第二章 サント=バルブ中等学校からルイ=ル=グラン高等学校、およびソルボンヌまで/レオン・カアンのもとで/初期の習作

 アンセルム長老や叔父のカアンと同じように、マルセル・シュウォッブもまたパリにやって来た。サント=バルブ校、つづいて由緒あるルイ=ル=グラン高等学校へ。高校で彼を迎えたブドール氏は、この若者の厚かましさに憤慨したものだった。地方の三年生がそのままパリで二年生になるとは、と*1。ここでも、受賞者名簿には相変わらず彼の名前を見つけることができる。1882年、彼は高名なブドール教授のクラスの二年次生だった。「メイエール・シュウォッブ」*2という名の生徒は優勝賞を手にしており、とりわけラテン語ギリシア語翻訳に秀でていた。学術コンテストでは、ドイツ語の二等賞だった。修辞学の第二部門をジャコブ氏とシャブリエ氏に学び、またしても二等賞を得た。上級修辞学はアッツフェル氏とメルレ氏に学んだが、彼らには篤い感謝の気持ちを後々まで保ちつづけた*3。また、哲学を著名なビュルドー氏のもとで学んだ。氏の容貌とその授業については、バレス*4が『デラシネ』の中で生き生きと描き出している。そこでもまた次点第一位であったが、大学入学資格試験ではワディントン氏に哲学で落第点をつけられることになる。その翌年に、この若者は賞賛すべき成績で合格を果たした。

 マルセル・シュウォッブは、当時すでに異彩を放っていた生徒たち、レオン・ドーデ*5ポール・クローデル*6、レオン・ベラール*7、ジョセフ・ベディエ*8、レオン・ドレス*9、ガブリエル・シヴトン*10らの知己を得た。マルセルはとりわけ学識があり、学校の授業は歯牙にもかけないところがあった。レオン・ドーデの証言によれば、彼は目先の結果などに囚われず、物事を草の根分けて調べつくす性質であった*11。《複数言語を操る能力に長けたユダヤ人らしく、彼は英語とドイツ語を流暢に話し、イマヌエル・カントを原書で読んでいた*12。彼を顧みようとしなかったビュルドー氏も、これには気を惹かれたに違いない》。好奇心は彼をさらに彼方へと導いた。マルセル・シュウォッブは初期からエウリピデスに至るギリシア哲学を研究した。彼は1883年から1884年にかけて、高等研究院で行われたジャコブ氏の講演に足繁く通った。『年報』の業績欄には彼の名が見えている。《文献学に対して勤勉な態度を有するシュウォッブ氏は、国立図書館所蔵の690年のギリシア語手稿に含まれたルキアノスの五つの対話の校訂を再検討し、完成させた。これはデルソー氏よって着手されたものである》*13。当時の学友の一人は、こんなふうに彼を皮肉っている。マルセル・シュウォッブはまるで、祈りの絨毯にうずくまり、ほとんど全身が隠れてしまいそうなほどの大冊を広げたタルムード学者、子羊の毛皮でできた縁なしのとんがり帽ををかぶった長老のようだった、と。

 そんな彼であったが、一方ではユーモアに富んだパスティーシュ、「我が歯の驚くべき物語」と題した作品をマーク・トウェインに献げる一面もあった。

 ともあれ、とりわけマルセル・シュウォッブに真の影響を与えた人物は、レオン・カアンであった。

 レオン・カアンは早くからマルセル少年に関心を抱いていた。彼は1881年にマルセルの母へ送った手紙にこう書いている。《もしもマルセルが閉ざされた部屋にいるならば、私たちがその鍵を回して彼を外へ連れだそう》。また、マルセルにはこのような手紙を送った。《親愛なるマルセル。君の翻訳は悪くない。文字どおりにみればね。むろん私はもっとも分かり易い例を挙げておいた。さあこの機会に、文字どおりの翻訳、つまり逐語的な訳と、正確な翻訳、つまり物事と思考を訳すことの違いがどこにあるのか、君に示そう。「torquere agmen ad dextram vel ad sinistram」という文を、君は「軍隊を右に、または左に移動させる」と訳した。1.torquere は「移動する」ではなく、「ぐるっと廻転させる」という意味だ。弩や投石機は torquere missilia、つまり「砲弾を発射する」ことができる。なぜなら、それらの武器は廻転するものだからだ。2.agmanは「軍隊」ではない。軍隊ならば exercitus だ。agmen は「行進のために整列した兵隊」、専門用語で言えば「歩兵縦隊」だ。3.「軍隊を右に廻転させる」というのも意味をなさない。もし君が平原の真っただ中で隊の先頭に立っていて、その隊には四人の兵士に伍長が一人しかいなかったら、そしてもし私が君に隊を右に移動しろと言ったら、君は私の命令をどう実行したらいいのか、理解できなくて困るだろう。さて、では agmen を「歩兵縦隊」の意味にとってごらん。君は二列に並んで行進する五十人の兵士を率いて、ある特定の方向に進んでいる。君が行進を別の方向に向けたければ、君はこう言う、《torquere agmen ad sinistram vel ad dextram》、すなわち《縦隊、右へ回れ、縦隊、左へ回れ》だ。フランス語の専門用語では、「方向転換、右!」だし、ドイツ語では「右へ、進め!」だ。

