琥珀売りの女 La Vendeuse d'ambre

 氷河の訪れがアルプスを襲う以前、黒と褐色の山並みを覆う雪はわずか、山肌に氷の穿った圏谷がまばゆい白さに輝く景色もそこにはなかった。今日、荒涼たる堆石の堤と、大小の裂け目がここかしこに崩れやすい口を開けた一面の氷原を見るのみの場所にも、かつてはヒースの野のところどころに花がほころび、生命はいまだ熱い地に芽ぐみ、若草の上には翼持つ生き物がその身を息めていた。高原に刻まれた窪地の底、円い水のおもてに小波を揺らした数々の蒼い湖は、今では山腹の巨きなよどんだ眼となって、不安気で暗鬱な視線を投げかけている。そこを赴く者は、足下の深淵に気を配りながらも、底知れぬ死の瞳の凍れる奥処へと滑り落ちてゆく気にさせられるのだ。湖の周囲をめぐる岩山は、黒く魁偉な玄武岩であった。苔むした花崗岩の段丘には、陽光に照らされた雲母のかけらがいたるところで煌めいていた。それも今や、起伏のない霜畳の下から辛うじて幾ばくかの稜線ばかりをのぞかせて、あたかも石の眉のように、仄暗い氷原のぐるりを取り巻いているのだった。
 緑なすふたつの斜面に挟まれて、高い山塊の窪みに走る長い谷に、曲がりくねった湖があった。岸沿いに、あるいは湖心に、風変わりな構造物が、あるものはふたつずつ並び、またあるものは水の上にぽつんと佇んでいた。そのさまはあたかも棒杭の林の上に、先の尖った藁帽子が並んでいるかのようだった。とりわけ、岸辺から少し離れた場所に、水面から突き出た何本もの杭が、支柱の群れを形づくっていた。伐り出したままのささくれ立った幹はあちこちが腐り、ひたひたと寄せる小波に抗っていた。端を断った木杭のすぐ上に、枝と干した湖の泥でできた小屋が載っていた。円錐形の屋根はどの方向にも回すことができ、煙出しの穴から風で煙が押し戻されるのを防いでいた。広々とした納屋がいくつか見え、水の中へと降りてゆく踏み段も備わっていた。薄い板の架け橋が、方々で支柱の群れどうしを繋いでいた。
 大きく、丸々とした身体つきの者たちが、言葉もなく小屋から小屋へと行き来し、水面へ降り、磨き上げた石に穴を開け錘りにつけた網を引きずって、獲った魚を口にくわえ、時には生のまま小魚を骨ごと噛み砕いた。また別の者たちは、木枠を前に忍耐強くうずくまり、オリーブの実よろしく中を刳りぬいた燧石を、左の掌から右の掌へと抛っていた。石には縦に二本の溝が彫られ、小枝を割いた逆棘のある繊維が結ばれていた。膝の間に挟まれた二本の縦棒が木枠の上を滑ると、行ったり来たりの動きの中から、横糸に間をおいて交叉した繊維の網が織り出されてきた。堅い木の掻器で石を割り出し道具を作る者の姿も、窪んだ砥石板を掌に載せ石器を磨く者の姿もそこにはなかった。地方から地方へ旅をして、穴を穿った鹿の角を持ち歩き、美しい玄武岩の斧や、日の昇る土地からもたらされた翡翠や蛇紋岩の優雅な刃をトナカイの革紐で据えつける、手練れの柄つけ人を見かけることもなかった。獣の白い歯や磨いた大理石の玉に巧みに糸を通し、首飾りや腕輪をつくる女たちも、肩骨に曲がりくねった線を刻み、族長の持つ笏杖の飾りを彫るのに鑿を振るう職人たちもいなかった。
 湖上に暮らす者たちは貧しく、豊饒の地から遠くはなれて、道具も宝石も持たない種族だった。必要な物のあるときには、木を大きく刳ったカヌーでやって来る旅の商人から、干し魚と交換に手に入れた。身にまとう服もそうして購った革から作ったものだった。網の錘りや石鉤のためにも、売り手の到来を待つほかはなかった。飼い犬もトナカイもいなかった。ただ、泥だらけの子供たちがひしめきあい、杭の間際で水を跳ねあげていた。開けた空の下、水に鎧われた隠れ家で、彼らは惨めに自らの孤塁を守っていた。
 夜の帷が降り、湖を囲む山々の頂にはまだ白い輝きの残る時刻、水を切る櫂の音がして、柱にカヌーのぶつかる響きが聞こえた。灰色の霧の中に、三人の男と一人の女の影が浮かび、湖へ降りる踏み段の方へ進み出た。手に手に槍を握り、父親の男は、溝の彫られた石の玉を、ぴんと張った紐の両端にぶら下げていた。水面から突き出た杭のひとつにもやわれたカヌーの中では、異郷の女が、豪奢な毛皮に身を包み、藺草で編んだ籠を手にして立っていた。細長い小籠の中に、黄色く輝くものが山と積まれているのが見えた。石の彫り物も顔をのぞかせた籠の荷は重そうだったが、異郷の女はたくましいその腕で、ぶつかりあう荷が音を立てる籠を軽々と運び上げ、まるで燕が庇の下の巣穴へ吸いこまれるように、ひと飛びで円錐屋根の下まで飛び移ると、泥炭の火の傍にしゃがみこんだ。
