ユートピアの対話 Dialogues d'utopie

 シプリアン・ダナルクは四十路にさしかかったところ。それを言われるととたんに不機嫌になる。歳なんか僕にはちっとも関係ない、世の俗事はみんなそうだがね、というのが彼の主張であった。上背は高く、痩せて日焼けした肌、目には激しい光をたたえ、鷲鼻の顔に、しばしば口の端だけで微笑を浮かべた。さまざまな理論を大いに読みあさり、あらゆる矛盾に我慢のならない彼は、話をしているその時々に口をついて出た言葉を信じるという特異な宗教の持ち主だった。この宗教の信者はひとりきりだったが、彼にはそれで十分なのだった。シプリアンの信仰はしだいに度を越していった。彼は自分の自己というものをひたすら鍾愛するあまり、それが他者の自己に触れ汚されることに吐き気をもよおした。他者の自己とはつまり、シプリアン色に染まりきっていない感情、意志、概念、言葉のことである。偉人たちに近づこうと身近な特徴を真似てみる(ごくありふれた愛情表現である)どころか、彼はあらゆる類似を恐れ遠ざけた。ダナルク家の両親とも仲違いしたが、それも家族に共通の雰囲気というものを避けるためであった。自分が他の誰かに似ていると思われるのが耐えられなかったのである。
 はじめ、彼は美術に関心を示した。ただし、いかなる流派にも属さないようなものに限って。かくて、まず半ダースほどの画家に傾倒しはじめた。そのうちあるものは無名の画家だった。またあるものは、たった一枚の絵しか知られていない画家だった。そのほかには、作者の名前さえ伝わっていない半身像の画家*1などといった具合だった。ハールレム美術館の大広間に懸けられた一枚の絵の背後にバネ仕掛けがあり、作動させるとエルサレムの聖ヨハネ教会の掲示板の下に小さな入り口が開いて、あらわれた秘密の小部屋で見事な聖セシリアの姿を拝むことができるのを彼は知っていた。パリでは、ヴォールゲムートの《十字架降下》や、クラナッハの二枚の肖像画、それにフラ・フィリッポ・リッピのものも一枚、ありかを知っていたが、所蔵者以外の人間とは眼福を分かちあおうとしなかった。ドイツのいくつかの礼拝堂で、この四百年来誰の目にもとまらなかった祭壇画に、スコーレルもしくはショイフェラインの筆致を見いだしたのは彼ひとりきりだった。
 不幸にも、ひとつひとつ、彼の秘密は暴かれていった。知りたがりの旅行者や、手がかりをつかんだ学者や、美術館の目録作製員が、シプリアンが自分だけの愛の対象と信じていたものを、白日のもとにさらしていった。
 そこで今度は、みずから詩作を手がけ、原稿は犢皮紙に金の羽ペンで記したうえ、他人にはかたくなに秘しておこうと決めた。詩であるからには、その韻律と言葉の組みあわせは誰にも真似のできぬものでなければならない、と彼には思われた。かくてその作品なる膨大なしろものは、文と文との慣用的な結びつきをしっちゃかめっちゃかにかきまわし、その文自体も、なるたけいかなる詩人も用いたことのない言葉を、想像を絶するやりかたで並べたものとなった。こうした型破りはシプリアンをいっとき満足させた。だが、多くの作品を読みすすめるうちに、自分の思考のあるもの、文のいくつか、そしてしばしばもっとも極端な奇想さえも、すでに先人がここかしこに書き残していたことを発見した。しまいに彼は、書くということは、たとえそれと知らずとも、つねに誰かを模倣することにしかならないと見切りをつけた。だがそれにしても、とある日シプリアンはひとりごちた、僕が誰かに似ずにはいられないなら、誰かと同じものを好まざるをえないなら、否応なく誰かのように考えねばならないのなら、結局のところ僕は誰かと同じようにふるまうことを強いられているのだろうか?僕は自由ではないというのか?両親や僕に似たやつら、身の回りの状況さえもが結託するなか、人を支配しようするものに僕は逆らうすべがないのか?真に自分自身ではいられないのか?シプリアンがこうした妄執にとらわれていたある日の昼前、恋人のミュザレーニュ*2がやってきてそんな彼を見つけたのだった。
 椅子に腰掛けたシプリアン・ダナルクは、目の前の飾り気のないテーブルの上に、どれもそっくりな真新しい五フラン札を並べていた。彼はどうにかしてそのうちの一枚を選ぼうと、ただしなぜその一枚なのか自分でも動機がわからないように選びだそうと一心不乱であった。その一枚だけが陽に照らされていたわけでもなく、他よりも手の届きやすいところにあったわけでもなく、一、三、あるいは七といった、あらかじめ決められた順番に当たるわけでもなかったとき、事は成功したことになろう。だが、どれか一枚を選んでそのとなりを選ばないという選択もまた、同じくこうした事由によって決定されてはならないのだった。この微妙な操作が満足になしとげられたのは、この午前を通じてただ一度きりだった。そしてシプリアンが煙草を一服し、この自由なふるまいの疲れをいやしている最中、ミュザレーニュが入ってきたのである。
 《ミュザレーニュ》シプリアンは叫んだ。《止まって。そこに五フラン札があるだろう?一枚取ってみてくれ》
 《はい》ミュザレーニュは言った。《それだけ?》
 《それほど簡単な仕事じゃないんだぜ》シプリアンは言った。《僕はくたくただ。いったいどんなわけで君はこの一枚を選んだんだい?》
 《べつに》ミュザレーニュは言った。《それがどうしたの?しるしでもついてるの?》
 《いや、まったく》シプリアンは答えた。《そいつはほかのと変わらないさ。そこが普通じゃないんだ。さあ、考えてみよう。思いだして……》
 《めんどくさい》ミュザレーニュは言った。《お昼にしましょうよ。それを取ったから取ったのよ。それだけ。もう、あなたのそういう凝り性にはうんざり!毎日新しいのにとりつかれるんだから》
 この娘は、とシプリアンはひとりごちた、言葉もふるまいも見るからに自由そのものだ。つまり、動機なんてものをはなから知らないのだ。無知ゆえの自由。だが自分の場合それで満足するわけにはいかない。そして彼は称賛の目で彼女を見つめた。
