〈ボトロー〉あるいはヒキガエル奇聞

 シュウォッブは読むことが書くことに直結していたタイプの作家だから、その作品を読むこちら側も、表に見えるものだけさらりと読んでおしまい、というわけにはいかなくなる。シュウォッブがなぜこのように書いたのか、考えながら読み進めるうちに、どうしてもその作品の向こう側にあるものにまでつきあってみたくなる瞬間がやって来るのだ。それがシュウォッブを読むうえでの厄介さであり、また楽しみでもある。いわば、読み終えるところから次の読書が始まるのだ。そういう意味ではこれほど贅沢な幻想小説もないだろう。
 「〈赤文書〉」は、そうした〈読む人〉としてのシュウォッブ自身の姿が織りこまれた作品であり、細部にわたる記述の中にも、シュウォッブの具体的な読書の軌跡が示されていて興味深い。
 たとえば、冒頭に題名だけ触れられる『悦びの園』は、正式な原題を Le Jardin de plaisance et fleur de rethorique といい、パリの出版業者アントワーヌ・ヴェラール Antoine Vérard が1501年頃に出版した一大詞華集である。収録された膨大な数の詩の中には、著名な「吊され者のバラード」 La Ballade des pendus をはじめとするフランソワ・ヴィヨンの作品も含まれている。ヴィヨンの研究家でもあり、その用いた隠語や属した盗賊団に関する論考もものしているシュウォッブならではのさりげない小道具の用い方と言えるだろう。
 さらに、物語の本筋により近いところでいうと、シュウォッブはこの作品の中で、ヒキガエルの別名として〈ボトロー〉 botereaux という耳慣れない言葉を使っている。調べてみるとヒキガエルの古名らしいので、《蟾蜍》という訳語を当てておいた。調べていく過程で分かったのは、この単語の用例が、『パリ・シャトレ刑事裁判記録簿 1389年9月6日−1392年5月18日』 Registre criminel du Chatelet de Paris du 6 Septembre 1389 au 18 Mai 1392 と題する二巻本の中に見出されるらしい、ということである。まさしく「〈赤文書〉」に関係のありそうな題名だ。シュウォッブの死後、蔵書を競売に付した際の目録(Catalogue de la bibliothèque de Marcel Schwob, 1993 所収)を閲してみると、「海賊、山賊、刑事裁判史」の見出しのもとに並べられた一連の書物の末尾に、その名が挙げられている。
 幸い、件の書物はフランス国立図書館の電子アーカイヴ Gallica から手に入れることができる。問題の箇所は第二巻の中ほど、そこには1390年10月29日から翌1391年8月19日にかけて長くつづいた一連の裁判の記録として、次のような事件の経緯が報告されている。


 舞台はパリから40kmほど東に位置するゲラール Guerart。この村で、農場を所有し宿屋を経営する地元の名士アンヌカン・ド・リュイリー Hennequin de Ruilly は、アンジュー地方のリリー村 Rilly en Anjou 出身の女、マセット Macette を妻として暮らしていた。ところが、結婚四年目の春先から、このド・リュイリーは原因不明の痛みに襲われ、以来病の床に臥していた。ある日、宮廷楽人をつとめる友人が見舞いに訪れ言うには、お前さんこれはどこぞの女に呪いをかけられたに違いない。なにか思い当たる節はないか。これを聞いた男の母親リュース Luce と妻は涙を流して慨嘆し、なんとか打つ手はないものかと知恵を絞った。そしてふたりが思い至ったのは、近くのベーム Besmes 村で〈聖女〉の評判をとる女性のことだった。大変な物知りで、尋ねられたことには何でも答えてくれるという。彼女のもとへ足を運べば、夫の病の詳細も、誰がその呪いをかけたのかも、真実のところが明らかになるに違いない。