 彼女の姿態は、湖上の種族とはあまりにかけ離れていた。彼らはといえば、ずんぐりとして鈍重で、手脚を覆う節くれ立った筋肉が隆々と筋目を走らせている。黒く油がちな髪は真っ直ぐ固まった房となり肩のあたりまで垂れていた。頭は大きく幅広く、平たい額が膨らんだこめかみまでつづく一方、射るような光を宿した眼は眼窩の奥に小さく落ち窪んでいた。異郷の女の手脚はすらりとした優雅さをたたえ、豊かな金髪に冷たく澄んだ瞳が誘いかけるかに思われた。湖上の群れの人々がほとんど口をきかず、時たまごく短い音だけを呟くかわり、よく動く目であらゆるものを執拗に睨めまわすのにくらべ、異郷の女は意味のわからない言葉を絶え間なく口走りながら、笑顔を振りまき、身振りで訴え、品物を撫でたその手で男たちの手をさすり、腕を取り、叩き、おどけて押し払い、目にはとりわけ飽くことを知らない好奇心を浮かべていた。彼女の笑いは大きく開けっぴろげだった。魚獲りに生きる者たちは乾いた薄笑いよりほかに知らなかった。だが金髪の売り手が持つ籠を凝視める彼らの目は貪婪に光っていた。
 彼女は籠を部屋の中央、火を灯した樹脂片のそばへ押しやり、赤い微光に輝く品を取り出して見せた。それは細工を施した琥珀の棒だった。透明な黄金のごとく澄みわたった光が、見る者の目を驚かせた。乳白色の条脈が取り巻く大玉や、面取りをした小粒、小ぶりの棒と玉を連ねた首輪があった。むくの塊から削りだした継ぎ目のない腕輪は、脇の下まで上がるほど大きく、平たい指輪、小さな骨の止め針がついた耳輪、麻を梳く櫛、族長の笏の頭飾りもあった。彼女がこれらの品を盃の中に投げ入れるたび、鐘のような音が響きわたった。編んだ白髯を腰帯のあたりまで垂らした年老いた男が、この見慣れぬ容れ物を手に取り、熱心に凝視めた。こいつは魔法の代物か。生命あるかのように音を立てるではないか。青銅でできたその盃は、鋳造の術を知る種族から買われたもので、光を受けて燦然と輝いた。
 だが琥珀の輝きもそれに劣りはしなかった。その値打ちは計り知ることもできなかった。小屋の暗がりは黄色い富の光に満たされた。年老いた男は、小さな目をじっと空に見据えた。家族で唯ひとりの女は異郷の女の周りをうろつき、今度は親しげに近づくと、首輪や腕輪と黄金の髪の色を見くらべた。燧石の刃で破れた網の目を裁ち切りながら、若い男の一方が、欲望の火に燃える視線を金髪の娘に投げかけていた。弟の方の息子である。干し草の寝床の上では、寝返りに床をきしませながら、兄が苦しげに長息をついた。彼の妻は先日子を産んだばかりであった。彼女が赤子を背に結び、夜漁に用いるある種の底引き網を、支柱の群れに沿って引き回すかたわら、夫は寝床に横たわり病んだ呻きを洩らしていた。その夫が首を回して顔を向け、父と変わらぬ貪欲な目つきで琥珀の溢れる籠に見入った。両手が渇望におののいた。
 間もなく、彼らは静かな身振りで琥珀売りの女に籠の覆いを戻すよううながし、炉のまわりに集まってなにか相談するそぶりを見せた。年老いた男が口早に言葉を発すると、彼らの目は一斉に年上の息子の方へ向けられた。視線の先で男の瞼はせわしなく瞬いた。それだけが彼らが言葉を解する徴だった。水の生き物相手の生気に欠けた暮らしに、彼らの顔は獣のような無表情に凝り固まってしまっていた。
 枝組みの部屋の奥に、空いている場所があった。他よりはきれいに切り出された横木が二本、床をなしていた。彼らは琥珀売りの女に、半身の干し魚を囓り終えたらそこに寝て良いと身振りで示した。傍らの素朴な袋網は、夜間に住居の下に張り、湖のあるかなきかの流れに沿って泳ぐ魚を獲るためのものに違いなかったが、長らく使われた形跡はなかった。琥珀を満たした籠は、眠る女を安心させるように、その枕上、彼女が身を伸ばした二本の横木の脇に置かれた。
 それから、ひと言ふた言呟く声がして、樹脂片の灯火が消えた。床下の柱の合い間を流れる水の音が聞こえた。流れはその掌でひたひたと杭を叩いていた。年老いた男がどこか不安にくぐもった声で、尋ねかけるような言葉を発した。ふたりの息子は応と返したが、ふたつめの声には隠しきれないためらいが聞き取れた。そして水の囁きに包まれて全き沈黙が訪れた。
 だしぬけに、部屋の奥でつかの間のもみ合いがあった。ふたつの身体がもつれあう音、うめき声に鋭い悲鳴が何度か、そして息の緒の絶える喘ぎ。年老いた男が手探りで立ち上がり、手に取った袋網を投げうった。次いでやにわに琥珀売りの女の寝ていた横木を溝に滑らせ、夜漁のための床穴を開いた。何かを投げこむ音、ふたつの落下音、水面を叩く短い響き。火を灯された樹脂片が穴の上にかざされたが、湖の面には目に映るものとてなかった。それから年老いた男は琥珀の籠をつかみ上げた。年上の息子の寝床の上で、ふたりの男が宝を山分けするあいだ、妻はこぼれて散らばる小さな粒を拾い集めた。
 朝が来るまで、網が曳き上げられることはなかった。琥珀売りの女のむくろは髪を切り取られ、白い身体は魚の餌にと、床下の湖面に投げ棄てられた。溺れた男の遺骸の方は、年老いた男の燧石の短刀で頭蓋骨を輪切りにされ、露わになった死者の脳のあいだには、来世に備えて護符が挿し入れられた。それから遺骸は小屋の外に安置され、頬をかきむしり髪をひきちぎる哭き女たちの声が高らかにこだました。