第三章 学士マルセル・シュウォッブ

1885年から1886年にかけて、召集前入隊を志願したマルセル・シュウォッブは、ヴァンヌ*1の第35砲兵連隊において兵役に就いた。 この兵役生活の想い出は、『二重の心』のここかしこに容易に見出つけだすことができる。解き放たれた激しい情動を彼に教えたのは…

灰色の石の墓 La Tombe de pierre grise

それは古びた——ひどく年古りた墓だった。時代のついた墓石は灰色にくすんでいた。墓は劫を経た古森のただ中に開けた空き地にあった。樹々の幹は苔と地衣に覆われていた。その下の地面には樫の古木の高みからドングリが降り敷き、黄色い落ち葉が絨毯のように…

無情の一撃 Giroflée

僕は両親の反対を押し切って、十二歳で海に出た。不幸なことに、最初に出会ったのが意地の悪い船長だった。海の世界のあれこれなんて噂で聞いたことしかなかった僕は、八日にわたる体験ののち、自分の馬鹿さ加減をひどく悔やむことになった。「ああ」、僕は…

第二章 サント=バルブ中等学校からルイ=ル=グラン高等学校、およびソルボンヌまで/レオン・カアンのもとで/初期の習作

アンセルム長老や叔父のカアンと同じように、マルセル・シュウォッブもまたパリにやって来た。サント=バルブ校、つづいて由緒あるルイ=ル=グラン高等学校へ。高校で彼を迎えたブドール氏は、この若者の厚かましさに憤慨したものだった。地方の三年生がそ…

ヴィオレット Violette

あのね、叔父さん、年とったお爺さんだったの。とってもとっても年とってて。腰はすっかり曲がって、背中は波を打つようで、どこもかしこもそんな感じ。それで手回しオルガンを弾くの。あのね、ずっとおぼえてるわ。だって大好きだったから、手回しオルガン…

第一章 家族/少年時代/初等学校

マルセル・シュウォッブはラビと医者を輩出した家系の出である。一方には科学、他方には慈しみがあった。 母方は、厳格で卓越したカアン家であった。マルセル・シュウォッブはよくこう言っていた。《僕たちの不幸はカアン(Cahun、Câymとも)の子であること…

わが記憶の書 IL LIBRO DELLA MIA MEMORIA

イメージの《章》*1 わが記憶の書のその箇所に−−それより前にはとりたてて読むべきものとてない−−、とある章題が記されている…… ダンテ・アリギエリ*2 1 キリストと小夜鳴鳥 聖なる金曜日 キリストは十字架のうえで瀕死のてい 弟子たちはおそれおののき逃げ…

ユートピアの対話 Dialogues d'utopie

シプリアン・ダナルクは四十路にさしかかったところ。それを言われるととたんに不機嫌になる。歳なんか僕にはちっとも関係ない、世の俗事はみんなそうだがね、というのが彼の主張であった。上背は高く、痩せて日焼けした肌、目には激しい光をたたえ、鷲鼻の…

序文 Préface

I 人の生はまずそれ自体興味をそそるものである。だが、芸術を単なる絵空事に終わらせたくなければ、人生を、それを取りまくものとの関連において捉えねばならない。意識を持った生物は、個的な存在としての深い根を持つが、同時に、社会が彼のうちに多くの…

ティベリスの妻問い Les Noces du Tybre

傾きかけた陽光が彼女の歩む径となる カチュール・マンデス(『宵の明星』) ホルタの街の近郊で、ナル河はティベリス河に流れこむ。そのあいだを隔てるものは、ほんの小さな砂州とてない。まったく、ひとつの波も、ひとつの沫さえも立つことはないのだ。た…

画狂老人北斎伝 Hokusaï, le vieillard fou de dessin

古今東西の歴史や伝説に精通したシュウォッブだったが、生前に遺した文章の中で、日本の事物や人物に言及した箇所は存外少ない。そのわずかな例として真っ先に思い浮かぶのが、『架空の伝記』序文に触れられた北斎に関するエピソードだろう。 初の本格的なシ…

ガレー船徒刑囚の歎き La Complainte du Galérien (XVIIème siècle)

マルセイユに着いたとき 俺の心は魂消えた 見たのは徒刑囚の群れ ふたりひと組に繋がれた 俺は芯から魂消えた 逃げ出す手だてはないものか そこへ手痛い綱打ち一閃 否応なしに進まされた ガレー船に乗ったとき 監視人に出会した 怒りに満ちた面つきの カイン…

イタチのオジグ

ロングフェローの長詩『ハイアワサの歌』The Song of Hiawatha (1855) は、北米インディアンの伝説を下敷きにした創作叙事詩として名高い。その第一章と第三章をボードレールがかなり自由な翻訳でフランス語に移し替えているが、うち「平和のパイプ」と題さ…