 覚えておくといい。このような場合すべてにおいて、言葉を子細に分析することで、つねに正確な翻訳が得られるのだ。

 今日はここまでにしておこう、親愛なるマルセル。私の少しばかりの語彙と、古代ギリシアとローマの成立と時代ごとの発展についての手短な概観も、もう君には分かっただろうが、有益なものだし、少しも退屈なことではない。時代ごとと言ったのは、第二次ポエニ戦争の時代とカエサルの時代*14とでは、技術水準に似ても似つかない隔たりがあるからだ。古代のスキピオの軍団がマリウスのものと異なり*15ルイ14世の連隊がナポレオンの連隊とは異なる*16のと同じことだ。

 蒙古関係の質問も山ほどあったね。手みじかに。ウイグル文字は古代のシリア文字で、中央アジアにはネストリウス派によってもたらされた。15世紀の終わりまで、中央アジアではトルコ語ウイグル文字で記したのだ。今ではアラビア文字と、他に二種類の文字を使っているがね。……心からのキスを。……君の叔父にして名づけ親、レオン・カアン》。

 

 今でも彼のことを憶えている人は多い。当時彼はマザラン図書館の主任管理員で、蔵書目録のカードに記す筆跡は大ぶりのはっきりした直立体、剣で刻んだような文字だった。彼の風貌はあたかも、古代の戦術について喜んで話をしているどこかの退役軍人を思わせた。この図書館員は、ありとあらゆる冒険家や船乗りや戦士の物語を知っていた。本の中でだけではなく、実際に小アジアやユーフラテス川流域に何度も旅をしたことがあった。中央アジアトルキスタンの人々の話は彼の専門だった。その知識には限りがなかったが、とりわけトルコについては詳しかった。けれども、彼の想像力は、彼自身をアジアの征服者たちの歴史と移住について書くだけにとどまらせなかった。彼は学問により想像的な形式を与え、しかも同時に事実に正確でありつづけた。そのようにして、彼はジュール・ヴェルヌマルセル・シュウォッブの父の友人でもあった)と同じ時代に、当時の男の子たちを魅了し空想をかきたてた多くの本を書いたのだった。『マゴン船長の冒険、あるいは紀元前一千年のフェニキア探検』(1875)、『青い旗、十字軍と蒙古征服時代のイスラム教徒・キリスト教徒・異教徒の冒険』(1877)、『アンゴーの水先案内人たち』(1878)、『傭兵たち』といった彼の著作を、子供時代に読んだことのない者などいるだろうか?*17

 

  W.G.C.ベイファンクが、仕事部屋でのレオン・カアンの姿を描いてくれている*18。そこには歩哨に立つ二人のタタール人の肖像があって、《トルコの小刀、半月刀、古い鉄砲が壁を飾り、写真の額には精悍な顔立ちをしたアラビア砂漠の部族長が、暗色の双眸に生気を湛えた姿を浮かべ、厳かな視線を投げかけていた。レオン・カアンは東洋風に胡座を組んで座り、煙草の巻紙を巻いている。この瞬間、彼の表情は静かだ。その顔つきは、頭上の壁に掛かったアラビア人の顔写真と、いくぶん似通ったところがあるかもしれない。けれども、その落ち着いた表情が一秒と続くことは決してない。少々の刻み煙草を巻紙で巻いたら……》そうして彼は立ち上がり、滔々と話しだすのだ。

 何と愉快で、魅力的で、果てしなく風変わりな男であったことか。剽軽で、意外性に富み、何でも心得ていて、探検家で、歴史家で、小説家で、文献学者で!豊かではなかったかもしれないが、彼の家は誰にでも開かれていた。そこを訪れる者は、学士院宮殿の高窓から眺めるセーヌ川の昼夜の眺めを賞賛した。それは、パリで最も美しい光景のひとつだった。《何と気持ちのいい空気じゃないかね?セーヌの川面と桟橋に沿っていっぱいのこの光を見たまえ!フランス学士院の中に間借りさせてくれるなんて、国もなかなか粋なはからいをするじゃないか。ここはパリでいちばん美しく、いちばんにぎやかな場所だよ》。

 レオン・カアンが迎え入れた人々の中には、エレディア家の者たち*19もいた。彼らは時おり晩餐にやって来た。「パルミラ小母さん」*20と呼ばれたレオンの妻は、気取ったところのない善良な主婦で、子供たちを立派に育てあげた。レオン・カアンは、笑いながら、聖書風の悪態を口にして、彼女に呼びかけるのだった。《人の顔をした畜生よ、煙草を寄こしてくれ!》

 それが、この切れ者の小男のやり方だった。どこも見ていないような目をして、グレーの髪を後になでつけ、鼻は剣の刃のよう、口髭はタタール人風だった。なによりも、レオン・カアンの大いなる力が発揮されるのは、彼が話をするときであった。また彼は大変なトルコ通で、トルコ青年党*21にも親しかった。

 

 1883年頃、マルセル・シュウォッブはこの叔父の傍らで、カトゥルス*22の詩を「マロ*23の時代の古フランス語に」翻訳しようと企てたことが知られる。その原稿は見つけることができなかったが、それに付された序文があって、こちらはずっと後になって書かれたものと思われる。というのは、マルセル・シュウォッブの晩年に、彼の口からそこに書かれた教えを度々耳にしたからだ。この序文には、彼の美しい翻訳の秘密の一端が示されている。

