アルス島への旅(前篇)

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 モルビアン湾は、ブルターニュ南部の大西洋に面した入り海である。東西20kmあまり、南北に10kmあまりの湾内の広さにくらべ、湾を抱きかかえるように向きあうふたつの半島に挟まれた外海への出口は、約700mほどの幅しかない。湾と言うよりも沿海の湖と言った方が良いくらいの穏やかな水面に、シュウォッブが「アルスの婚礼」で描いたアルス島 île d'Arz や修道士島 île aux Moines をはじめとする数十の小島が浮かび、さながら箱庭の中の多島海といった相貌を呈している。

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 湾の最も内奥に位置する港町ヴァンヌ Vanne は、ブルターニュ風の黒いスレート葺きの屋根や、彩色された木組みの梁を見せる中世の家並みを残す街だ。通りのあちこちにはブルターニュ名物のクレープ屋があり、テーブルの上には必ず林檎酒を入れるボル(取っ手のついた陶製の椀)が置いてある。そんな店のひとつを覗いていると、向かいの店先に木靴の束が積み上げられているのが目に止まった。シュウォッブの小説の少女が履いていたのも、このような木靴だったのだろうか。なるほどたしかに大きくてぶ厚い靴だ。これを履いて海辺の岩場を歩くのはさぞ難儀することだろう。

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 湾内でもっとも大きな島である修道士島へ渡る定期船は、ヴァンヌから西へ車で15分ほど走った先にある、〈白い港〉Port Blanc という名の小さな港から出ている。港の埠頭からは、修道士島がほんの目と鼻の先に見わたせる。その間の距離はせいぜい400mといったところか。
 修道士島はちょうど十字架のような形をしていて、横木にあたる短辺が約3km、長辺が約6kmある。その短辺の西端が〈白い港〉と向き合い、反対の東端は隣のアルス島と向き合っている。アルス島との距離は800mほど。一方、陸から直接アルス島に渡るとなると、もっとも近い場所からでも1.4kmばかりある。静かなモルビアン湾の中とはいえ、アルス島へ渡るには修道士島を経由するのがもっとも確実な方法だったのだろう。まして西のバーデン Baden 方面からアルス島を目指せば、自然、修道士島が海上の通廊の役目を果たすことになるのである。「アルスの婚礼」の語り手が、バーデンのはずれから修道士島を経て、アルス島の見える浜へと至った経路がかくて納得される。

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 だが〈白い港〉から眺めると、アルス島は完全に修道士島の陰になって、見ることはできない。反対の方角には、たしかにシュウォッブが記すように巨石文明の遺跡がのこるガヴリニス島があるのだが、こちらも手前の島影に隠れて見えない。「アルスの婚礼」に描かれた風景は、実際には語り手が桟橋へ降りる前に馬を止めた丘の上から見たものだったのだろうか。

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 朝の港で船を待つあいだ、岩場の辺りを見回してみると、おびただしい量の海藻がいたるところに打ち寄せられていた。この後、湾内のあちこちで見かけることになるのだが、ホンダワラに似て気泡を持った海藻で、ブルターニュやノルマンディーの海岸地方ではこれをゴエモン goémon と呼び、燃料に用いるそうだ。ゴエモン、五右衛門……シュウォッブの作品にも時折登場するこの言葉、日本人には耳慣れたその響きからすぐに覚えてしまった。

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 修道士島での道行きで、主人公たちは村の狭い路地や、野中の石壁に挟まれた長い通りを歩いた、とシュウォッブは書いている。この後者(原文 les longs corridors entre les murailles des champs)が具体的にどのようなものを示すのかいまひとつわからなかったのだが、その疑問は実際に修道士島に降り立ってみて氷解した。

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 修道士島では、民家の敷地は必ず低い石積みの壁で通りと隔てられている。道に面して家屋が密集するヴァンヌの街ではこういうことはない。むしろヴァンヌのような街並みがフランスでは普通だ。この石壁が修道士島を特徴づける景として選ばれたのもうなずける。

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 民家の周囲だけでなく、中心部を離れた島端の広い野原や、林檎の木を植えた果樹園などもみなこうした石壁で仕切られている。まさに野中の石壁といったところだ。修道士島への渡し船を待つ場面に、崩れた石積みの壁 murs des pierres sèches en ruine とあるのもこれだろう。pierres sèches とは、モルタルなどの目地止めを用いず、石だけを積み上げる建築法のことだそうだ。

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 村の狭い路地というのはまさにその通りで、中高になった島の中心部では、家と家のあいだを曲がりくねった小道が走っている。時折、藁葺き屋根の民家を見かけたが、他の場所では同じような家にはお目にかからなかった。この島独特のものなのかもしれない。

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 シュウォッブは、こうした風景を実際目にしたのだろうか。ピエール・シャンピオンの伝記『マルセル・シュウォッブとその時代』によれば、シュウォッブは十代の終わりにヴァンヌで兵役を経験しているから、自ら訪れる機会もあったのだろう。そうでないと、ここまで具体的で的確な細部の描写はちょっと説明できない。そうした具体的な細部の積み重ねが、幻想的で想像上の時や場所を舞台とすることの多いシュウォッブの小説にあって、この作品に異質な光彩を与えている。

