〈赤文書〉 le «Papier-Rouge»

 国立図書館にて十五世紀の写本を繙いていた私の目に、ある風変わりな名前が飛びこんできた。その写本には、『悦びの園』にほぼ丸ごと取り入れられた数々の《レー》*1、四人の登場人物による笑劇、そして聖ジュヌヴィエーヴの奇蹟譚が収められていた。だが、私の目を惹いた名が記されていたのは、そこに付された二葉の貼紙の方だった。それは十五世紀前半の日付を持つ年代記の断片であった。気になる一節というのはこうだ。
 《一千四百三十七年、冬の寒さは厳しく、そのうえ雹と豪雨による農作物への被害は、大いなる飢饉をもたらした》
 《加うるに、〈我らが主なるキリスト〉の祭り*2の時節、平野の民らが巴里の街に入城し、田野に悪魔あるいは異国の盗賊の跋扈する由を訴えた。首領バロ・パニに率いられた男女からなる一党は、民を掠奪し、殺した。彼らはエジプトの地の出と称し、固有の言葉を話し、その女らは純朴な民に賭博を教えた。この者らは比類なき盗賊かつ殺人者であり、またまつろわぬ者であった。》
 貼紙の余白にはさらにこう書き加えられていた。
 《件の首領および仲間の浮浪の輩は、パリ司法代官閣下の命により捕らえられ、極刑に処せられた。但し女一名が逃亡した》
 《加うるに、この年、アレクサンドル・カシュマレ師に代わり、エチエンヌ・ゲロワ師が、パリ司法代官裁判所刑事書記として着任したことを記しおく》
 この短い注釈のなにが私の興味を掻き立てたのか、しかと言うのは難しい。首領バロ・パニの名か、1437年、パリ郊外の農村に浮浪の徒が現れたというその事実か、それとも余白の書き入れが暗示する、首領の死刑、女の逃亡、そして刑事書記の交替とのあいだの奇妙な関連なのか。ただ、さらに深くを知りたいという抑えきれない気持ちだけが確かだった。そこで私はただちに図書館をあとにし、川岸に出ると、文書館で調べを進めるため、セーヌに沿って歩を進めた。
 官庁の鉄柵が並ぶマレー地区の狭い路地を抜け、古ぼけた建物の玄関口に立ったとき、ふと我に返った自分がいた。十五世紀の《刑事事件》などろくに記録に残されてはいない……シャトレの裁判記録簿に、連中の名を見つけ出すことができるだろうか?もしかしたら、高等法院に上訴したかもしれない……もしかしたら、〈赤文書〉の死亡記事に出会すだけかもしれない。〈赤文書〉を閲覧した経験はこれまでなかったが、その前にまず他の可能性を探ってみることにした。
 文書館の室内は狭かった。高い窓には古く細かな格子が嵌められていた。書類の束に向かって身をかがめた筆耕たちの姿は機械相手の工員を思わせた。奥の壇上に書見台があり、管理員が室内を見わたしつつつ仕事をしていた。差しこむ光にもかかわらず空気がくすんで見えるのは、古い壁の照り返しのせいだろう。通りの喧噪もここまでは届かない。親指で古写本の頁をめくる紙ずれの音と、ペン先のきしむ音のほかには聞こえるものとてなかった。1437年の裁判記録簿を繙き、最初の頁をめくったとき、私は自分もまたパリ司法代官閣下の刑事書記になった気がした。問題の訴訟には、Al. カシュマレの署名があった。この書記の筆跡は美しく、真っ直ぐ力強いものであった。処刑にあたり最後の告白を聴き入れる、生気に満ちた堂々たる身なりの男の姿が私の脳裏に浮かんだ。
 しかし、浮浪の輩とその首領の事件を追う私の調査は報われなかった。ただひとつ記録されていたのは、《カイロの王女と名乗る女》に対してなされた、魔術と盗みの訴訟であった。その女が例の一味に属することは但し書きに明らかだった。彼女はとある《男爵、夜盗の領袖》−−と調書では呼ばれている−−を伴っていた(この男爵〈バロン〉とは、年代記写本のいうバロ・パニに違いない)。彼は《きわめて繊細かつ洗練された男》であり、痩身に黒い口髭、柄に銀細工を施した短刀を二本腰に佩いていた。《しかして男はつねに〈毒麦〉*3を入れた布袋を持ち歩いていた。その毒は家畜を斃すに用いられ、これを混ぜた餌をはませた雄牛、雌牛、あるいは山羊は、奇怪な痙攣とともに急激な死を迎えるのである》。
