、国家といった貴方がたの社会集団は、なにも特殊なものではないのである。なぜならば、原形質だけからなるもっとも単純な原生生物でさえ、似たような習慣を持っているからだ。こうした原生生物は、食事の分配に関して実に公正である。そのうちの一個体が摂取したものは他の個体にも等しく分け与えられる。一個の原生生物がこの群居生活に飽きたときには、自分を群体とつないでいる触糸を切り離すだけでいい。他の個体がそれを引き留めることもなければ、罰を与えるようなこともない。それは新しい水域へ漂ってゆき、浮遊生活を行う仲間たち−−貴方がたの学者が〈腐食菌〉と呼ぶものだと思うが−−に加わる。私はこの見上げた原生生物にこの上ない敬意を抱いている。その原始的な組織は、一種の完全な社会生活機構を実現しているのである*3
 −−貴方がたの心理学者たちは、貴方がたの感情をきわめて微妙なニュアンスによって細かく色分けしているが、私が見るにその働きは、要するに貴方がたという種の保存に必要な、すぐに数えあげられるばかりの反応に限られているようだ。
 −−貴方がたの好む倫理上の観点からすれば、貴方がたのうちのもっとも精妙な思想家といえど、微小な血球とどちらが優れているか、優劣はつけがたいのだ。この白血球というものは、貴方がたと同じほどに物事を選択する能力を持った自由な存在である。それらは、貴方がたがもっともお気に入りの物事を選ぶのと同じ法則に則って、化学物質を選り分ける。人間の感情が刺激に対する関数のようなものであるとして、貴方がたが与える様々な組成の培地や栄養液に対する白血球の好みも、同じ程度の幅を示すのである。貴方がたの血球はじつに繊細な個的存在であり、ある種の毒に対する耐性を血球に与える貴方がたの素晴らしい順応力*4を以てすれば、その血球から、貴方がたの仲間パスカルが理性を信仰へと導くために鍛え上げようとした自動機械によく似たものを生みだすことも可能である*5。貴方がたの知識が専門化してゆくにつれ、あたながたの社会を構成する個々人に対する尊重はいや増した。貴方がたの網膜の神経束やパチーニ小体の個別のはたらきも、相応の敬意を払われてしかるべきである。コルチ器の有毛細胞は貴方がたの音楽的嗜好の鑑定人であり、その分極化した細胞は、気に入らない空気の振動を無視する権能を有している*6。貴方がたが何かを嫌うとしたら、それは互いに個性を異にする多くの小器官による合意の結果だ。貴方がたの行動は数え切れない仲介者の手にゆだねられているのである。
 −−この最後の考察は、統一性・連続性・普遍性以外のものをほとんど知らない私にはなかなか努力を要するものなのだが、貴方がたにとっては何らかの役に立つことだろう。簡単に振り返るだけで、貴方がたの社会組織における個々の要素が受け持つ役割について、よりよく理解できるにちがいない。アテナイの街では、密告者と風紀監督官と女たちを売る商人とが、市民が裸体を晒していた場所を取り締まるのに、いずれ劣らぬ栄誉ある役目を担った。こうした職は誰もが自由に志すことができた。民衆の指導者がこれらの職に身を投じることも不可能ではなかったのだ。だからこそ、アリストパネスはその喜劇中の公判場面のあとで、萌黄色の式服を着たクレオンに、三助たちに立ち混じって腸詰めを売らせてみせたのである*7アテナイの薄汚れた建物のかたわらで腸詰めを売る落魄の民衆指導者、彼の売る臓物のソースに指を浸すピレエフス港の売笑婦たち。彼らの姿は私を夢中にさせる。こうした観点からは、一介のならず者といえど、国家元首にくらべて無益な存在ではなく、見下げられるべきでもないのだ。