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 小説には、島を訪れた二人を迎える犬のことが書かれているが、本当に通りを歩いていると犬を良く見かけた。船を降りた港のそばで出会った野良犬は、村の路地をしばらく先に立って案内してくれた。しかし、黒いヴェールに顔を隠した娘たちを見かけることは、今ではもうない。島へ渡る際に同船した村の娘らしき金髪の少女は、ピンクのセーターとジーンズに身を包み、隣に座った少年が話しかけるたび、「静かにして!ほっといて!」とからかうように繰り返していた。

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 アイルランドブリテン島南部と同じく、古い巨石文明の痕跡を残すブルターニュの地らしく、島には石の遺跡が多数保存されている。いまは林檎酒の製造所になっている敷地の中に、環状列石の建ち並ぶ姿を見ることができた。島の南端へ向かう道はドルメン通りと呼ばれ、他にもいくつかの遺跡が点在しているが、困ったことに案内板の類は一切なく、また遺跡のある場所も個人の私有地であることが多く、見つけ出すのは容易ではない。遺跡を探しているうちに、石壁の道を大分隈なく歩かされる羽目になった。おかげで、午後早くまでに終えるはずの訪問予定を消化しきれず、翌日の午前、アルス島へ渡る前にあらためてもう一度立ち寄ることにした。次に訪れるつもりのガヴリニス島へは、この時期には午後からしか連絡船が出ていないため、そちらを優先する必要があったからである。

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 ガブリニス島は無人の小島で、紀元前3500年頃の墳墓が石塚のかたちで遺されている。〈白い港〉よりさらに西のラルモール=バーデン Larmor-Baden から、小さな連絡船で渡ってゆく。個人で船を持っていればそれで渡ってもかまわないらしいが、遺跡を見学できる時間は決められていて、フランス語でのガイダンスにしたがって見なければならない。このガイドというのが、小一時間ほどの見学時間のうち、半分以上を遺跡の外に立って説明するものだから、陽の傾きはじめた十月の海風が身に堪えた。とはいえ、Gavrinis はフランス語風にガヴリニではなく、ガヴリニスと発音することが確認できたのは収穫だった。もともとケルト語系のブルトン語に由来する名前なので、発音も通常のフランス語とは違うのだろう。

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 ようやく案内されて入ることのできた石塚の内部は、入り口側の羨道から奥の円形墓室までずっと、壁を一メートル半ほどの高さの石版で覆われており、その表面には同心円を基調とした幾何学模様がびっしりと刻みこまれている。残念ながら撮影は禁じられていたが、円の周縁からまた別の円があたかも生え萌していくような形象には、たしかにある種の生命力のようなものが感じられた。

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 なぜこのような遺跡がガヴリニスのような小島にあるのかといえば、今から5500年の昔には、このモルビアン湾一帯がまだ陸地だったからだそうだ。つまり、当時まだ島をとり巻く海はなく、内陸から人も石も、そして文明も容易に運ばれてきたということだったらしい。そうして造られた遺跡のあるものはいまこうして島の上に残り、あるものは海に沈んで誰にも知られず眠りつづけているのだろう。

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 翌朝、ふたたび訪れた修道士島は深い霧に沈んでいた。今回は脇目もふらず、シュウォッブの描いた道を辿って、西端から東端へと島を横断した。3kmの横幅を貫く道のりの先に、あのズワーヴ兵が寝そべっていたであろう砂浜が現れた。だが、その向こうに間近く見えるはずのアルス島は、一面の霧に包まれて影さえ見えなかった。主人公の目に映った景色を自分の目にとどめておきたくて、冷たい風の吹く海岸で小一時間ほど霧の晴れるのを待ったが、時とともに白い闇は深まるばかり。一度だけ、外海からの風がわずかに垂れ籠める霧の裾を持ち上げかけたが、それも束の間、朧ろな面影はまたすぐ深いヴェールの奥に閉ざされてしまった。

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 こればかりはやむを得ない。諦めて港へ踵を返すことにした。アルス島はすぐそこにあるはずだが、ここから旅客用の船は出ていないのである。アルスへ渡るには、ふたたび〈白い港〉からヴァンヌの近くまで戻らなければならない。大変な遠回りだ。小説の語り手のように、アルス島へ伴ってくれる渡し守を待ちたいところだが、そういうわけにもいかない。

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 とぼとぼと帰りの道を歩いていると、曲がり角の向こうから一台のスクーターが現れた。ハンドルを握っていたのは、あの船に乗っていた金髪の少女だった。後の荷台には隣にいた少年がまたがり、しがみつくように少女の腰に手を回していた。少女はこちらには目もくれず、真っ直ぐ前だけを見つめて走り去った。いまどきの修道士島では、少女が少年の手を引いてやることになったようだ。そういえば、「大地炎上」のふたりもそうだったではないか。こんな光景もまた、きっとシュウォッブのお気に召したことだろう。