 カイロの王女は捕らえられ、パリのシャトレ裁判所へ連行された。刑事代官の審問から、彼女が《二十四もしくはそのほど》の年齢であったことが知られる。花模様をいくつかあしらった羅紗のチュニックを身にまとい、組紐のベルトは金色に彩られていた。人を見る際、黒い瞳を奇矯なほどじっと見据えるところがあり、話す時には言葉を身振りで伝えるかのように、右手を絶えず閉じては開き、指を顔の前にひらめかすのだった。
 彼女はしわがれ声で、歯擦音の強い発音をしていた。審問に答えるあいだじゅう、判事と書記とを口汚く罵った。審問団は、尋問にあたり《自身の口より犯罪を詳らかにさせんがため》、彼女の衣服を脱がせることにした。小さめの架台が設けられ、刑事代官がすべての衣服を脱ぐようにと命じた。だが彼女はこれを拒否し、上衣、チュニックと、《絹織りらしく、またソロモン王の印の縫いとられた》肌着とを、力ずくで脱がせねばならなかった。すると女はシャトレの裁きの間をのたうちまわり、ついでいきなり跳ね起きたかと思うと、唖然とする判事たちの目の前に一糸まとわぬ肢体をあらわした。その立ち姿は黄金の肉身をまとった彫像かと思われた。《そして女を小架台につなぎ、少量の水をその面にかけると、件のカイロの王女は、件の責め苦より解放されんことを乞い求め、知るかぎりの事実を話すと請けあった》。彼女は獄舎の厨房へ連れられ、身を暖めた。《彼処にて女は面を紅潮させ悪魔のごとく狂乱した》。やや落ち着いた後に審問官らが厨房へ赴いたが、もはや彼女は何も言おうとせず、長い黒髪で口もとを覆ってしまった。
 その後彼女はまた裁きの間へ連れられ、大きな尋問台にくくりつけられた。そして《ほんの僅かの水をかけ、また飲ませんとするうちに、口を開いた女は縛めから逃れんことを切に願い、犯した罪の真実を告白すると誓った》。この度は彼女は肌着のほかにはなにも身につけようとしなかった。
 彼女の仲間たちの一部はすでに判決を下されていたに違いない。というのも、シャトレの審問官ジュアン・モータン師が、彼女に対し嘘をついても無駄である、《何となればその恋人、〈男爵〉は他の数名とともに絞首刑に処せられたのであるから》と告げているからだ(記録簿にはこの裁判のことは記されていない)。すると、彼女は猛烈な憤激に駆られ、《この男爵が彼女の夫またはその類のものであり、エジプトの侯爵であり、その名の示すとおり蒼い海からやって来たのである》と語った(〈バロ・パニ〉はロマの言葉*4で《大いなる水》もしくは《海》を意味する)。やがて悲嘆に暮れた彼女は復讐を誓った。ペンを走らせていた書記を睨みつけ、迷信深くも、その文字を仲間たちの滅びの源と信じた彼女は、書記がその紙に《呪符を描くか何かして》仲間たちにおこなったのと同じ目に遭わせてやると誓言した。
 次いでいきなり取調官たちに近づくと、そのうちふたりの胸と喉に触れた。すぐさま手首を抑えられ、縛り上げられたが、彼女はふたりに、今夜恐ろしい苦悶が襲うであろう、またその喉は無惨に切り裂かれるだろうと告げた。ついには泣き崩れ、この《男爵》と、《可哀相なみんな》の名を何度も繰り返し呼んだ。そして刑事代官が審問を再開したとき、彼女はおびただしい盗みを告白した。
 彼女とその一党は、パリ周辺のあらゆる市場町、とりわけモンマルトルとジャンティイーにて掠奪と《偸盗》を働いた。*5彼らは村から村へと徘徊し、夏の夜は秣の下に眠り、冬には石灰窯に宿を求めた。人家の垣の傍らを通るときには、干してあった衣類や布を巧妙に掠め取った。日中は木陰に野営しながら、鍋を繕い、虱を潰した。なかでも信心深い者たちは、潰した虱を遠くに棄てた。実際、彼らはいかなる信仰も持たなかったが、死者の魂が動物の身体に宿るとする古い伝承を守っていた。カイロの王女の命で彼らは、小舎の鶏を袋に詰め、旅籠の錫の食器を持ち去り、麦倉に侵入して蓄えを奪った。村人に追い払われるようなことがあると、王女は夜のうちに舞い戻るよう彼らに命じ、飼い葉桶に《毒麦》を混ぜ、井戸には《敷き布》を縫った拳ほどの袋を投げこみ、水を毒に染めた。