 やがて母親に連れられゲラール村を訪れた〈聖女〉は、床に横たわるド・リュイリーをひと目見るなり、これは誰かが魔術を用いて呪いをかけたのだと告げた。取り憑いているものの正体はまだわからないが、この〈地獄の敵〉−−と〈聖女〉は呼んだ−−と一度話をしてみたうえで、知り得た限りの真相をまた報せに来よう。そうすればお前を助ける良い方法も見つかるに違いない。そう言って〈聖女〉は立ち去った。
 一日か二日経って、ふたたびやって来た〈聖女〉が言うには、この呪いの張本人は、パリに住む魚売りの女、ジルト・ラ・ヴェリエール Gilete la Verriere に究まった。じつはこのジルトという女、ド・リュイリーの以前の交際相手であり、その間にふたりの子供までもうけていたことを、妻のマセットは何度か聞かされていた。この女が蝋で人形をつくり、煮え立つ鍋に投げ入れて、ド・リュイリーに呪いをかけている。また寝床の下に大きなヒキガエルを飼い、これを針で刺しては苦痛を送りこんでいるのだという。死の瀬戸際へ追いやられたド・リュイリーの命は、あと十日もすれば尽きるところであった。
 その後も〈聖女〉は二、三日おきに村を訪れ、掌をかざすほかは何の薬も治療も用いなかったが、それでもド・リュイリーの容態は見る見る回復を遂げていった。やがて、ジルトはすでに呪いを諦め、ヒキガエルをセーヌに棄てたことが、〈聖女〉の口から告げられた。
 こうして、ド・リュイリーを襲った予期せぬ不幸は一件落着したかに見えた。ところが、この事件には裏があった。魔術を用いた真の犯人は、他ならぬ妻のマセットだったのだ。
 まだ故郷のリリー村で暮らしていた少女の頃、まわりの女たちがこんな話をするのを彼女は聞いた。もしも結婚を渋る男をものにしたかったら、真新しい蝋と瀝青を買ってきて、これを混ぜあわせる前に三度、ルシフェルという名の〈地獄の悪魔、敵〉を呼んでこう言うのだ。どうか私に手を貸して、我が思いと望みを叶えさせたまえ。頼みごとのわけをよくよく説き聞かせたら、今度は福音の聖ヨハネに三回、我らが父なる神とマリア様に三回ずつの祈りを捧げる。そうしておいてから、この蝋と瀝青を混ぜあわせ、寝床の傍に置いておくのだ。恋人と床を共にするとき、片手の甲にこの混ぜものを載せ、願いが叶うように念じながらルシフェルの名を三回、それから聖ヨハネ、父なる神とマリア様の名を三回唱えて祈り、相手の背中、肩と肩とのあいだにそっと塗りつける。これを二晩か三晩繰り返せば、遠からず望みのままに思いは遂げられるのだという。
 女たちの話はなおもつづいた。もしもそうやって結婚した夫が暴力を振るい、女を不幸な目に遭わせるようなら、良い復讐の方法がある。決して殺してしまうことなく、ただ長引く病で弱り果てさせてしまう方法が。そのためにはまた新しい蝋と白瀝青を買ってきて、それで子供の人形を作るのだ。混ぜあわせる前にはやはりルシフェルに願い事をし、その後で聖ヨハネ、我らが父なる神とマリア様への祈りを忘れずに。そうして作った人形を、火にかけた鍋に入れ、同じ名前を唱え挙げながら、願いが通じるようにと念じ、ぐつぐつと煮立てるのだ。すると、熱湯の中で人形が責め苛まれているあいだ、呪いをかけられた相手は同じ苦痛に苦しむことになる。何度でも繰り返せば繰り返すだけ、相手の病は引き伸ばされる。人形を熱湯の鍋に入れる際には、短刀の先で三つの十字架を刻む。それから銅の匙で鍋の中の人形を翻弄し、短刀でその身を突き刺せば、その度ごとに犠牲者は、恐ろしい苦悶にのたうちまわることとなるのである。