 《ここに、新たな〈猿楽詩〉——ボードレールが存命ならばそうも呼んだに違いないものをひとつお目にかけよう。私はこれを知的な文学人の世界に献げたい。嗜みがあり、良い書き手の価値がわかっていて、作家を高く評価するのに自分の考えを押しつけるようなことは決してしない人々に。すなわち、私のこの書は鼻にかかった口調で話し、文章もまたそのように書く人々のためのものではない。

 

   ところが彼ら物知り顔の行きつくところは、ただ単に

   疑わしい言葉を秤にかけて訂正するにとどまらなかった。*24

 

 韻文の翻訳というのは評判の悪いものだ。一方で形式を保とうとすれば、意味が完全に別物になってしまう。他方で意味を変えずにいようとすれば、形を悪魔に売り渡すことになる。どちらの方式も等しく不完全である。韻律を踏むという詩の技法が、翻訳の妨げとなるのは自明の理だ。それゆえ、韻文としての形態を保ちながら、多少なりとも正確な翻訳につとめるならば、破格の韻律法を選ぶ必要がある。私はマロの破格の韻律法、16世紀の自由な言葉遣いを真似ることで、これをなし遂げ得たと考える。

 カトゥルスを16世紀の言葉に翻訳した理由は、それだけではない。カトゥルスの時代におけるラテン語の形成段階は、我々においてはおおよそアンリ4世*25時代のフランス語のそれに相当するのである。私は、ホメロスを初期フランス語に翻訳したリトレの理論*26に従った。同程度の形成段階にあるこの二つの言語の間の、表現や言い回しの類似は信じがたいほどである。そもそもこの類似には、この場合はっきりとした理由があるのだ。16世紀には、カエサルの時代と同じく、ギリシア文学由来の言葉が影響力を持っていた。語彙のレベルでも観念のレベルでも、ギリシア的なものがみとめられるのだ。

 それゆえ、どれほど風変わりな考えに見えようとも、私の考えでは、カトゥルスを翻訳するには古フランス語によるほかない。私の翻訳の良し悪しはおいて、この試みが私につづく人々に、今や地ならしされた新たな道——形成段階を同じくする言語と文学間の類似性という道を切り開くことを望むものである》。

 1881年、十四歳のマルセル・シュウォッブは、「幻と目覚め、夢とうつつ」と題した覚え書きを書き留めた。思慮深くも、彼はこのように書いている*27。《五月には、これらの作品は素晴らしい出来ばえに思えた。六月には、莫迦げたたわごとと感じた。ヴィクトル・ユゴー氏は、若き日の詩を記したノートに、《我が未生の日々にものせし愚草集》と題している。私ならさらにこう書き加えるだろう。おそらくは死産、よりあり得べくは流産に終わるほかなき我が未生の日々に、と。この私が生まれ出る日を迎えることができるなどと言えば、自惚れのそしりはまぬがれまい……》。

 この作品というのは詩集であった。その最初の一篇、「何故ニ?」からは、彼の魂の在りようを如実に見てとることができる。

 

   この万能の予言者たちが、そうして何を得たというのか?

   死は、彼らを打ち倒すのを見逃しただろうか?

   マホメットにモーゼ、アブラハムとキリスト

   彼らがこの世を去ってのち、何かを手に入れただろうか?

   すべては虚妄、すべては誤謬、真なるものは何もない

   いかなる宗教であろうと、砂上の塔にほかならない

 

  これらの少年時代の夢想の中には、すでに一人の女性の姿、マルセル・シュウォッブの熱情的な面をあますところなく伝える恋の姿が現れている*28。彼女は十八歳で、彼はまだ幼くひ弱、人を魅了する眼差しもいまだ身につけてはいない。彼女のドレスがわずかに触れるや、彼は彼女の足の踏んだ地面に口づけるのであった。

 ユゴーが彼の師であった。『アイスランドのハン』*29を「発明した」ユゴーが。

 

   ——ああ!誰がかの時代を取り戻せるというのだろう

   犯罪と、アザラシの毛皮をまとった大男たちの時代を?

 

 彼の部屋の壁には、ユゴーの肖像が飾られていた*30。韻律が思い浮かばぬ時には、彼はその姿をじっと見つめるのだった(1881年5月)。

 

   …………………………………………そしてまた僕はその詩を読む。

   あまりに優しく魅惑に溢れ、大海原よりも穏やかな詩を。

   《星降る夜、波打ち際に僕はひとり……》

 

 マルセル・シュウォッブはまた絵も描いた。力強い筆で防塞を粗描した、ドラクロワ流の絵だった。少年時代の彼の詩は総じて、たぐいなき憂愁と、人間的な恐怖の感情と、人類の前途に対する悲観に満ちていた。読む者に訴えかける真正の才能は、たとえば絶対的な理想主義を謳った「カエサルの幽霊の言葉」にみとめることができる。

 

   ゾラを否定せよ!神よ、それはまさしく汚辱を否定することなのだ!

