ティベリスの妻問い Les Noces du Tybre


 傾きかけた陽光が彼女の歩む径となる
 カチュール・マンデス(『宵の明星』)


 ホルタの街の近郊で、ナル河はティベリス河に流れこむ。そのあいだを隔てるものは、ほんの小さな砂州とてない。まったく、ひとつの波も、ひとつの沫さえも立つことはないのだ。ただひそやかにさざめく長く黄色い線だけが、ふたつの河の交わりを示している。岸辺には葦が生い茂り、ハリエニシダの混じるなか、翡翠や野生の鴨が駆けめぐる。柳の木が雫の滴る葉を垂らし、眠れる川面に枝を浸している。静けさが流れをわたってゆく。さざなみひとつない水面を覆う睡蓮の花は、黄色い雄蕊のまわりに白く大きな花冠を開いては閉じる。水の下では、つやつやとした鞘翅の太ったゲンゴロウが、紅い草の茎のあいだで水を掻き、トゲウオが葉に隠れて尖った背びれを逆立てる。
 女神ナリアは、流れのままに河のほとりへ漂っていった。葦の葉が身体に触れてわずかに撓み、肌をかすめて逃げ去った。彼女は草の上に身を投げだした。流れる髪を背にひろげ、芝生についた肘の上では、両の掌がおとがいを支えていた。煌めく小さな水滴が、薔薇色の、緑の、碧玉色の真珠となって、彼女の身体を覆っていた。黒い瞳の輝きは昏いダイヤかと見まごうばかり、深みを湛えた視線はナル河の水をティベリスの流れと分かつ黄色い線へと向けられていた。彼女はいつもそこで身を休めるのだった。彼方の水面にうねる泥の渦も、女神の白い手足を汚すことはなかった。傍らを流れ去るナル河の、《さようなら》と呟く声が、葦のあいまにささやいた。
 黄金の顎髭のティベリス神は、長いこと女神ナリアに恋をしていた。けれども、運命の神が彼にあてがった水の女神はいっこうにその身を委ねようとはせず、河神のかんばせは怒りに黄色く染まった。神はその水源をなだれをうって落ち滾らせた。狂い立った奔流は小石と土と砂を巻き上げ、倒木とわくら葉を轟音とともに押し流した。泥流が岸を乗り越え氾濫した。草花の頸を扼する黒泥が野原一面にひろがった。ローマの下水渠では大量の汚物が逆流し、通りという通りに噴き上がり、陽光の下で腐っていった。川岸の桟橋に暮らす城壁外の住民たちは、浸水した住居を棄て岸辺を離れた。平民のあいだには高熱をともなう悪疫が蔓延し、怒りに我を忘れた人々は神を罵った。
 そこで按察官たちは、かねがね聖なる書物の研究に余念のない《アウグリス》と《ハルスピケス》*1たちに伺いを立てた。暗い寺院の奥処で、彼らは燃える熾火の上に顔を寄せ、焼けた羊の肩骨に浮かびあがった罅割れをつぶさに調べた。雌羊のまだ湯気を立てる胸から血の滴る肝をひき抜き、不安気な面持ちでまじまじと凝視め、かぶりを振った。そしてついに、贖罪の儀式を執り行い、怒れるティベリス神に献酒せよとの結論が下った。
 厳かな行列が河の岸辺に沿って進んだ。神官たちはエミリウス橋のたもとで立ち停まり、重々しい声で祝詞を唱えあげた。群衆は、とどまる気配も見せず高まりゆく波に目を落とし、耳を傾け、黙想した。詠唱が終わり、行列はしずしずと橋を渡った。神官の長は端まで来ると立ち停まり、声高にローマの守り神ティベリス神の名を呼んだ。次いで、後ろに控えた二人の神官が手にした籠から、パイ菓子《スクリブリタエ》と蜜菓子《プラケンタエ》を取り出すと、泡立つ波の中へ投じた。さらに、銀製の壺の取手をつかみ、中身の香油を手早く橋の上に撒いた後、柘榴色のワインをしめやかに河へ注いだ。スブリキウス橋の手前の柱のそばで、つかの間ティベリスは赤く染まった。陽気な物乞いたちと襤褸をまとった子供たちが手を拍った。それから行列は歩みを再開し、いよいよ重くのしかかる沈黙の中、市城への帰途についた。