 そしてなおこのうえ大きな苦痛を夫に与えたいと望むのであれば、ヒキガエルを二匹、それぞれ別に新しい素焼きの壺に入れ、白パンの屑と女の乳で養っておくといい。夫を苦しませたい時には、例によってルシフェル、聖ヨハネ、父なる神とマリアの名前を唱えてから、素焼きの壺の口を開き、十分に長い針かもしくは鉄串で、中の生き物を思い切り突くのだ。ヒキガエルの苦しみはそのまま夫の苦しみとなり、決して死に至ることのない衰弱がつづくだろう。
 その後、同郷の男に連れられリリー村を出たマセットは、数年間の放浪のすえ、パリでド・リュイリーと出会い、六週間の交際を経て婚約を結ぶ。ところが、その直後にこの婚約者は仕事でスペインへ旅立ってしまった。しばらく向こうに滞在するとのことで、帰還がいつになるかもわからない。するとたちまちマセットは、放浪時代に付き合いのあったギヨー・ド・リール Guïot de Lisle という男と再び懇意になり、互いの家で関係を持つようになる。マセットが、村の女たちの話していた魔術を思い出したのはこのときだった。いつ帰ってくるのかわからない婚約者よりも、今つかみかけた愛情を手放したくないと考えたのだ。
 だが、半年後にド・リュイリーがスペインから戻ると、マセットはまた掌を返したように、この若くて裕福で権勢もある青年に巧みに言い寄り、結婚を迫った。しかし、婚約者がすぐには色好い返事をかえさないのを見て、マセットは行動を起こすことを決意した。パリのロンバール通りで蝋と瀝青を手に入れると、あの日女たちが言っていたとおりに混ぜものを準備した。するとどうだろう、その日のうちにド・リュイリーが彼女のもとを訪れ、寝床を共にした後で、眠っている男の背中にマセットはこっそりと用意したそれを塗りつけた。そのような夜が二度三度とつづき、思いもよらぬほどすんなりと、マセットは結婚の望みを遂げることができたのだった。
 それからまた半年ばかり後、ド・リュイリーの故郷ゲラール村にふたりが移り住むこととなった際、マセットは密かにロンバール通りの店を訪れ、新しい蝋と瀝青を買い入れた。万が一、この先ふたたびこれらの品が必要になったとき、誰にも気づかれることなく事を運ぶことができるようにとの周到な配慮からである。
 果たして、幸せな結婚生活は長くは続かなかった。ゲラールで居酒屋と旅籠を営んでいたふたりのあいだには諍いが絶えず、夫は妻が言うことをきかない、返事の仕方が悪いと言っては罵り、暴力を振るうようになった。この不幸な日々にもはやこれ以上一日も耐えられないと感じたマセットは、一度は驚くべき効果を上げた魔法の、残り半分を試してみることに決めた。ひとり部屋に閉じ籠もり、人形の呪いを実行したマセットは、この度もその著しい効験を目のあたりにした。夫はただちに病に取り憑かれ、突如襲い来る激しい痛みに苛まれるようになったのだ。
 ところが、その後もなお夫の悪罵と暴力はやまなかった。そこでマセットは最後の手段に訴えることにした。庭で見つけたヒキガエルを新しい素焼きの壺に隠し、ひと月ほどのあいだ、パン屑と女の乳で養った。乳は村に住む子守り女に頒けてもらい、雌山羊の乳に混ぜて与えた。それから壺の覆いを取り、何度も針で刺してみたが、思いのほかぶ厚い皮に遮られ、血も毒液も滴らせることはできなかった。
 そうこうするうち、件の宮廷楽人の訪れがあり、その言葉のほのめかしに、自らに疑いの目が向けられることを激しく恐れたマセットは、持ち前の機転を働かせ、たちどころに一計を案じた。なんとしてでもベームの〈聖女〉に頼みこみ、事の真相を明らかにしてもらうよう自ら提案した彼女は、母親が〈聖女〉を連れてくると、夫の容態を見せる前に〈聖女〉とふたりきりになり、これから話すことを決して口外しないと約束させたうえで、自身の行いを洗いざらい告白した。そして〈聖女〉になにがしかの金貨を渡し、どうか、ジルト・ラ・ヴェリエールという女こそが真犯人であると告げて欲しいと懇願した。〈聖女〉はこの頼みを引き受け、人形とヒキガエルを人知れず捨て去るよう忠告した。そして近隣の村々で名高い〈聖女〉の力をすっかり信用した夫は、ジルトが魔法を諦めたと告げられるやいなや快方に向かっていったのだった。
