ユートピアの対話 Dialogues d'utopie

 シプリアン・ダナルクは四十路にさしかかったところ。それを言われるととたんに不機嫌になる。歳なんか僕にはちっとも関係ない、世の俗事はみんなそうだがね、というのが彼の主張であった。上背は高く、痩せて日焼けした肌、目には激しい光をたたえ、鷲鼻の顔に、しばしば口の端だけで微笑を浮かべた。さまざまな理論を大いに読みあさり、あらゆる矛盾に我慢のならない彼は、話をしているその時々に口をついて出た言葉を信じるという特異な宗教の持ち主だった。この宗教の信者はひとりきりだったが、彼にはそれで十分なのだった。シプリアンの信仰はしだいに度を越していった。彼は自分の自己というものをひたすら鍾愛するあまり、それが他者の自己に触れ汚されることに吐き気をもよおした。他者の自己とはつまり、シプリアン色に染まりきっていない感情、意志、概念、言葉のことである。偉人たちに近づこうと身近な特徴を真似てみる(ごくありふれた愛情表現である)どころか、彼はあらゆる類似を恐れ遠ざけた。ダナルク家の両親とも仲違いしたが、それも家族に共通の雰囲気というものを避けるためであった。自分が他の誰かに似ていると思われるのが耐えられなかったのである。
 はじめ、彼は美術に関心を示した。ただし、いかなる流派にも属さないようなものに限って。かくて、まず半ダースほどの画家に傾倒しはじめた。そのうちあるものは無名の画家だった。またあるものは、たった一枚の絵しか知られていない画家だった。そのほかには、作者の名前さえ伝わっていない半身像の画家*1などといった具合だった。ハールレム美術館の大広間に懸けられた一枚の絵の背後にバネ仕掛けがあり、作動させるとエルサレムの聖ヨハネ教会の掲示板の下に小さな入り口が開いて、あらわれた秘密の小部屋で見事な聖セシリアの姿を拝むことができるのを彼は知っていた。パリでは、ヴォールゲムートの《十字架降下》や、クラナッハの二枚の肖像画、それにフラ・フィリッポ・リッピのものも一枚、ありかを知っていたが、所蔵者以外の人間とは眼福を分かちあおうとしなかった。ドイツのいくつかの礼拝堂で、この四百年来誰の目にもとまらなかった祭壇画に、スコーレルもしくはショイフェラインの筆致を見いだしたのは彼ひとりきりだった。
 不幸にも、ひとつひとつ、彼の秘密は暴かれていった。知りたがりの旅行者や、手がかりをつかんだ学者や、美術館の目録作製員が、シプリアンが自分だけの愛の対象と信じていたものを、白日のもとにさらしていった。
 そこで今度は、みずから詩作を手がけ、原稿は犢皮紙に金の羽ペンで記したうえ、他人にはかたくなに秘しておこうと決めた。詩であるからには、その韻律と言葉の組みあわせは誰にも真似のできぬものでなければならない、と彼には思われた。かくてその作品なる膨大なしろものは、文と文との慣用的な結びつきをしっちゃかめっちゃかにかきまわし、その文自体も、なるたけいかなる詩人も用いたことのない言葉を、想像を絶するやりかたで並べたものとなった。こうした型破りはシプリアンをいっとき満足させた。だが、多くの作品を読みすすめるうちに、自分の思考のあるもの、文のいくつか、そしてしばしばもっとも極端な奇想さえも、すでに先人がここかしこに書き残していたことを発見した。しまいに彼は、書くということは、たとえそれと知らずとも、つねに誰かを模倣することにしかならないと見切りをつけた。だがそれにしても、とある日シプリアンはひとりごちた、僕が誰かに似ずにはいられないなら、誰かと同じものを好まざるをえないなら、否応なく誰かのように考えねばならないのなら、結局のところ僕は誰かと同じようにふるまうことを強いられているのだろうか?僕は自由ではないというのか?両親や僕に似たやつら、身の回りの状況さえもが結託するなか、人を支配しようするものに僕は逆らうすべがないのか?真に自分自身ではいられないのか?シプリアンがこうした妄執にとらわれていたある日の昼前、恋人のミュザレーニュ*2がやってきてそんな彼を見つけたのだった。