 だが、この儀式もティベリス神の気を惹くことはなかった。河神はあいかわらず沫立つ激流で泥土を押し流していた。ホルタの黄色い線は、いつしかゆっくりと後退し、ティベリスから分かれ遠ざかってゆくナルの流れを遡っていった。泥濘が睡蓮と紅い草を、ナリア女神の横たわる野を、そして柳の枝を穢した。ゲンゴロウとトゲウオは算を乱して逃げ去った。岸を降りる足を留めたナリア女神は、河のほとりに立ちつくし、変わり果てた流れの姿に、瞳を涙で潤ませた。
 涙に暮れる女神の姿を、水面に身を潜めたティベリス神が、逞しいその腕で流れを掻きながら窺っていた。女神は長いあいだもの思いに沈んでいた。夕陽の最後のひとすじが地平線に顫えて消えると、女神の姿は樹立ちのあいまへと消えた。ティベリス神はいや増す希望を胸に夜をさまよった。神は気晴らしの相手に自らのしもべ、小さなファルファルを探しに行った。ファルファルのせせらぎは今にも干あがらんばかりであった。ティベリス神の姿を見て喜びに躍りあがった小川の神は、岸辺に生えた睡蓮を一本引き抜くと、見つけ出した蛍を透きとおる葉の中に折りこんだ。そうして緑の茎のランタンを手に揺らし、跳ねまわりながらティベリス神の先に立った。
 《ファルファルよ》ティベリス神は言った。《今宵、己はナリアを泣かせてやったぞ》
 《やりましたね!》せせら笑いながらファルファルが言った。《あの女め、お高くとまりやがって。ヒメラにちょっかい出したと言って、おいらを追い払ったんだ。そりゃあヒメラの方がこの身の丈よりも大きいさ。でもそんなこと、恋路の邪魔にはなりゃしない。ふたり一緒に駆けぬけた夜、腰に手を回すのもあの娘は許してくれた。地面から抱えあげると、この腕に身をまかせてくれたんだ。口づけは、睡蓮の花に宿った露の香りみたいに爽やかだった。そんなふたりを、ナリア女神が見つけて眉をひそめたのさ。それからというもの、こっちが通りがかってもヒメラはそっぽを向いちまう。おいらに残されたものは、ちらりと送ってよこす目配せばかり。それでもめげずに遠く離れて追っかけた。すると、あの娘の軽やかな足先に触れた青い花が、ほんの少しだけうなじを曲げて言ったんだ。ヒメラの注いでくれた水は、しょっぱい涙の味がしたって》
 小川の神のおしゃべりがやんだとき、右手の樹のうしろで、微かな葉擦れの音がした。ティベリス神がそちらを見やると、葉陰にふたつの優しげな瞳が煌めいた。《ヒメラじゃないか》ファルファルが言った。《なんてキラキラしたお目々だろう!でも近づいたら逃げちゃうんだよなあ》
 だが、ティベリス神はおかまいなしに傍へ寄った。樹の葉はそよとも動かなかった。ファルファルが枝のあいまにランタンをかざした。やにわに白い腕が伸び、睡蓮をひったくると樹陰に消えた。それから抑えきれないくすくす笑いが響いた。ふたたびあらわれた手は、ティベリス神の肩に優しく触れた。《出ておいで、ヒメラ》ファルファルが訴えかけた。《怖がらなくっていいんだよ。ほら、おいらは樹の枝に上がるから。下には降りない。君の姿が見たいだけなんだ》
 雌鹿のごとくしとやかに、ヒメラは繁みから身を顕し、不安げにあたりを見回した。視線をあげると、いま自分が出てきたばかりの樫の木の枝に腰掛けたファルファルを見て微笑んだ。
 《おお、みことよ》澄んだ声でヒメラは言った。《わが主ナリアより汝がみことをお連れするよう仰せつかっております。ウェリヌス湖までお伴いたします。彼処にて主はお待ちです》
 《案内してもらおう》ティベリス神は答えた。《だがその前に、ファルファル、降りてきて道を照らしてくれ。ヒメラと己は後について行こう》