 

 彼の心はすでに愛と死にまつわる深い感情を宿していた。彼はノートル・ダムの塔に登ったが、それは「忌まわしき」パリの大都会を眺めるためではなく、ただ青い空を見上げるためだった。彼は三面記事の事件に基づく詩を作った。後々のモネルに通じる死を迎えたジスカという少女についての記事だった。憐れみを込めて、少年はこの若き娼婦の愛ゆえの自死を詩に作りなした*31

  1883年から1886年の間、高等学校のベンチに腰掛け、マルセル・シュウォッブショーペンハウアーを読み耽った。またそれと同時に手がけていた二篇の詩を、大作に仕立てあげるつもりであった。荒々しい野卑なロマンティシズムの詩「ファウスト」と、彼にサンスクリットの学習を決意させることになった「プロメテウス」である。

 《現代の文学は深い孤独を抱えてい*32。この世の文学がかつていかなる時代にも直面したことのないほどの孤独を。今日の人々は大いなる失望の中にある。少なくともこのフランスでは間違いなく、そして私の見るところ、世界中の国々も変わりはない。今この時にあって、我々はもはや笑うすべを知らない。その理由は、我々があまりにも生を急ぐことにあるに違いない。我々は、三百年前と比べ十倍もの早さで生きている。言葉、習わし、しきたり、知識、すべては変化し、目も眩むほどの速さで姿を消してゆく。蒸気と電気はこの恐るべき速さの象徴である。それらは我々を急峻な斜面に立たせ、七十年の人生を四十年で生きることを強いる。「もはや子供は存在しない」と言われて久しい。これは我々の誤ちではなく、老いた人類そのものの誤ちなのだ。我々は、まだ分別もつかない子供たちを戦士に、自己の存在の一部に責任を持たねばならない存在に仕立て上げるのだ。そうして我々は小さな老人をつくりだす。これは我々の誤ちではない。子供たちは年老い、そして老人たちは孤独だ。因習に囚われ思考停止した状態で、人生が足早に過ぎ去って行くのを彼らは感じている。また、現代の人間は専門化したあげくの袋小路に陥っている。かつて、靴直しや、パン屋や、指物師、そのほか他人の役に立つ専門の職人が必要とされたように、今日では専門小説家、専門詩人が求められており、兼業は許されなくなった。アア!カツテノ様ノナント変ワリハテタルコトヨ!

 これは十六世紀のある賢者のもじりによる格言である*33》。

 

 彼の日記にはまたこうも書かれている。

 《私は二通りの人間を知っている。顕微鏡人間と望遠鏡人間である。一方の調子が良い時には、他方の調子が狂いだす。それが、私が世界について知っていることのすべてだ。顕微鏡人間は、コップ一杯の水に溺れる人々だ。彼らの目にはすべてが大仰に映り、うわさ話や陰口を好んでそこから様々な結論を引きだす。彼らにかかれば、三階に間借りする女が家主の婦人を罵って言った言葉が、フランス一国の運命を左右しかねないことになる。この手の人々が、近親眼的な哲学者や偏狭な教授連になるのである。彼らはしばしば回想録を記したり、書簡のやりとりを行ったりするのを好む。人類の利益のためにはそうしなければならないのだ。

 望遠鏡人間の有益さもまた五十歩百歩である。彼らはあらゆる物事を大局的に眺める。そうして進歩の道筋を示すが、自らその道をたどることは決してない。そんな能力は無用の長物である。何の変哲もないの人生の出来事が、彼らにとっては未知のものなのだ。彼らはそのような人生は夢にも見ないし、顕微鏡人間と同じ考えを頭の中にめぐらせて同じ仕事をしようものなら、十五分に一度は怒りの発作を起こすのだ。彼らはその妻たちにとっての不幸であり、家族にとっての災いの種である。彼らはしばしば思い切った行動に出るが、そうして偉人の列に名を列ねることもある。人類の利益のためにそうでなければならないのだ。

 この二つの種族の間に、双眼鏡の軸の位置に身を置いた第三の種族が存在する。見た目にはどちらかの種族に属し、何も知ることなく何でもうまくやる。もっともありふれた種族である》。

 《どんな人間でも、何らかの私利私欲に基づいて物事を選択するものだ。魂の奥底にはエゴイスムがある。それを否定するのは子供じみたことであろう。それは計算づくの問題ではなく、本能の問題なのだ。もっとも取るに足りない不興も、もっともはかない喜びも、動機を持たないものはない。もしこのことが納得できないとすれば、それは私たちの知性が、動機の決定には何ら関わりを持たないからである》。

 《なかには私欲を持たぬように見える人々もいる。彼らは善良な人間と呼ばれる。大概は、彼らを動かす動機が隠されているだけなのだ。しかし、希に本当にそうでない者がいた場合、その人物は頭のおかしな人間とみなされる。私はそのような善良な人物というのを知っている。周りからは頭が足りないのだと思われているが、じつは彼は望遠鏡人間で、平凡な生というものを知らないだけなのだ。そうでなければ、彼もまた他の人々と同じようなエゴイストになっていたであろう》。

 《批評家という連中は、真っ直ぐに生きる正直者を嘲る不能者、宦官、傴瘻のようなものだ。彼らは何も生み出すことができず、他人の作品にヒキガエルの毒を吐きかけるのだ。これは妬み深いエゴイストである》。

 《間違いなく、すべての人間が何かしらの情熱を持っている。ある者は食欲に、ある者は恋愛に、ある者は酒に、また別の者は仕事に、野望に、安逸に、享楽に。めいめいが自分なりの喜びを手にとるのだ》。

 《私たちは他人の頭の中で生きることはできないので、他者の印象を自分の知覚を通じて判断しなければならない。だからこそ、他でもない人間観察家たることを学ばなければならないのだ。ブリュイエール*34セネカ*35も、顕微鏡人間以外の何者でもなかった》。