 椅子に腰掛けたシプリアン・ダナルクは、目の前の飾り気のないテーブルの上に、どれもそっくりな真新しい五フラン札を並べていた。彼はどうにかしてそのうちの一枚を選ぼうと、ただしなぜその一枚なのか自分でも動機がわからないように選びだそうと一心不乱であった。その一枚だけが陽に照らされていたわけでもなく、他よりも手の届きやすいところにあったわけでもなく、一、三、あるいは七といった、あらかじめ決められた順番に当たるわけでもなかったとき、事は成功したことになろう。だが、どれか一枚を選んでそのとなりを選ばないという選択もまた、同じくこうした事由によって決定されてはならないのだった。この微妙な操作が満足になしとげられたのは、この午前を通じてただ一度きりだった。そしてシプリアンが煙草を一服し、この自由なふるまいの疲れをいやしている最中、ミュザレーニュが入ってきたのである。
 《ミュザレーニュ》シプリアンは叫んだ。《止まって。そこに五フラン札があるだろう?一枚取ってみてくれ》
 《はい》ミュザレーニュは言った。《それだけ?》
 《それほど簡単な仕事じゃないんだぜ》シプリアンは言った。《僕はくたくただ。いったいどんなわけで君はこの一枚を選んだんだい?》
 《べつに》ミュザレーニュは言った。《それがどうしたの?しるしでもついてるの?》
 《いや、まったく》シプリアンは答えた。《そいつはほかのと変わらないさ。そこが普通じゃないんだ。さあ、考えてみよう。思いだして……》
 《めんどくさい》ミュザレーニュは言った。《お昼にしましょうよ。それを取ったから取ったのよ。それだけ。もう、あなたのそういう凝り性にはうんざり!毎日新しいのにとりつかれるんだから》
 この娘は、とシプリアンはひとりごちた、言葉もふるまいも見るからに自由そのものだ。つまり、動機なんてものをはなから知らないのだ。無知ゆえの自由。だが自分の場合それで満足するわけにはいかない。そして彼は称賛の目で彼女を見つめた。
 リリ・ジョンキーユ、というかミュザレーニュは二十歳。それ以上でも以下でもない。青白くてよく動く小さな三角形の肉身であるその顔には、抜け目がなく詮索好きな表情が浮かんでいる。瞳は黄金。小さな手の爪を鉤のように伸ばし、しなやかな身体は水のように指先をすりぬける。そして言葉につれて軽やかにおどる唇。彼女は新聞の連載小説を愛読し、あらゆる劇を見ては涙し、医学も政治も信用せず、革命派と体制側の人間に同時に憧れ、喜劇俳優に惚れ、モンマルトルのキャバレーの流行歌を全部そらんじていて、一夜、シガル*3という友人の代役で、〈小間使い娘のカジノ〉の舞台に立ったこともあるほどだった。彼女は信じやすいのと同じくらい疑り深かった。傷つきやすいのと同時に忍耐強く、とても憐れみ深くとても残酷だった。どの顔を見せるかは、時と相手によるのである。そうして仲良しのシガルの叩く陰口はいつも片端から鵜呑みにするくせに、シプリアンのちょっとした言いわけには肩をすくめてみせるのだった。いろいろな事件が起こるとあるときは犯人に憤慨したが、《勇ましく》ギロチンにかかった者のことは深く尊敬した。その理屈はよくわからない。彼女の好物はザリガニと猟鳥と兎肉とサラダ、それになめらかに泡だったシャンパンと揚げものだ。彼女はキノコの良し悪しをある種のしるしによって見分ける自信を持っていた。彼女はいわゆる《百貨店》を非難した。《店頭払い》しか受けつけないからだ。一方で、とりたてて他より安いわけでもない行きつけの流行店を信頼しきっていた。おしまいに、彼女は病院と警察と蜘蛛と裁判官を恐れていた。が、共和国大統領が道を通る際には欠かさず見物に行くのだった。
 ミュザレーニュはシプリアンを軽蔑し、そして敬愛していた。今どきの言葉を理解できない彼を軽蔑し、だからこそ敬愛した。軽蔑は誤解のあらわれである。敬愛もまたしかり。シプリアンはリリを軽蔑しなかった。なぜなら彼女は美しい十四世紀の〈カッソーニ〉*4よりも、新しい帽子の方を好んだから。しかしあまりに分かりやすすぎる彼女を敬愛することもなかった。
 とはいえ今回ばかりは、つねに誤りを知らない彼の思考をもってしても、なにひとつ理解することができなかった。しだいに彼はこう確信するにいたった。自分に似た連中ともっとも違っていられるのは、個性というものの束縛からいっさい解放されたときだ。さて、このシプリアン・ダナルクがその境地へたどりつくのにこれほど難儀しているというのに、この小娘ときたら、ただの一度でやってのけてしまったのだ!
 シプリアンがかような当惑におちいっていたとき、アンブロワーズ・バブーフがそこへあらわれた。