 リリ・ジョンキーユ、というかミュザレーニュは二十歳。それ以上でも以下でもない。青白くてよく動く小さな三角形の肉身であるその顔には、抜け目がなく詮索好きな表情が浮かんでいる。瞳は黄金。小さな手の爪を鉤のように伸ばし、しなやかな身体は水のように指先をすりぬける。そして言葉につれて軽やかにおどる唇。彼女は新聞の連載小説を愛読し、あらゆる劇を見ては涙し、医学も政治も信用せず、革命派と体制側の人間に同時に憧れ、喜劇俳優に惚れ、モンマルトルのキャバレーの流行歌を全部そらんじていて、一夜、シガル*3という友人の代役で、〈小間使い娘のカジノ〉の舞台に立ったこともあるほどだった。彼女は信じやすいのと同じくらい疑り深かった。傷つきやすいのと同時に忍耐強く、とても憐れみ深くとても残酷だった。どの顔を見せるかは、時と相手によるのである。そうして仲良しのシガルの叩く陰口はいつも片端から鵜呑みにするくせに、シプリアンのちょっとした言いわけには肩をすくめてみせるのだった。いろいろな事件が起こるとあるときは犯人に憤慨したが、《勇ましく》ギロチンにかかった者のことは深く尊敬した。その理屈はよくわからない。彼女の好物はザリガニと猟鳥と兎肉とサラダ、それになめらかに泡だったシャンパンと揚げものだ。彼女はキノコの良し悪しをある種のしるしによって見分ける自信を持っていた。彼女はいわゆる《百貨店》を非難した。《店頭払い》しか受けつけないからだ。一方で、とりたてて他より安いわけでもない行きつけの流行店を信頼しきっていた。おしまいに、彼女は病院と警察と蜘蛛と裁判官を恐れていた。が、共和国大統領が道を通る際には欠かさず見物に行くのだった。
 ミュザレーニュはシプリアンを軽蔑し、そして敬愛していた。今どきの言葉を理解できない彼を軽蔑し、だからこそ敬愛した。軽蔑は誤解のあらわれである。敬愛もまたしかり。シプリアンはリリを軽蔑しなかった。なぜなら彼女は美しい十四世紀の〈カッソーニ〉*4よりも、新しい帽子の方を好んだから。しかしあまりに分かりやすすぎる彼女を敬愛することもなかった。
 とはいえ今回ばかりは、つねに誤りを知らない彼の思考をもってしても、なにひとつ理解することができなかった。しだいに彼はこう確信するにいたった。自分に似た連中ともっとも違っていられるのは、個性というものの束縛からいっさい解放されたときだ。さて、このシプリアン・ダナルクがその境地へたどりつくのにこれほど難儀しているというのに、この小娘ときたら、ただの一度でやってのけてしまったのだ!
 シプリアンがかような当惑におちいっていたとき、アンブロワーズ・バブーフがそこへあらわれた。
 アンブロワーズ・バブーフは、目というふたつの斑点のきらめく変てこなキノコみたいな男だった。彼はながいこと歴史学に従事した結果、その方法論の非科学性を思い知らされることとなった。はじめは、手記や、新聞や、書簡のなかから事実をかき集め、テーヌ*5の方法に則って一般則を引きだした。ついで、その事実を解釈する段になって、疑いにとらわれてしまった。というのも、それらはどれも第三者によって報告されたものだったり、二十年も経ってから個人的な想い出を書きとめたものだったり、証拠といっても一通の手紙だけだったりしたからである。手紙というのは誰かに宛てられたものだ。ふつうそんなところに真実を書いたりするだろうか?それゆえ、バブーフはもはや実際上嘘の入りこむ余地のない資料しか扱わないようになった。受領証、遺言書、出生および死亡登録書、裁判報告、公正証書。だが、ここでもあらたな困難が生じた。そうした文書は、問題の人物が、ある日ある時ある場所にいた、歳はいくつであった、これこれの金額を受けとった、どれだけの財産を持っていた、といったことを証明はする。けれども、その人物そのものについてなにも教えてはくれない。歴史家はその人となりも考えも描くことはできないのだ。まさしくそこでアンブロワーズ・バブーフ自身が顔を出す。彼の叙述する人物像は、バブーフの描くイメージによって彩られたものになるわけだ。これが科学と言えるだろうか。そもそも、バブーフはバブーフ自身を疑っていて、自己というものを基準に歴史の真実を語ることをよしとしないというのに。
 生涯のここにいたって、歴史学という迷妄を抜け出したものの、なお事実というものに信を置いていたバブーフは、次に書く本の予定について訊かれるたび、こう答えていた。
 《もう本は書かないよ。もし僕の幸せを願ってくれるなら、郵便局便覧*6をカードに書き写させてくれよ。少なくともそこにはなにがしかの確かな事実があるからね。カードをつくらなきゃ。そうだ、カードを作ろう》
 このバブーフ自身の精神について精確な知識が得られれば、いつか科学的に事実を解釈できるようになるのではないかという希望から、アンブロワーズは心理学に傾倒し、さらに時を移さず、その確固たる基盤となるものへ、とくに脳の解剖学と生理学の研究へと向かった。何が思考を生みだすのか?脳細胞だろうか?一個一個の違いなどほとんどない細胞が、いったいどんな過程で感覚印象を受けとり、記憶をたくわえ、想像、意志、理性を織りなすのだろうか?そこで、バブーフは日がな一日実験室に閉じこもり、脳を切り開き、薄片標本をつくり、顕微鏡で調べあげた。彼は脳のあらゆる組織と、細胞の構造を究めつくした。だが細胞は、真実の知識を得るうえで、署名入りの証書や領収書ほどの役にも立たなかった。個性というものの正体を明かしてくれるような事実はなにもなかった。このまま分析をつづけて、さらに遠くへたどりつけるのだろうか?おそらく。だが、バブーフは、人体の科学には人事の科学と同じく限界があると悟った。そしてこうくりかえすのだった。
 《なんにも見つかりゃしない。なにひとつもだ。でもまず脳を切り開いてみなくっちゃ。そうだ、仕事だ。脳を切ろう》
 《バブーフ》シプリアンは叫んだ。《真面目な話、君は僕が自由だと思うかね?》
 《友よ》バブーフは言った。《そいつはありえないことじゃないね。僕らはときどきおかしな畸形にお目にかかる。先日も腕っこきの外科医のひとりが、完全な両性具有者を手術したところだ。これは、すくなくとも一度は、自然が決定不能におちいったという証明じゃないか?物理学者のブシネスク氏*7は、ある条件のもとでは液体が平衡の法則にしたがわず、勝手気ままにふるまうのを示してみせた。ブトルー氏*8はすぐれた哲学者だが、宇宙の法則がまったく動かしがたいものではないと信じている。そして天文学者たちが星の光を観察した結果からは、この地球やほかの惑星がくるくるめぐっている空間さえも、厳密に幾何学的とはいえないことがわかったんだ*9。たぶん三次元以上の、それとも以下の次元が存在するんだろう。幾何学ですら無謬じゃないとしたら、シプリアン、どこに君が自由でないわけがある?もっともそれがどうした?その場合君は例外ってことだ。ただそれだけさ。きちんと決められた法則を知りつくすほうがずっとましだ。そうさ、ほら仕事仕事。なにも見つからないなんてことがあるもんか。どっちにちしても仕事だ、脳を切ろう》
 《だめよ》リリが言った。《お昼にするの》
 《ミュザレーニュの言うとおり》シプリアンは言った。《まず昼飯にしよう。つづきはそのあとにするよ。ほかに話が移ってなければ、ね》