 《人間は、言われるほど怪物的な存在ではない。欲望を見つけ出せ。それが鍵だ》。

 

 後の人生においてもそうだったように、マルセル・シュウォッブはこの頃すでに隠棲生活を送っていた。というのも、彼が「監獄」とあだ名していた高等学校ではいつも上の空で、引き出しの奥深くに引き籠もっていたのである。1885年に書かれたこのバラード*36のように。

 

   樫の扉の下、僕の希望はついえた……

   清澄な光に包まれた寝室で、僕は夢みる……

   いま、ぐっすりと、安らかに息づきながら僕は眠る

   ただひとつの苦悩は、この目に何も映らぬこと

   そして泉水の湧き出づる地を、僕は求める

   マリーとマドレーヌは澄んだ鏡の中に……

   ビロードと黒檀の閨を、また僕は夢みる……

   

 この享楽とないまぜになったニヒリスムを、マルセル・シュウォッブはとりわけ「ファウスト」の中に移し替えている。

 

   《もう俺は疲れてしまった、死ぬほどくたくただ!

   来たれ、痩せ衰えた幻影どもよ!

 

   俺は死にたい、棺の中で腐ってゆきたいのだ

   俺とともにあるのはお前たち幻影だけ!

 

   智慧を求めて俺が見たのは虚無だった

   口を開けた深淵の底を俺の目は見た

   千もの口を開けた深淵を

 

   俺は旅から戻った、疲れ果てて

   俺は太鼓を打ち叩き、鐘を鳴らして回った

   宇宙は俺を挽き臼にかけ、粉々にした!

 

   港を目にしたとき、俺はふたたび航海に出た

   道なき道を俺は望んだ

   美しい夢を宝物に変えるため

   そして貪欲な死の手から隠しておくため

   なのに何も見つけられずに、俺はまだ探しつづけている!

 

 また女たちはこう語りかける。

 

   波打つ腰と両の腿

   心細げに震える胸の蕾

   半ば閉じた瞳に蒼褪めた唇

   喜びに満ちた胸もと膨らませ

   悖徳を知りつくした黒い瞳の美女たちを

   繻子の衣の腰うねらせる女たちを

   あなたは忘れたというのかしら!   

 

 ついに幸福にめぐり会えなかったことを歎くファウストに、現れたメフィストが言う。《ああ!気づきませんか、哀れな友よ、それは死に至る希望ってやつです。次から次へと約束をちらつかせ、精も根も尽き果てるまであなたを引きずりまわしますよ!》

 美しい愛の場面、無言の一幕が、ファウストとマリヨンとのあいだに繰りひろげられる。これに先立つ「プロメテウス」の中でも描かれていたものである。マリヨンは赤いベルベットで覆われた長椅子に横たわり、黒いシャツを身に纏っている。純朴なマリヨン。ファウストは彼女に口づけ、甘噛みする。しかし、物思いに耽ったまま長椅子の上で体を伸ばした彼女は、悲しげに頭を振る。——駄目、と言うかのように。

 

 お世辞抜きに評価して、これら初期の試作は、マルセル・シュウォッブの孤独な思春期、いや、すべての彼の世代の、ボードレール流の享楽が跡を留める思春期の、貴重なドキュメントを提供するものであると認めねばならない。そしてここにはすでに、装飾過多の詩人と、散文作家的な詩人との違いを見てとることが出来る。その後者として、やがてマルセル・シュウォッブは頭角を現してゆくのである!

 

 《なんて君は美しい、君の髪はなんて長くて艶やかなんだ——その瞳の青の深さにもひけをとらないほど——君は似ている……

  :マルゲリートに。

  ファウスト:天なる神よ、そのとおりだ!

  暗転……》

 

 ファウストをあちらこちらに引きずり回すメフィストフェレスのキャラクターは、ショーペンハウアーをヒントに造型されたものであった。

 

  ファウスト:お前が俺を押したり引いたり、そうやってもうずいぶん長いじゃないか。なのに俺はまだ何も見つけていない。いまだ人生は暗いトンネルみたいに俺の前で口を開けている。光はこっちまで届きやしない。

  メフィストフェレス:あなたの気に入るように世界を作り変えるなどと、約束した覚えはありませんよ。それに、私にあなたの考えを変えさせる力があるとでも?あなたの目に映るものを、見ているのはあなたです。そうではないとでも言うのですか?

  ファウスト:俺にはわからない——いや、わかるのが怖いんだ。すべてを変えるのは俺の認識だと言いたいのか?宇宙は俺自身の中にあるのだと?

  メフィストフェレス:どうとでもお気に召すまま。白状しますが、その時その時私はいつだって同じように、あなたの背中を一押ししていただけなのですよ。それがどうです——こうしてあなたは地上に生まれ出たじゃないですか!

  ファウスト:そしてお前は天に生まれ出たのだ。お前は俺の探し物を全部持っているくせに、俺に隠して決して見せようとしないのだ。

  メフィストフェレス:ええ、あなたとお近づきになれて幸運でした。あなたは決して死ぬことはありません。この世がこの世となって以来、あなたは常に存在しつづけてきたのです——そしてこの私も。私たちはいつだって道連れの仲間同士でした。憶えていませんか?