 アンブロワーズ・バブーフは、目というふたつの斑点のきらめく変てこなキノコみたいな男だった。彼はながいこと歴史学に従事した結果、その方法論の非科学性を思い知らされることとなった。はじめは、手記や、新聞や、書簡のなかから事実をかき集め、テーヌ*5の方法に則って一般則を引きだした。ついで、その事実を解釈する段になって、疑いにとらわれてしまった。というのも、それらはどれも第三者によって報告されたものだったり、二十年も経ってから個人的な想い出を書きとめたものだったり、証拠といっても一通の手紙だけだったりしたからである。手紙というのは誰かに宛てられたものだ。ふつうそんなところに真実を書いたりするだろうか?それゆえ、バブーフはもはや実際上嘘の入りこむ余地のない資料しか扱わないようになった。受領証、遺言書、出生および死亡登録書、裁判報告、公正証書。だが、ここでもあらたな困難が生じた。そうした文書は、問題の人物が、ある日ある時ある場所にいた、歳はいくつであった、これこれの金額を受けとった、どれだけの財産を持っていた、といったことを証明はする。けれども、その人物そのものについてなにも教えてはくれない。歴史家はその人となりも考えも描くことはできないのだ。まさしくそこでアンブロワーズ・バブーフ自身が顔を出す。彼の叙述する人物像は、バブーフの描くイメージによって彩られたものになるわけだ。これが科学と言えるだろうか。そもそも、バブーフはバブーフ自身を疑っていて、自己というものを基準に歴史の真実を語ることをよしとしないというのに。
 生涯のここにいたって、歴史学という迷妄を抜け出したものの、なお事実というものに信を置いていたバブーフは、次に書く本の予定について訊かれるたび、こう答えていた。
 《もう本は書かないよ。もし僕の幸せを願ってくれるなら、郵便局便覧*6をカードに書き写させてくれよ。少なくともそこにはなにがしかの確かな事実があるからね。カードをつくらなきゃ。そうだ、カードを作ろう》
 このバブーフ自身の精神について精確な知識が得られれば、いつか科学的に事実を解釈できるようになるのではないかという希望から、アンブロワーズは心理学に傾倒し、さらに時を移さず、その確固たる基盤となるものへ、とくに脳の解剖学と生理学の研究へと向かった。何が思考を生みだすのか?脳細胞だろうか?一個一個の違いなどほとんどない細胞が、いったいどんな過程で感覚印象を受けとり、記憶をたくわえ、想像、意志、理性を織りなすのだろうか?そこで、バブーフは日がな一日実験室に閉じこもり、脳を切り開き、薄片標本をつくり、顕微鏡で調べあげた。彼は脳のあらゆる組織と、細胞の構造を究めつくした。だが細胞は、真実の知識を得るうえで、署名入りの証書や領収書ほどの役にも立たなかった。個性というものの正体を明かしてくれるような事実はなにもなかった。このまま分析をつづけて、さらに遠くへたどりつけるのだろうか?おそらく。だが、バブーフは、人体の科学には人事の科学と同じく限界があると悟った。そしてこうくりかえすのだった。
 《なんにも見つかりゃしない。なにひとつもだ。でもまず脳を切り開いてみなくっちゃ。そうだ、仕事だ。脳を切ろう》
 《バブーフ》シプリアンは叫んだ。《真面目な話、君は僕が自由だと思うかね?》
 《友よ》バブーフは言った。《そいつはありえないことじゃないね。僕らはときどきおかしな畸形にお目にかかる。先日も腕っこきの外科医のひとりが、完全な両性具有者を手術したところだ。これは、すくなくとも一度は、自然が決定不能におちいったという証明じゃないか?物理学者のブシネスク氏*7は、ある条件のもとでは液体が平衡の法則にしたがわず、勝手気ままにふるまうのを示してみせた。ブトルー氏*8はすぐれた哲学者だが、宇宙の法則がまったく動かしがたいものではないと信じている。そして天文学者たちが星の光を観察した結果からは、この地球やほかの惑星がくるくるめぐっている空間さえも、厳密に幾何学的とはいえないことがわかったんだ*9。たぶん三次元以上の、それとも以下の次元が存在するんだろう。幾何学ですら無謬じゃないとしたら、シプリアン、どこに君が自由でないわけがある?もっともそれがどうした?その場合君は例外ってことだ。ただそれだけさ。きちんと決められた法則を知りつくすほうがずっとましだ。そうさ、ほら仕事仕事。なにも見つからないなんてことがあるもんか。どっちにちしても仕事だ、脳を切ろう》
 《だめよ》リリが言った。《お昼にするの》
 《ミュザレーニュの言うとおり》シプリアンは言った。《まず昼飯にしよう。つづきはそのあとにするよ。ほかに話が移ってなければ、ね》