 この告白の後に会議が開かれ、審問官たちの意見は、カイロの王女が《無道極まりない盗賊かつ殺人者であり、疑いなく死罪に値すること、これをパリ司法代官閣下代理の名において宣告すること、そしてこの刑は王国の慣わしに則り執行される、すなわち女は生き埋めの刑に処されること》に一決した。魔術行使の件については保留とされ、翌日あらためて審理が開かれることになれば、その前に審問を行うこととなった。
 だが、記録簿にはジュアン・モータンから刑事代官に宛てた書簡が転載されており、彼がその晩、いかに恐怖に満ちた一夜を過ごしたかを語っている。カイロの王女が指先で触れたふたりの審問官は、刺すような痛みに心臓を貫かれ、暗闇のただ中で目を覚ました。東の空に曙光が射しそめるまで彼らは寝台の上で苦悶に身をよじり、どんよりとした日の出とともに館の使用人が見出したときには、蒼ざめて壁の片隅に身を丸め、ひき攣ったその顔には深い皺が刻まれていた。
 ただちにカイロの王女が引き出された。尋問台に裸身でつながれ、判事や書記の目を眩ませんばかりの黄金の膚に、ソロモン王の印をまとった肌着をよじらせた彼女は、審問官たちを襲った苦悶をその手によって送り出したことを認めた。二匹の《蟾蜍》すなわちヒキガエルが秘密の場所に隠してあり、それぞれ素焼きの大壺に入れられた生き物は、女性の乳に浸したパン屑で養われている。そしてカイロの王女の妹が、犠牲者の名を唱えながら、かの生き物の軀を長い針で貫くと、その口が泡を吹くあいだ、傷のひとつひとつが呪いをかけられた相手の心臓を苛むのだ。
 その後刑事代官はカイロの王女を書記アレクサンドル・カシュマレの手に引き渡し、以降の審理を行うことなく直ちに刑に処するよう命じた。この書記が以上の一件の記録に花押をもって署名している。
 シャトレの裁判記録簿に書かれていたのはここまでだった。カイロの王女の運命について、語ってくれるものはもはや〈赤文書〉しかない。私は〈赤文書〉の閲覧を請求した。司書に手渡されたのは、血の塊を塗りつけたような赤い革表紙の台帳だった。これは死刑の執行記録である。布の綴じ紐は長らく解かれた形跡がない。この台帳はアレクサンドル・カシュマレ書記の所持していたものだった。そこには執行人アンリ師への賛辞が記されていた。刑の執行を命じる文章の脇に、カシュマレ師は、絞首台に吊され苦悶に顔をゆがめた遺骸の素描をひとつひとつ描きこんでいた。
 しかし、ある《エジプトの男爵と異国の盗賊》の処刑記事−−そこにもカシュマレ師は、二連になった絞首台に吊られたふたつの人影を描いていた−−を最後に空白があり、別の筆跡がその後につづいていた。
 以降の頁にもはや素描の類はなく、エチエンヌ・ゲロワ師による次のような注記が記されていた。《本日1438年1月13日、書記アレクサンドル・カシュマレ師は特別審判に付され、パリ司法代官閣下の名の下に、極刑に処された。この〈赤文書〉の所持者であり、徒然なるまま絞首台を描きとどめた刑事書記は、突然の狂気の発作に襲われたのである。そして発作から起き直ると刑場へと赴き、その朝のうちに生き埋めにされ、いまだ息絶えずにいた女を掘り起こした。そして女の示唆によるものかどうかは不明であるが、夜になるとふたりの審問官の部屋へ向かい、彼らの喉を掻き切った。女はカイロの王女と名乗った。この女は現在野に逃亡中であり、いまだ捕えることを得ない。件のAl. カシュマレは自らの犯した罪を告白したが、その意図については口を開こうとしなかった。そして今朝、国王陛下の絞首台へと連行され、死の手に委ねられた。かくてその生の日々はここに終わりを迎えたのである。


訳注

*1:レーは中世フランスに発達した詩の一形式。ケルトに起源を持つと考えられ、物語詩や歌曲のかたちをとる。また『悦びの園』 le Jardin de plaisence は1501年頃にパリで出版された詞華集。672編の中世詩を収める。

*2:十月の最終日曜日。

*3:小麦に似たイネ科の一年草。表面に寄生する菌が毒素を作る。

*4:原文 roumi はロマ(ジプシーの別名)の言語を指すと思われる。現代ロマ語においても、baro pani は「大きな水」を意味する。

*5:15世紀当時のパリは、シテ島を中心に現在の1区から6区までの一部に相当する城壁に囲まれた範囲であった。モンマルトルやジャンティイーはその郊外にあたる。