  ファウスト:何が言いたい?舌先三寸のプロテウス*37め。俺はこれまでもこんなふうにみじめな生を生きてきたのか?俺は何度も何度も齢をとって、そしてお前を知っていたような気がする。だがそれはきっと昔の夢だ、俺が現実と知るものを俺は信じる。

  メフィストフェレス:現実!またこの無意味な言葉のひとつが出ましたよ。あなたたち人間ときたら、そんなことを口にするのをやめようとしない!いったい現実の他に何があるというのです?夢だって、あなたがたの感覚の世界から生まれたものではないですか?——莫迦め——大莫迦め——人間を粘土にでもして、自分たちが知ることのならぬ未知の何かを捏ねあげるがいい!

  ファウスト:そんなことができるものか——お前が俺に約束したのはそんなことじゃない。

  メフィストフェレス:私はあなたをあなた自身の外に連れ出す約束はしていませんよ。私が差し出したのはまるごとの人生です。そして自分の使命に疲れ果て、あなたが命を落とした暁には……

  ファウスト:否——千回だって否だ!——俺は死なない。もしもスフィンクスが俺に質問したければ、俺は答えてやるさ……》

 

 さて、十六歳から十九歳にかけて、マルセル・シュウォッブはローマの地勢、街の人々の私生活、売り物の種類、劇場や円形競技場、浴場や旅籠や娼家の周りで繰りひろげられた様々な場面について、盛んにメモをとっていた。また、盗賊、奴隷、行商人や家畜商についても。それらのメモは、後々古代の盗賊や娼婦を描く際に役立った。
 彼はまた長編小説の構想を練っていた。ある女性の生涯を描く「プーパ、ローマ時代の生の光景」(1883-1886)である。彼はローマの田舎の風景を粗描している。この作品の中で、彼は、ローマの奢侈な暮らし、捨て子となったプーパ、その窮乏、スルピキウス橋の盗賊、ユダヤ人たち、「橋の下に住む卑劣な詐欺師」、そしてプーパの帰還を描くつもりだった。

 この試みの最初のページは、すでにシュウォッブらしさに溢れた確固たる筆致で記されている。

 

 《ナル川*38に沿った樹々の下に、プーパは横たわっていた。重なり合った枝々の下で水は静かに流れ、木漏れ日が影になった芝生の上に白々と光の斑を投げかけていた。彼女は仰向けに寝そべって、黒髪を垂らし、両手を頭の後ろにまわして支えながら物思いに耽っていた。山犬のストルヌーが腹ばいに巨躯を横たえ、その手を舐めていた。彼女はそうやって何時間も沈黙をつづけた。目はぶんぶんと飛び回る虫を追い、陽光の中を舞う蚊の気まぐれな輪舞や、水たまりの上を滑ってゆく水蜘蛛を眺めながら……》

 そしてまた、ギュスターヴ・フローベールを髣髴とさせるこのようなくだりもある。

 《その夜、スブリキュー橋の下は祝祭の気に満ちていた。襤褸をまとった乞食たち、忍びやかな盗賊たち、残忍な絞首人たちが、乱痴気騒ぎに興じていた。アーチの下には踊りの輪が廻り、熱狂した女たち、泥棒の腕の中で踊る売笑婦*39たちが、交叉させた足でリズムを刻んでいた。導火線の火がパチパチと爆ぜて不意の閃きを彼方此方の集団に投げかけた。橋の支柱に沿って、赤い火が焔の舌を伸ばして昇ってゆき、枝分かれして橋の石材に灯る燈りとなった。片隅では、小石の山の上に蹲った乞食が、椀に注いだ酒を黙って飲んでいた……》。

 この青年はまた、とりわけペローの時代の妖精譚をマザラン図書館で書写した。彼は「阿呆のマリー」の物語を考え出した。天国を夢みる頭の弱い女乞食の話であった。

 十六歳のマルセル・シュウォッブは、他にも多くの短編を書き残している。その一部は非常に重たく写実的な、女性の物語で、「フジェール」のような作品がこれにあたる。また一方では夢のような光景と慈しみに満ちた「灰色の石の墓」や「ヴィオレット」といった作品がある。ヴィオレットという名の少女は、盲目の男が中庭の手回しオルガンを奏でるのを聴き涙する(彼女はモネルを先取りした、その姉妹の一人に数えられよう)。彼は見習い水夫と難船の物語*40や、物事を知りすぎて自分自身を信じることができず、生きることを知らぬまま死んでいった男の物語*41を生み出した。

 また、「ナルシス」の中には、マルセル・シュウォッブ自身の姿を見てとることができる。この作品は間違いなく彼自身の自画像に基づいて描かれたものだ。

 《認めよう。少年時代には突然の情熱、しばしば後悔をともなう暴力的な激情にとらわれたこともあった。幸いにも、それは訪れた時と同じくらい速やかに消えていったけれど。僕はアプレイウス*42ペトロニウス*43、カトゥルスにロンゴス*44アナクレオン*45を読み耽った。すべての女性が僕には花に見え、僕は自分自身をその花に舞う蝶だと信じた。僕の楽しみは、街に出て、一篇のロマンスを夢みさせてくれそうな、洒落た女性たちの姿を追うことだった——つまり、後ろ姿ということだけれど。顔を見る危険はあえて冒さなかった。がっかりしたくなかったから。虚勢でいっぱいの僕は、どちらかといえば太りじしではあったけれど、詩的なポーズをとるのが大好きだった。詩は作らなかったけれど、やろうと思えばできただろう*46。ああ、自惚れに満ちたわが若き日々よ!僕は髪を伸ばし、ユゴーを天まで持ち上げた後で今度は批判するのだ——僕は若きゾイルス*47、たちの悪いアルセスト*48だった——そして誓おう、僕は実に魅力的なんだ。部屋の窓は僕の舞台。そこから毎日僕は自分を見せつける……》。