訳注

*1:婦人の半身像を多く遺した16世紀前半のフランドル派の画家を指すか。なお、以下に名を挙げられるのも、いずれも15世紀から16世紀前半にかけて活躍した画家。

*2:ガリネズミの意。

*3:セミの意。

*4:豪華な装飾を施された収納用の櫃。ルネサンス期のイタリアで制作され、婚礼調度として用いられた。

*5:イッポリト・テーヌ Hippolyte Taine (1828-1893)フランスの思想家。歴史や芸術の発展を支配する法則を実証主義的に究明しようとした。

*6:各地の郵便局について所在地や担当地域を記し、アルファベット順に並べた一覧簿。19世紀初頭以来各地の郵便局に備えつけられた。

*7:ジョゼフ・ブシネスク Joseph Boussinesq (1842–1929)フランスの数学・物理学者。流体力学の分野で活躍し、乱流に関するモデルを提唱した。

*8:エミール・ブトルー Émile Boutroux (1845-1921)フランスの哲学者。自然法則の中の偶然性を重視し、後のベルグソンなどに影響を与えた。

*9:楕円軌道を持つ水星の近日点(太陽にもっとも近づく地点)はわずかずつ移動しているが、20世紀初頭の段階ではこれを他惑星からの重力の影響として完全に説明することができなかった(のちに一般相対性理論により、太陽の質量が生みだす空間のゆがみを考慮して説明可能となる)。こうした現象を指すか。