 こうして神々は歩き出し、滑るように森をよぎって進んだ。峡谷と淵の真上を翔ぶときも、夜の鳥たちを驚かすことなく、そっと気づかれずに通り過ぎた。山を通って神々は、ヒメラ川の岸辺に舞い降りた。切り立った川岸は霧に覆われていた。ヒメラが指先で触れると、たちこめた霧がぼうっと輝きだした。燐光の中へ三柱の神は足を踏み入れた。ファルファルがなおも先導をつとめ、手にした睡蓮を揺らすと、ちらちらと瞬く花冠の光が霞の中に浮かび上がった。ティベリス神は無言でそのあとを追い、傍らではヒメラが宙を舞った。神々はウェリヌス湖の方へと降っていった。ひろがる水面の彼方を、はや夜明け前の仄明かりが照らしだしていた。
 耳に沁み入るハーモニーが大気を顫わせた。ファルファルが小声で応じた。ティベリス神の耳もとで羽ばたきの音が響き、手を伸ばしたヒメラが見えない生き物をそっと撫でた。湖上に微かな灯りがひろがり、純白の帆立貝が、内から仄蒼く輝きながら浮かびあがった。その上に肘をついて、女神ナリアが身を横たえていた。まばゆい身体をほどいた髪が覆っていた。ヒメラは女神のもとへ駆け出し、足の上にちょこんと座った。ティベリス神は頭を垂れて一礼した。ファルファルは貝殻の天辺に跳び上がると、狂おしげな目でヒメラを見おろした。
 《許しを賜りたい、女神よ》ティベリス神はささやいた。《そなたに流させた涙の許しを》
 《ああ》ナリアは言った。《うまくわたくしを追い詰めましたこと。貴方がわたくしを追うのなら、わたくしはただ逃げるまで。けれども貴方はわたくしの流れを穢しました。だから貴方をここへ呼んだのです》
 《おお、女神よ》ティベリスは言った。《知っていよう、わが心は長らくそなたのもの。怒りを解いてもらいたいのだ。なにゆえこの愛しみを避けんとするのか?》
 《避けずにいられましょうか!》ナリアは強い口調で言い返した。《貴方は近づくものすべてをあだにするのです。清らかなわがナル河の水は貴方の手で泥にまみれました。貴方は山のみなもとを穢し、ローマの暗渠を淀ませました。貴方がその手で育んだ街、オスティアから連れ来たった異邦人たちに奪わせたその街をです。わたくしは誰のものにもなりません。純潔のままで幸せです!》
 《おお、女神よ》ティベリス神は言った。《聞いてくれ、聞いてくれ!山を愛しているのならば、いつまでもそこに留まるがよい。だが我もまたそなたを見つけに踏み入ろうぞ。おお、ナリアよ、独りで生きるなど穏やかなことではないぞ。天の偉大なる神々を見るがよい。ルナのように不幸にも独りきり、猟犬どもに牽かれてさまよい、地上の神官たちに夜ごと不毛の苦しみを歎かせるのか。マウォルスとウェヌス*2が良き手本となろう。女神の力は損なわれるどころか、あらゆる人間を支配しているではないか》
 だが、ナリアは応えることなくかぶりを振った。その瞳は濃く薄くたなびく霧を凝視めていた。ヒメラが身を起こした。足を湖水に浸し、手は貝殻の壁にかけ、沈黙のままゆるやかな目配せをファルファルと交わした。ティベリス神がナリアの手を取ったとき、黄金の陽光が射し初めた。何も知らない女神の心臓を射抜いた光は、欲望の神の放った一の矢に違いなかった。女神はティベリスの腕に身を委ね、そしてヒメラはおののきながらファルファルを抱きしめた。朝のそよ風が湖上に田園のざわめきを運んできた。雌羊がふるえ声をあげ、雄牛がうなり、雄鳥が刻をつくる傍らで、雌鳥がけたたましい鳴き声を立てた。
 陽光の愛撫が湖から霧の帷を持ち上げるとともに、神々の姿もまた薄れていった。ファルファルとヒメラはすでにほとんど消えかけていた。ティベリス神の姿も朧にかすみ、ナリアは朝靄の中へ溶けていった。地平を離れた太陽が湖上をまばゆい白さに染めあげたとき、最後の霧が神々の姿を運び去っていった。
 かくて、ティベリスとナリアの結婚は成就したのであった。


訳注:

*1:アウグリスは主に鳥の飛翔を観察して、ハルスピケスは主に犠牲動物の腸を観察して未来を予知するのがつとめだったが、ここは広く卜占官の意で用いていると思われる。

*2:マウォルスはマルスの古い詩語。軍神マルスと美神ウェヌスのとりあわせは恋人同士の象徴である。