 ところが、事はこれだけでは済まなかった。マセットの魔術のあまりの効き目に驚嘆した〈聖女〉が、自分だけにこっそりとその方法を教えてくれないかと持ちかけてきたのだ。じつはこの〈聖女〉にも、心から結婚を願う相手の男がいた。男とのあいだにはすでにふたりの子供もいたが、男は〈聖女〉に愛情を示しながらも、家柄の違いを気にし結婚に踏み切ろうとはしなかった。マセットにこの頼みを断れようはずもない。蝋と瀝青を混ぜあわせる手順を教えてやったうえ、万一これでうまくいかない場合は、蝋に混ぜて相手に食べさせるため、ヒキガエルの毒を用意しておくと請けあった。まず混ぜものの術を用いて徒労に終わった〈聖女〉が、ふたたびマセットに相談を持ちかけようとしていた折りしも、ド・リュイリーの病の一件でいやが上にも高まった〈聖女〉の評判を聞きつけた当局が捜査の手を伸ばし、〈聖女〉とマセットのふたりはにわかに拘束され、パリのシャトレ裁判所で審問を受けることとなったのだった。はじめは魔術行使の容疑を否認していたふたりだったが、先に〈聖女〉が自白すると、抵抗していたマセットもとうとう罪を認めざるを得なかった。さらにマセットの自宅からは箱に隠した蝋と瀝青が、庭からは伏せた桶の下にヒキガエルが発見されると、これが動かぬ証拠となり、ふたりの女は共に焚刑に処せられてしまったのである。


 如上の裁判記録の末尾には、刑事書記 Al. カシュマレの署名が見える。といっても、「〈赤文書〉」に登場するアレクサンドル・カシュマレではなく、アローム・カシュマレ Aleaume Cachemarée がそのフルネームであることが記録の文中に見えているが、シュウォッブが〈カイロの王女〉の魔術に翻弄される書記の名前を案出する際、この名を参考にしただろうことは疑いない。
 2002年に Phébus 社より刊行された全集の注記は、この作品の背景として、1427年のパリに《浮浪の輩》が現れ、ただちに盗賊もしくは《悪魔崇拝者》と見なされるに至ったという当時の新聞記事を挙げているが、こと中世の裁判を描き出すための特殊な語彙と表現に関しては、かなりの部分をシュウォッブはこの裁判記録から借りている。とりわけ、架台に縛りつけられての尋問の様子など、〈カイロの王女〉自身に関する描写をのぞけば、ほぼそのままに取り入れられている。
 むろん、見るべきなのはこうした些末な引用関係よりも、これだけ剥き出しの欲望にむせかえりそうな、小説よりも奇なる事実から、〈恐怖〉と〈憐れみ〉の詩学を通してドラマの素材を抽出し、そして最後には例によって、女は善悪の彼方を軽やかに走り去り、男たちは軒並み破滅を迎えるという、お馴染みの物語に仕立て上げたその力業であるだろう。そうした意味ではむしろ、上記の概要では触れなかった、ふたりの女が極刑に値するかどうかを判断する審問官たちの逡巡のなかにこそ、〈自己〉が存在するとき必ず生まれる、〈他者〉への恐怖と憐れみのドラマは見てとれるのかもしれない。
 だがそれにしても、この裁判記録を喰い入るように読み耽りながら、新しい作品のアイディアをふくらませるシュウォッブの姿を想像してみるのはなんと楽しいことか。このときばかりは自分もまた、文書館で古写本の頁をめくるシュウォッブその人になった気が少しだけするのである。これもやはり、シュウォッブを読む贅沢のひとつであるには違いない。

 

 

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〈赤文書〉の実物。絞首台の絵が描きこまれている。http://www.archives.cotedor.fr/jahia/Jahia/archives.cotedor.fr/site/adco/pid/4138より