画狂老人北斎伝 Hokusaï, le vieillard fou de dessin

 古今東西の歴史や伝説に精通したシュウォッブだったが、生前に遺した文章の中で、日本の事物や人物に言及した箇所は存外少ない。そのわずかな例として真っ先に思い浮かぶのが、『架空の伝記』序文に触れられた北斎に関するエピソードだろう。
 初の本格的なシュウォッブ伝『マルセル・シュウォッブとその時代』Marcel Schwob et son temps (1927) を書いた年下の友人ピエール・シャンピオン Pierre Champion によれば、北斎デューラーやホルバインと並んでシュウォッブの愛した画家であり、シュウォッブにとって「巨匠中の巨匠」と呼ぶべき存在であったらしい( ”Marcel Schwob parmi ses livres" (1926) 、Catalogue de la bibliothèque de Marcel Schwob 所収)。実際、北斎に対するシュウォッブの畏敬の念は、件の序文中の一節からもありありと見てとれる。

 画家の北斎は、百十歳になったとき、自らの芸術の理想に到達することを望んだ。そのとき、と彼は述べる、絵筆によって描かれるすべての点とすべての線は生命あるものとなろう。生命あるものとは、個別のものだと思いたまえ。点や線以上に互いに相似たものはない。幾何学はこの公準の上に成り立っている。北斎の芸術の完成には、点と線が、互いにこのうえなく異なったものとなることが不可欠であった。かくて、伝記の目指すべき理想は、ほとんど同じ形而上学を考え出したふたりの哲学者を、限りなく異なった相の下に描き出すこととなろう。これが、もっぱら人そのものを描き出すことにこだわったオーブリーの到達し得なかった点である。彼はなすすべを知らなかったのだ。北斎が夢見た、類似から差異を生みだす変容の奇蹟を。……

 このくだりを読み返すたび、いつもふたつの思いが頭をよぎる。ひとつめは、なぜシュウォッブは、序文の中ではなく本文として、北斎の生涯を作品化してくれなかったのか、ということだ。この短い一節からだけでも、いかにもシュウォッブ好みの掌編が想像できそうではないか。ふたつめはもう少し単純に、シュウォッブはどこでどうやって、北斎に関するこのエピソードを知ったのか、という疑問である。
 後者の疑問の方が、手がかりはつかみやすそうだ。シュォッブが言及したエピソード自体は、北斎七十五歳のとき、『富嶽百景』初編の跋として自ら草したものである。そこにはこう見えている。

 己六才より物の形状を写の癖ありて半百の比より数々画図を顕すといへども七十年前画く所は実に取に足ものなし七十三才にして稍禽獣虫魚の骨格草木の出生を悟し得たり故に八十才にしては益々進み九十才にしては猶其奥意を極め一百歳にして正に神妙ならん 百有十歳にしては一点一格にして生るがごとくならん願くは長寿の君子予が言の妄ならざるを見たまふべし 画狂老人卍

 だが、シュォッブにこの原文が直接読めたはずはない。問題は、『架空の伝記』が出版された1896年6月以前に、どのようなかたちでシュォッブがこの文章に触れることができたのか、ということだ。
 そこで調べていくうちに、1883年にパリで『日本の芸術』 L'Art japonais という二巻本が出版されていたことがわかった。この書物は極東の美術や工芸を初めて体系的に紹介した里程標的作品で、著者のルイ・ゴンス Louis Gonse は、そのうちの一章を北斎の紹介にあて、略伝を記したうえで上記の跋文を訳載している。
 当時のフランスでは、浮世絵をはじめとする日本美術が一種のブームを迎えており、作品の蒐集を行う愛好家も数多く出現した。なかでも、北斎に対する評価は高かった。その人気は、『架空の伝記』が出版されたのとおなじ1896年の2月に、エドモン・ド・ゴンクール Edmond de Goncourt による本格的な評伝『北斎Hokousaï が上梓されていることからもうかがえる。
 この著作は、ゴンクールが日本人の友人、林忠正の全面的な協力を得て書き上げた詳細な伝記であり(参照、小山ブリジット『夢見た日本 エドモン・ド・ゴンクール林忠正』、2006)、江戸期の『浮世絵類考』や、明治期の『葛飾北斎伝』といった先行資料に加え、北斎自身による文章の翻訳を多く加え、新たな画人像を描き出すことを目指した意欲作であった。同書の第五一章で、ゴンクール北斎による件の跋文を、ゴンスの訳に依りつつ引いている。また当該の部分は、これに先だつ1895年12月、『ガゼット・デ・ボザール』 Gazette des Beaux-Arts 誌上にいち早く掲載されていた。
 『黄金仮面の王』中の一篇「ミレトスの女たち」を捧げた友人の手によるこれらの文章を、『架空の伝記』刊行直前のこの時期、シュウォッブは必ずや目にしたに違いない。もちろんそれよりも先んじて、直接ゴンスの著作によって北斎の跋文を知っていたということも大いにあり得る。事実、『架空の伝記』に収められたパオロ・ウッチェロ伝の結末には、どこかこの北斎の理想の裏返しと取れるところがなくもない。もっとも、これは北斎の理想と言うよりも、北斎を通じて語られたシュウォッブ自身の芸術の理想と言うべきで、類似の中の差異、差異の中の類似はシュウォッブの生涯変わらぬテーマだったから、実作の中にこの序文を髣髴とさせるものがあったところでなんら不思議はないのだが。
 仮にシュウォッブがゴンクールの評伝以前にゴンスの著作を読んでいたとしても、そこに収められた略伝だけでは、自信の北斎伝をものするためには不足だったのだろう。だからこそ、北斎については敬愛の念を抱きながらも序文の中で触れるにとどまったのではないか。これがゴンクールの詳細な評伝であれば、あるいはシュウォッブに必要な素材を提供するのに充分だったかもしれない。だがやんぬるかな、『架空の伝記』の諸作が Journal 誌上に掲載されたのはひと足早い1895年のことだった。加えて、『架空の伝記』の刊行と相前後して深刻な体調の悪化を迎えたシュウォッブは、28歳のこの年以来数度の手術を繰り返す身となり、37歳で夭折するまで、ほとんど小説作品を遺していない。
 シュウォッブの北斎伝が書かれるには、ゴンクールの労作の刊行はほんのわずか遅すぎたのである。無論、たとえその刊行があと数年早かったとしても、ただちにシュウォッブがこれを自作のために用いようとしたかどうか、実際のところは誰にもわからない。だがそれでも、もしもシュウォッブが北斎の生涯を『架空の伝記』に加えていたなら、もしもあの珠玉のパオロ・ウッチェロ伝と並んで、「北斎 画狂老人」と題された一篇が収められていたなら……そのときこの書物に、どれほど新たな魅力が加わることとなっただろうか、そう思い描いてみずにはいられないのである。
 けれども同時に、あえてシュウォッブの筆を煩わす必要はなかったのかもしれない、とも思う。なぜなら、かように想像したときすでに、読者ひとりひとりの脳裏には一篇の架空の「架空の伝記」が、シュウォッブならば必ずやこのように書いたでもあろう北斎の生涯が、幾通りもの差異を孕みつつ語られはじめているに違いないからである。