 −−だから、貴方がたの想像力で、魅惑的な差違をつかみとるがよい。けれども、次にはそれを相似の連続性の中に投げこむことも学びたまえ。その連続性こそが、貴方がたの理性の働きのもとで、すべてを説明する法則となるのだ。不連続性や、個性や、この宇宙の中での自由を貴方がたに示すものを、連続性や必然の法則を示すものほどには信用しないように。時空間と数の連続性の上に成り立つ貴方がたの数学が、不連続な渦動である原子の運動を計算するのに役立つことを忘れたもうな*8。相似とは差違の知性的言語であり、差違とは相似の感性的言語であると想像したまえ。この世のすべてのものは徴しであり、徴しの徴しでしかないと知りたまえ。
 −−もし、貴方がたのような人格を持たない神と、貴方がたのとはまったく異なる言語とを心に浮かべることができるのならば、その神が語ることを想像してみたまえ。そのとき、宇宙は神のことばとなるだろう。必要なのは語りかけられることだけだ。それが誰に向けられたものであるかは問題ではない。いずれにせよ、神の言葉である物事は、こんどはそれら自体で私たちに語りかけてくる。そして私たちは、私たち自身そうした物事の一部でありながら、神がそれらの物事を声高に唱えようとしたときに模範としたのとおなじ原型によって、物事を理解しようとする。それらは徴しであり、徴しの徴しにすぎない。おなじように、私たち自身もまた、永遠に隠された顔の上の仮面にすぎない。仮面がその奥に顔があることの徴しであるように、言葉もそこに物事があることの徴しである。そして物事は、人智の及ばぬ存在の徴しである。私たちの五感はその頂点においてそれらの徴しを分離し、私たちの理性はそれらを連続態のもとに計測する。それは、疑いなく、私たちの粗野で中央集権的な器官が、〈至高の中心〉による統合機能の一種の象徴であるからだ。この私たちの世界におけるすべてのものが、個々の個体の、細胞の、原子の集合でしかないように、私たちに想像可能な〈真の存在〉もまた、この宇宙における個々の実在の完全な集合にすぎない。それが物事について思考するときには、それらの類似によって理解する。物事を想像するときには、それらの多様性のもとに表現する。
 神が蓋然性をつかさどるというのが本当だとして、そこにさらにつけ加えなければならないのは、神の語りがすなわちこの現実そのものなのだということだ。私たちは神自身の言葉でありながら、神の言葉の裡にある意味を自覚し、自分自身に、そして神に答えようとしている存在なのだ。言葉であるからこそ、私たちは互いに切り離されている。しかしまた、私たちは宇宙の文節の中に統合され、それはまた神の思考の中で、光輝に満ちた一個の文章へと統合されるのだ−−
 おそらくこういったあたりが、この観察者の結論となろう。彼の検討や言葉は架空のものだが、この書物の構成を説明するには役立つであろう。