 ある夏の日、彼の庭に面した窓に、バイロン風の雰囲気につつまれて姿を現したうら若き乙女に、彼は一目惚れをする。彼女に向かってナルシスは叫ぶ、《愛しています》。彼は、彼女がもっとも清らかな接吻を投げて寄こそうとしていると思いこむ。そこでこの青年は、双眼鏡を取り出して彼女を覗く。すると目に映ったのは、鼻に指をつっこんだ彼女の顔であった*49

*1:フランスの学年制度は、初等学校 École élémentaireに入学した時点で第11学年から始まり、以下学年が減ってゆく。初等学校は第11学年から第7学年まで。中等学校 Collège は第6学年から始まって第3学年まで、高等学校 Lycéeは第2学年から始まり第1学年を経て最終学年に至る。ここでは、ナントの中学生だったシュウォッブが留年することなくパリの高校に進学できたことを言っている。

*2:シュウォッブのフルネームはメイエール=アンドレマルセル・シュウォッブ Mayer-André-Marcel Schwob である。

*3:〔原注〕ギュスターヴ・メルレについての彼の記事(『事件』 L'Évènement 紙、1891年2月20日)を参照。

*4:モーリス・バレス Maurice Barrès 1862-1923。作家、ジャーナリスト、政治家。フランス祖国同盟(次注参照)の幹部。シュウォッブとも交流があった。『デラシネLes Désracinés は1897年の作品。

*5:Léon Daudet 1867-1942。作家、ジャーナリスト、政治家。アルフォンス・ドーデの息子。1894年に起きたドレフュス事件(フランス陸軍参謀本部大尉のユダヤ人アルフレッド・ドレフュスがスパイの嫌疑で逮捕された冤罪事件)では、反ドレフュス派の知識人愛国者によって結成され、父アルフォンスが幹部を務めていたフランス祖国同盟 Ligue de la partie françcaise に加盟し、さらにそこから分かれた反ユダヤ主義・反共和主義の右翼運動ラクション・フランセーズ L'Action français に参加した。

*6:Paul Claudel 1868-1955、劇作家、詩人、外交官。

*7:未詳。レオン・ドーデの回想録『亡霊たちと生者たち』 Fantômes et vivants(1914)に、ビュルドー教授の哲学の授業で一緒になった学友として、シュウォッブ、クローデル、ベディエ、シヴトンらとともに名を挙げられているヴィクトル・ベラール Victor Bérard 1864-1931 の誤りかと思われる。ヴィクトルはヘレニズム研究者、外交官、政治家。ホメロスオデュッセイアー』の翻訳で知られる。

*8:Joseph Bédier 1864-1938。作家、中世フランス史研究者。

*9:Léon Dorez 1864-1922。司書、ローマ・イタリア史研究者。

*10:Gabriel Syveton 1864-1904。歴史学者。フランス祖国同盟の幹部の一人。

*11:〔原注〕『亡霊たちと生者たち』135頁。

*12:〔原注〕筆者は彼の書類の中から、トマス・ド・クインシー「イマヌエル・カント最後の日々」の非常に優れた翻訳を発見した。

*13:〔原注〕署名:ブラック氏。

*14:第二次ポエニ戦争は紀元前219-201年、カエサルの時代をその執政官就任から暗殺までとすれば、紀元前59-44年。

*15:スキピオは第二次ポエニ戦争カルタゴハンニバルを破ったローマの軍人スキピオ・アフリカヌス(大スキピオ)、もしくはその妻の甥で、第三次ポエニ戦争(紀元前149-146年)でカルタゴを陥落させたスキピオ・アエミリアヌス(小スキピオ)。マリウスはキンブリ・テウトニ戦争(紀元前113-101年)でローマ軍を率いて勝利に導いたガイウス・マリウスを指す。

*16:ルイ14世の在位は1643-1715年。ナポレオン1世の在位は1804-1814、1815年。

*17:〔原注〕一方で、『近衛兵ハッサン、1516年』(1891)や、『女暗殺者、1241年』は、きわめて優れた歴史叙述の書である。

*18:〔原注〕W.G.C.ベイファンク『1891年のパリのオランダ人』147頁。

*19:キューバ生まれのフランス高踏派詩人ジョゼ・マリア・ド・エレディア José Maria de Heredia 1842-1905 とその娘たち。娘のエレーヌ、マリー、ルイーズ三姉妹は、アンリ・ド・レニエピエール・ルイスをはじめとする文学者たちと恋愛、結婚、不倫を繰りひろげたことで知られる。参照、ドミニク・ボナ『黒い瞳のエロス——ベル・エポックの三姉妹』。

*20:パルミラはシリア中央部にある古代ローマ時代の遺跡都市。レオンの研究に因むあだ名であろう。

*21:オスマン・トルコ末期の19世紀末から20世紀初頭にかけて、専制政治の打倒を目指して運動した活動家たちの称。

*22:ガイウス・ウァレリウス・カトゥルス Gaius Valerius Catullus B.C.84-54、ローマの詩人。

*23:クレマン・マロ Clément Marot 1496-1544、ルネッサンス期フランスの詩人。

*24:フランスの諷刺詩人マチュラン・レニエ Mathurin Régnier 1573-1613 の『諷刺詩』Satires 第九篇からの引用。この詩は、古代の詩に対して、文法的におかしいなどとあげつらい、得意げに改竄をほどこして悦に入る悪しき文芸批評家たちを揶揄したものである。