序文 Préface

 I

 人の生はまずそれ自体興味をそそるものである。だが、芸術を単なる絵空事に終わらせたくなければ、人生を、それを取りまくものとの関連において捉えねばならない。意識を持った生物は、個的な存在としての深い根を持つが、同時に、社会が彼のうちに多くの互いに入り組んだ器官を植えつけているものだ。生きるためにはこの何千もの器官を通じて栄養を吸い上げねばならず、容易に断ち切るわけにはいかない。個の保存へと向かう利己的な本能がある一方で、個人を取りまく他者の存在もまた欠かすことができないのだ。
 人の心は二重である。そこでは利己心と思いやりとが均衡をはかり、個人と大衆とが釣りあいをとっている。自己の保存は他者の犠牲と裏腹である。心のふたつの焦点は、私の内奥にあるとともに、人類の内奥に位置するものでもある。
 かくて、魂はひとつの極からもう一方へ、固有の生の発露から万人の生の発展へと往き来する。だがここに進むべき道があり、行き着くところは憐れみである。この書はその行程を示したものなのだ。
 生きるために必要な利己心は、個人の存在に関わる不安を生みだす。われわれが〈恐れ〉と呼ぶ感情がこれである。自らを苛むこの不安を、他者のうちにも認め得た時、人は社会の中で己れの置かれた位置を正しく理解するにいたるのである。
 とはいえ、恐れから憐れみへといたる魂の歩みは鈍くまた険しい。
 この恐れはまずはじめ、人の外側にあるものである。それは超自然の要因や、魔術的な力への確信、古代人があれほどまでに大々的に描き出した運命への信仰といったものから生みだされる。「吸血鬼」においてわれわれは、自らの迷信の犠牲となった男に出会うだろう。「木靴」は、退屈な人生とひきかえに取り交わす契約の魅力、どのような対価を払っても、たとえそれが地獄という対価であっても、浮世の生を棄て去ることの神秘な魅力を示しだす。「三人の税関吏」になると、われわれの外にあって密やかに恐れへと導く観念は、黄金への欲望というかたちをとってあらわれる。ここでは、激しい恐れは唐突に起こったできごとのめぐりあわせから生まれる。つづく三つの物語は、偶然もたらされた事態−−「〇八一号列車」ではなお超自然的だが、「顔無し」では現実的な−−が、人の力ではどうすることもできない状況によって、強い恐れを惹きおこす例を示している。
 恐れが人の内側にあるものとなっても、はじめはまだ我々にとって掌握しがたい原因−−狂気、二重人格、疑心暗鬼など−−によるものである。だが、「ベアトリス」「リリス」「阿片の扉」ともなれば、恐れを生みだすものは人間自身、およびその官能の追求−−究極の愛であれ、文学であれ、この世ならぬ珍らかなものごとであれ−−である。
 内なる生に導かれ、阿片の扉をくぐり抜けて、この種の昂揚の虚しさへとたどりついたとき、人は恐れをもたらすものごとをいくぶん皮肉な目で眺めるようになるが、度を越して研ぎ澄まされた感覚が、なおも神経を苛みつづける。平穏で満ち足りた暮らしは、魔術によって呼び起こされた恐れ、人の外側にある恐れ、超自然的な恐れを感じる精神を抑えこもうとするが、こうした物質的な暮らしは、「太った男」においても、「卵物語」においても、人生の最終目的であるとは思われない。そしてここでもまた迷信が我々を悩ますこととなる。
 「導師」にいたり、人は恐れの奥底をかいま見る。そして心のもう片側へと突きぬける。他者のうちに、悲哀を、苦しみを、不安を思い浮かべる。自己の内側からすべての人間的な恐れ、あるいは人間を超えた恐れを追い払い、もはや憐れみだけを知ることとなる。
 「導師」の物語は、読者をこの書の第二部《貧者の伝説》へと導き入れる。人が抱き得るあらゆる種類の恐れ、それを、一連の系譜をなす犯罪者たちが、時代から時代へと、今日にいたるまでくり返し生みだしつづけてきた。愚か者と恵まれぬ者たちの行動は、恐れによってもたらされ、またその恐れをひろめてゆく。迷信と魔術、黄金への渇望、官能の追求、粗暴で無分別な生き方、このように多くの罪の要因が、「サン・ピエールの華」では来たるべき死刑の幻視へといたり、「スナップ写真」では死刑そのもの、その恐るべき現実にたどりつく。
 あらゆる恐れを味わいつくし、惨めな者たちの苦しみに恐れの具現化した姿をみとめた後には、人は憐れみ深くなるものである。
 「導師」までの物語においてもっぱら描き出された内なる生は、「琥珀売りの女」からギロチンにいたる恐怖の作品群を追うときに、一種歴史的な歩みをたどることとなる。
 人々はこうした惨めさに憐れみを抱き、社会をつくり直そうと企てる。〈恐怖政治〉によって恐れを追放し、どんな貧者も物乞いもいない新しい世界を創造しようと試みる。大火は数学的に計算され、爆発は論理によって制御され、ギロチンは空を飛ぶようになる。殺人は、主義に基づいた、ある種の同毒療法として行われる。黒い夜に紅い星が満ち、夜の終わりは血のようなオーロラに覆われよう。
 すべては善き、正しきものとなるのかもしれない。もしも極度の恐れが一切を呑みこんでしまうことさえなければ。もしも人々のいま抹殺しようとするものに対する憐れみが、これから造りあげようとするものに対する憐れみに勝ることがなければ。もしもひとりの子供のまなざしが、人の世に尽きることのない殺人者たちの足もとを揺るがせるのでなければ。もしも未来のテロの実行犯の胸においてさえ、心がついに二重でなくなるのならば。
 かくて、この書の目的は達せられる。その目的とは、心の径と歴史の径を通り、恐れから憐れみへといたること、外なる世界の出来事と内なる世界の心の動きとの、少なからぬ照応を示すこと、凝縮された生の一瞬に、我々は架空にもまた現実にも、宇宙を再体験するのだと実感させることである。