訳注

*1:婦人の半身像を多く遺した16世紀前半のフランドル派の画家を指すか。なお、以下に名を挙げられるのも、いずれも15世紀から16世紀前半にかけて活躍した画家。

*2:ガリネズミの意。

*3:セミの意。

*4:豪華な装飾を施された収納用の櫃。ルネサンス期のイタリアで制作され、婚礼調度として用いられた。

*5:イッポリト・テーヌ Hippolyte Taine (1828-1893)フランスの思想家。歴史や芸術の発展を支配する法則を実証主義的に究明しようとした。

*6:各地の郵便局について所在地や担当地域を記し、アルファベット順に並べた一覧簿。19世紀初頭以来各地の郵便局に備えつけられた。

*7:ジョゼフ・ブシネスク Joseph Boussinesq (1842–1929)フランスの数学・物理学者。流体力学の分野で活躍し、乱流に関するモデルを提唱した。

*8:エミール・ブトルー Émile Boutroux (1845-1921)フランスの哲学者。自然法則の中の偶然性を重視し、後のベルグソンなどに影響を与えた。

*9:楕円軌道を持つ水星の近日点(太陽にもっとも近づく地点)はわずかずつ移動しているが、20世紀初頭の段階ではこれを他惑星からの重力の影響として完全に説明することができなかった(のちに一般相対性理論により、太陽の質量が生みだす空間のゆがみを考慮して説明可能となる)。こうした現象を指すか。