*25:在位1589-1610。

*26:エミール・リトレ Émile Littré 1801-1881 は『フランス語辞典』 Dictionnaire de la langue française 1863-1873, 1877 の編纂で知られる。彼は『両世界評論』 Revue des Deux Mondes 誌第一期19巻(1847)に、「ホメロスの詩と古フランス語詩」 "La Poésie homérique et l’ancienne poésie française" と題した長編の論文を掲載し、その中でホメロスの翻訳に13世紀のフランス語を用いるべき理由を解説し、『イーリアス』第一巻の翻訳の実例を示している。

*27:本書『マルセル・シュウォッブとその時代』と同じ1927年にピエール・シャンピオンの編集でベルヌアール社から出版されたマルセル・シュウォッブ全集の第一巻『初期作品集』 Écrits de jeunesse に、同じ『幻と目覚め、夢とうつつ』 Illusions et désillusions, Rêverie et réalité の題名のもとに以下の文章を序文とし、シュウォッブの初期の詩が収められている。

*28:以下は『幻と目覚め、夢とうつつ』の第二篇「少年の愛」の内容。

*29:ヴィクトル・ユゴーが18歳で執筆した、17世紀末のノルウェーを舞台とした長編小説(1823)。「アイスランドのハン」はそこに登場する山賊の呼び名。

*30:以下の記述は、『幻と目覚め、夢とうつつ』に収められた詩「ユゴー」による。引用されたユゴーの詩は、『東方詩集』(1829)収録の「恍惚」。

*31:『幻と目覚め、夢とうつつ』所収の詩「歎き」"Douleur" 。

*32:以下は、「随想」 "Pensées" としてまとめられた1883-1884年頃の日記の文章。

*33:原文ラテン語 Heu! quantum mutatus ab illa. これはウェルギリウスアエネーイス』第二巻で、アイネイアースの夢にかつての勇姿を失い憔悴しきったヘクトールが姿を現した時に、アイネイアースの発した言葉で、昔と様変わりした様子を目にした時にしばしば用いられる格言。ただし、本来は末尾の語は illo (英語のthatにあたる指示代名詞 ille の男性形もしくは中性形奪格)で、この文ではかつてのヘクトールを指すが、シュウォッブの引用では女性形の illa となっていて、「かつての文学(la littélature=女性形)」の意をこめていると思われる。「16世紀の賢者」が誰を指すか不明だが、「もじり」と訳した licence(破格)というのはこの用法を指すか。

*34:ジャン・ド・ラ・ブリュイエール Jean de La Bruyère 1645-1696。フランスの作家。人間観察・探求家(モラリスト)として、『カラクテール』 Les Caractères ou les Mœurs de ce siècle(1688)の著作で知られる。

*35:ルキウス・アンナエウス・セネカ Lucius Annaeus Seneca B.C.1頃-65。古代ローマの哲学者、詩人。深い人間観察に基づく『幸福な人生について』De Vita Beata その他の随筆を多く残し、モラリストの先駆けともされる。

*36:『幻と目覚め、夢とうつつ』所収の詩「監獄」"Le Cachot" 。

*37:ギリシア神話の海神プロテウスが変身能力を持つことから、態度をころころ変える人、変節漢の意で用いられる。

*38:ローマのナルニア市(現在のイタリア中部、ウンブリア州テルニ県ナルニ)付近を流れる川。

*39:「泥棒」「売笑婦」は原文 foures および loupae 。それぞれラテン語の furis (盗賊、強盗)、lupae(雌狼の意で娼婦の隠喩として用いられる)と解してこのように訳した。

*40:「平手打ち」 "Giroflée" と題された掌編を指す。

*41:「物思い」 "Pensée" と題された掌編を指す。

*42:ルキウス・アプレイウス Lucius Apuleius 123頃-? 『黄金のろば』の作者。)

*43:ガイウス・ペトロニウス Gaius Petronius 20頃-66。『サテュリコン』の作者とされる。

*44:Longos 2-3世紀。『ダフニスとクロエ』の作者。

*45:Anacreon B.C.582頃-B.C.485頃。初期ギリシアの詩人。

*46:〔原注〕マルセル・シュウォッブが自身の詩を好まず、大半を破棄してしまったことが思い出される。とはいえ彼は無数の詩を書いた。「レオン・ドーデ夫人が食卓で彼の詩のひとつを引用したことに、彼は激怒した」(ジュール・ルナール『日記』、321頁)。

*47:Zoilus B.C.400頃-B.C.320。ギリシアの文法家・文芸批評家。ホメロスの批判で知られる。

*48:モリエール『人間嫌い』の登場人物。正直がモットーで他人を率直に批判する。

*49:原文 Elle fourrait ses doigts dans son nez。錯覚する、見間違える意の言い回し se fourrer le doigt dans le nez (自分の鼻に指をつっこむ)に掛けた洒落。シャンピオンの要約で省略された箇所には、ナルシスは近眼で、彼女の仕草が唇に指を当て投げキッスをしようとしているように映ったとある。