 II

 古代の人間は、恐れと憐れみが、人の生において担う二重の役割を理解していた。その他の情動はさほど関心に値しないとみなされたが、これらふたつの感情の極みは、魂を隈なく満たすものであった。魂はなんらかの方法で調和を保ち、対称と均衡のもとに置かれねばならなかった。魂の混乱は見過ごすべからざることであった。人々は、憐れみを恐れと釣りあわせる術を求めた。一方の情動が他方にとって代わり、魂が安定を取り戻すと、観客は満足して劇場を出た。芸術に道徳は存在しなかった。求められるべきは魂の平衡であった。どちらか一方の感情のみに支配された心というものは、あまりに芸術性に欠けると彼らの目には映ったのである。
 アリストテレス言うところのカタルシス、すなわちこの魂の浄化とは、おそらくは揺れ動く心に安定を取り戻させること以外のなにものでもない*1。なぜなら、ドラマの中には互いに釣りあいをとろうとするふたつの情動−−恐れと憐れみ−−しかなく、我々とはいたく異なる芸術家の目には、これらふたつの情動の展開こそが興味を惹くものと映るからだ。詩人の追い求めるスペクタクルは、舞台の上には存在しない。それは客席の中にあるのだ。詩人が取り組む対象は、俳優の感じる感情よりむしろ、自身の表現が観客のうちに惹きおこすものなのである。登場人物は、真実、恐れや憐れみをもたらす巨大な操り人形と変わらなかった。人々は描き出された動機をもとに論理的な思考を重ねるのではなく、劇的効果の強さを感じ取るのであった。
 そこで観客が感じ取るものは、心を満たすふたつの感情の極みだけであった。利己心に対する脅威は恐れを生み、分かちあわれた苦しみは憐れみを生む。オイディプスやアトレウスの子ら*2の物語において、詩人がもっぱら頭を悩ませたのは、彼らに降りかかる運命ではなく、その運命が大衆に与える印象であった。
 エウリピデスが舞台の上で愛を分析してみせた際、人々が不道徳だという理由でこれを謗ったのももっともなことである*3。というのも、彼らは登場人物の内なる情動の展開を非難したのではなく、観衆自らのうちに沸き起こったものを非難したのだったからだ。
 愛とは、劇場を二分するこのふたつの情動の極みが混じりあったものとみなされたであろう。なぜなら、愛のうちには、称賛があり、感動と犠牲があり、恐れの色彩を帯びた崇高の感覚があり、思いやりに満ちた同情があり、憐れみから生まれた究極の無私の境地があるからである。おそらく愛のうちにおいて、このふたつの半身は至上の強さで結ばれあう。その一方にはもっとも怯えに満ちた称賛があり、他方にはもっとも誠実に自らをなげうつ憐れみがある。
 恋する女は恋する男にとってのすべてであらねばならず、同じように恋する男も恋する女にとってのすべてでなくてはならない。恋人同士は、かわるがわる相手を自分という中心に惹きつけあおうとする。だが、恐れと憐れみとの結びあいにより、愛はその排他的な利己主義を手放すこととなる。愛は、気高さに満ちた心と、どこまでも私の無い心との、もっとも高貴な同盟に変わる。女たちはもはやパイドラでもシメーヌでもなく、デズデモーナであり、イモージェンであり、ミランダであり、アルケスティス*4であるのだ。
 愛は恐れと憐れみのあいだに位置を占める。愛の表現は、ふたつの感情の一方から他方へといたるもっとも繊細な小径である。愛は観客のうちに、これらをふたつながら掻きたてる。したがって、舞台上の人物たちの魂よりも、より興味を惹くのは観客たちの魂である。
 舞台の上の英雄たちや、それを演じる役者たちの情動を分析することは、もはや批評による芸術の侵犯である。劇中の人物が自らを分析するようなことがあれば、観客もまたそれに倣いはじめる。そこに真実の感動はない。あるのは空論、議論、比較だけである。女性はしばしば、ごまかしの道具としてこの方法を用いる。男性はまた、それを見破るための心の手だてに利用する。美辞麗句は空しく、心理をとやかく言うのは危うい。
 俳優のためでなく、観客のために表現された情動は、道徳的に高い効果を持つものである。『テーバイ攻めの七将』を観た人々にはアレスが乗り移ったようであったと、アリストパネスは述べている*5。戦の熱狂と軍隊に対する恐れが観衆を動揺させる。ふたりの兄弟が互いに殺し合い、次いで、冷酷な命令と差し迫った死にもひるむことなく、ふたりの姉妹が彼らを埋葬し、憐れみが恐れを追いはらう。心は安定を取り戻し、魂はふたたび調和を見いだす。