闇塩売り Les Faux-Saulniers

シャルル・モラースに どういうわけで王のガレー船の櫂を漕ぐこととなったのか、それを話すのは屈辱に過ぎる。だが、十五ピエのペン*1を握って水に数書く人種は五通り、トルコ人*2か新教徒、塩の密売人に脱走兵、それに窃盗犯−−その中から最悪と思うものを選…

琥珀売りの女 La Vendeuse d'ambre

氷河の訪れがアルプスを襲う以前、黒と褐色の山並みを覆う雪はわずか、山肌に氷の穿った圏谷がまばゆい白さに輝く景色もそこにはなかった。今日、荒涼たる堆石の堤と、大小の裂け目がここかしこに崩れやすい口を開けた一面の氷原を見るのみの場所にも、かつ…

〈ボトロー〉あるいはヒキガエル奇聞

シュウォッブは読むことが書くことに直結していたタイプの作家だから、その作品を読むこちら側も、表に見えるものだけさらりと読んでおしまい、というわけにはいかなくなる。シュウォッブがなぜこのように書いたのか、考えながら読み進めるうちに、どうして…

〈赤文書〉 le «Papier-Rouge»

国立図書館にて十五世紀の写本を繙いていた私の目に、ある風変わりな名前が飛びこんできた。その写本には、『悦びの園』にほぼ丸ごと取り入れられた数々の《レー》*1、四人の登場人物による笑劇、そして聖ジュヌヴィエーヴの奇蹟譚が収められていた。だが、…

妖精の洞穴

「三人の税関吏」の舞台となったのは、ブルターニュ北部の港町、サン=マロ Saint-Malo 付近の海岸である。このあたりは、フランスにおける私掠船の一大拠点だった。この歴史的事実とともに、海の妖精についての昔話を数多く残す海岸部の民俗的風土を、シュ…

三人の税関吏 Les Trois gabelous

《おい、ペン=ブラス、聞こえないか?櫂の音だぞ》〈長老〉はそう言って、干し草の山を払いのけた。その下でいびきをかいているのは、沿岸警備を務める三人の税関吏のうちひとり。眠る男の巨大な頭は防水外套になかば隠れ、眉には干し草の茎が突き立ってい…

アルス島への旅(後篇)

アルスの古名 Arzh は、ブルトン語で〈熊〉を意味する。ブルターニュ地方に多く残るアーサー王伝説の Arthur も、同じ語源に由来する名前だ。ケルトにおいて、熊はある種の力の象徴であるらしいが、なぜこの島が〈熊の島〉と呼ばれたのかは知らない。かつて…

アルス島への旅(前篇)

モルビアン湾は、ブルターニュ南部の大西洋に面した入り海である。東西20kmあまり、南北に10kmあまりの湾内の広さにくらべ、湾を抱きかかえるように向きあうふたつの半島に挟まれた外海への出口は、約700mほどの幅しかない。湾と言うよりも沿海の湖と言った…

造物神モルフィエル伝 Vie de Morphiel, démiurge

モルフィエルは、他の造物神たち同様、〈至高存在〉がその名を口にしたときに、実在の世界へと呼び出された。するとたちまち、彼はサール、トール、アロキエル、タウリエル、プタイール、そしてバロキエルと同じく天の工房にいた。この仕事部屋を司る造物神…

ラムプシニト Rampsinit

目覚めの朝に死者の腕を差し伸べた盗賊との一夜が開け、ラムプシニトス王の娘アフーリは恋に落ちた。彼女は父王に、自らの処女を捧げた男を夫としたいと申し出た。盗賊への畏敬の念にうたれた老王はこれを許し、そのうえ玉座と、石壁で固めた倉の財宝までを…

オルペウス、イザナキ、ラムプシニトス

短篇「ラムプシニト」を書くにあたって、シュウォッブはヘロドトス『歴史』第II巻121、122章のふたつのエピソードを利用している。そのうち後者は、エジプト王ラムプシニトスが、冥界の女神のもとへ赴き、金のハンカチーフを手に入れて戻ってくるという内容…

アルスの婚礼 Les Noces d'Arz

バデール*1の下方、モルビアン湾*2を見下ろす丘の頂に、私たち−−私の馬と私−−は到着した。わが乗獣は潮の香の混じる空気を吸いこみ、頸を伸ばし、岩の割れ目からわずかに生えたヒースを毟りはじめた。私たちの足下で、丘は降るにしたがい舌の形にすぼまって…

序文 Préface

この書物には、いくつもの仮面と隠された顔が収められている。黄金仮面の王、毛皮の面をかぶった未開人、ペストに面貌を蝕まれたイタリアのならず者と作りものの顔を持つフランスのならず者たち。赤い帽子に頭を包んだガレー船徒刑囚。鏡の中でたちどころに…

オジグの死 Le Mort d'Odjigh

J・H・ ロニーに 人類が滅びの淵に立たされていたそのころ、太陽の輝きは月の冷たさに満ち、とこしえの冬に大地はひび割れた。地底の燃えるはらわたを天へと噴き上げ屹立した山々も、すでに灰色に凍る溶岩におおわれてしまった。幾条もの亀裂が、ここでは…