訳注

*1:アイスキュロスの戯曲『アガメムノン』に次のような場面が見える。トロイ戦争に参加したアルゴスの王アガメムノンには、故郷に残してきた妻クリュタイメストラがいた。十年にわたる戦いの後にトロイの都イリオンが陥落したという知らせは、あらかじめクリュタイメストラの準備した仕掛けにより、その日のうちにギリシアアルゴスまで伝えられた。彼女はイリオンからアルゴスまでの要所毎に松明や篝火を用意させ、勝利の合図の火明かりを観察しだい火を焚いて、焔の合図を次々に中継していく方法を採ったのである。なお、ヒューズ (David Edward Hughes, 1831-1900) はイギリスの物理学者・電気技術者。1855年、従来からあった電信機を改良し、送信された信号を直接に文字として印字可能な印刷電信機を考案した。

*2:「人間は本性的にポリス的動物 (zoon politicon) である」(アリストテレス政治学』第一巻第二章)。「ポリス」はむろんギリシア都市国家を指すが、古代ギリシアの文脈を離れれば、「共同体」「社会」と訳すことが可能な語である。事実、zoon politicon はセネカによって「社会的動物」 (animal socialis) と訳出された。

*3:この一節は粘菌のことを言ったものか。粘菌は、子嚢をつくり胞子によって繁殖する菌類的な面と、発芽後運動を行いながら外部の栄養を摂取して成長する動物的な面とをあわせもつ生物として、十九世紀中頃から注目されはじめた。真性粘菌と呼ばれるグループに属する種では、アメーバ状または鞭毛を持った細胞同士が接合し、核分裂を繰り返して変形体と呼ばれる多核単細胞の運動体を形成する。同種の変形体同士が出会うと融合し、また一部が切断されても独立した変形体として生きることができる。変形体内部には激しい原形質流動が見られ、任意の箇所から摂取された養分は変形体全体に行き渡る。変形体は特定の環境条件により分化を開始し、核を中心とする微小な部分に分割され、多数の胞子を持った子実体を形成する。発芽した個々の胞子は、水分の多い条件では鞭毛虫状となり、水分の少ない条件ではアメーバ状となり、ふたたびライフサイクルを開始する。また、細胞性粘菌と呼ばれるグループに属する種は、アメーバ状の細胞が特定の環境条件により多数集合し、多細胞の偽変形体となる。偽変形体は移動を行ったのち胞子と柄からなる子実体に分化し、次世代の細胞を発芽させる。十九世紀の段階では、真性粘菌と細胞性粘菌の区別は行われていなかった。また、粘菌類の栄養摂取は、実際にはバクテリアの捕食などによる部分が大きいが、腐った木の上などに棲息することが多いため、バクテリアなどが木を分解して得られた有機物を摂取する腐食性の生物と考えられていた。

*4:ロシア生まれの医学者イリヤ・メチニコフは、1883年、病原体を捕食して消化する細胞を発見し、のちにこれを大食細胞と名づけた。大食細胞は特殊化した白血球であり、同じく白血球の一種であるリンパ球の生産する抗体とともに、免疫機構の中核を担う。なお、抗体の存在自体は、1890年にベーリングおよび北里柴三郎により発見されていたが、リンパ球の関与が明らかにされたのは20世紀以降のことである。したがって、この箇所にいう「血球」とは大食細胞のことを指すと考えられる。

*5:パスカルは、人間を、知性を司る「精神」(raison) と、それに関わりなく機械的な反応を示す「自動機械」(automate) との二要素からなるものとして捉えた。これは、動物が反射的反応のみからなる一種の機械であるのに対し、人間は精神を有することにより動物と区別されるというデカルトの動物機械論(『方法序説』第五部)を受け継ぐ考え方だが、パスカルにおいては、人間の裡の「自動機械」も、否定的意味合いのみをもつものではない。『パンセ』ラフュマ版第821断片によれば、人を心からの信仰へと導くためには、理屈や実証により「精神」を納得させるだけでは不十分であり、習慣により「自動機械」を順応させなければならない。むしろ「自動機械」を手なずけることこそが信仰への早道なのであり、「精神」もまた「自動機械」に影響されるのだという。

*6:パチーニ小体は、真皮の深部にある圧覚の受容器官。中心の神経とそれを取り囲む同心円状の結合組織とから成る。コルチ器は内耳にある聴覚の受容器官。内部には有毛細胞が並び、特定の振動数の音に対して特定の細胞が刺激されると、細胞膜内外で分極化されていた電位差が低下し、その結果化学物質が放出され聴覚刺激を脳に伝える。この有毛細胞が反応する範囲外の振動は音として感知されないわけである。

*7:アテナイの政治家クレオンを揶揄したアリストパネスの戯曲『騎士』には、クレオンに擬された人物が登場し、豚肉屋との係争の結果、敗れ去る。戯曲の末尾で、敗れた相手への仕置きを問われた豚肉屋は、罰として自分の商売をやらせるという。すなわち、売笑婦たちや風呂場の三助たちと怒鳴り合いながら腸詰めを売らせるというのである。ただし、戯曲の中では、萌黄色の式服は豚肉屋が纏い、クレオンの代わりにその座に着くことになる。

*8:デカルトは『宇宙論』第六章以下において、惑星の公転や物体の落下などの運動を説明する因子として、太陽を中心とする宇宙物質の渦動を想定した。この不可視の物質は巨視的にはひとまとまりの円運動をなすが、微視的には微細な粒子の集まりとされる。微粒子は空間中に充満し、衝突により互いに運動量を伝達しながら、全体としての渦動を形成する。個々の恒星系はそれぞれ一個の巨大な渦動であり、そうした渦動が集まって宇宙が構成されているとする。