 このような効果をもたらすには、特別な構成が不可欠である。畳みこまれた筋のドラマというのは、複合的な筋のドラマとは根本的に異なるものである*6。劇的状況は悲劇的な状態の提示部にまるごと示されており、その解決もまた潜在的に含まれている。この状態は対称性のもと、主題と様式の厳密かつ明確な配置とともに提示される。これはこちらに、それはあちらに、といった具合である。
 この不変の対称性を理解するためには、これを自らの芸術の原理としたアイスキュロスの作品を、少しばかり注意深く読めば良い。彼にとって、作品の結末とは、劇的な平衡関係の途切れる地点であった。悲劇とは一個の危機であり、その解決が即ち作品の閉じ目となった。同じころ、アイギナ島において、また少し後にはオリンピアにおいて、天才的な彫刻家たちが、同様の芸術の原理にしたがって、寺院の切妻を、中央の調和の切れ目をはさんで対称的にまとめられ構成された人物像と風景とによって飾った。写実的だが不動の、視覚に訴えかける危機が、全体が各部分を意味づける配置のなかに表現されている。
 ペイディアスとソポクレスとは、芸術における写実主義革命の担い手であった。彼らの作品の人物造形は、我々の目には理想化されたものに映るが、彼らにとっては思い浮かぶ限りの自然そのものであった。人生は、もっとも変動の多い曲線を描いて浮き沈みするようになった。アリストテレスの証言によれば、アイスキュロス劇のある俳優が、ソポクレス劇の俳優について、自然を手本にするのではなく、〈猿まね〉していると非難したそうだ*7。畳みこまれたドラマは、芸術の舞台から消え去った。写実主義の運動は、エウリピデスにおいてさらに際立つこととなろう。
 芸術作品は、危機の表現であることを止めた。人生は、その展開によって興味を惹くものとなった。ソポクレスの『オイディプス王』は一種の小説である。ドラマは、一連の裂け目によって裁ち切られてしまった。危機は、はじまりに位置を占めるかわりに、結末に置かれることとなった。提示部は、先行する芸術においては作品そのものであったが、切りつめられ、生の戯れに場所を譲った。
 かくて、アイスキュロスやポリュグノトス、そしてアイギナ島とオリンピアの巨匠たちよりも後の芸術が誕生した。これが、演劇と小説の分野において、われわれの時代までつづく芸術である。
 行動、人間関係、言語といったあらゆる生の表出と同じく、芸術もまた、時代から時代へ幾度もの繰りかえしを経てきた。芸術が絶えずそのあいだを揺れ動いてきたふたつの極は、対称性と写実主義であったように思われる。対称性において、人生は定まった形をもつ芸術の掟の支配するところとなる。写実主義において、人生はもっとも調和を欠き、屈折した姿のままに再現される。
 芸術は、十二、十三世紀の対称性の時代の後、十四、十五、十六世紀の心理学と写実主義、そして自然主義の時代を通過した。十七世紀には、古代的規範の影響のもと、形式を重んじる芸術が発達したが、その歩みは十八、十九世紀に生じた変化により断たれることとなった。今日、われわれは浪漫主義と自然主義の後に、新たな対称性の時代を迎えようとしている。変わることのない不動のイデアが、移ろい、姿を変えゆく物の形相にふたたび取ってかわるにちがいない。
 新しい芸術が生まれようとするこのとき、原始主義やラファエル前派を顧みず、これらと関わりなく花開いたものだけにこだわるのはやめたほうがよい。アイスキュロスや、アイギナ島とオリンピアの巨匠たちが実践した、魂と肉体の危機の見事な組み立てを見過ごしてはならない。
 ここに収められた物語には、特殊な構成への傾倒が見てとれるだろう。提示部はしばしばもっとも大きな比重を占め、均衡の解決は唐突にして最終的なものであり、精神と肉体の風変わりな冒険が、自己を後にし他者へといたる人間の歩みをたどって描かれるだろう。時にはなにかの断片のように映りもしようが、それはとある全体の一部、とりわけ危機のみが、芸術として表現されたものと受けとめていただきたい。


 III

 この魂と肉体の危機が芸術において果たしうる役割を閲する前に、われわれの周囲をふりかえり、現代の文学における支配的形式、すなわち小説について見ておくべきだろう。
 外的なものにせよ内的なものにせよ、人生の展開そのものが興味を惹くものとなるやいなや、小説は生まれた。小説は個人の物語である。それがエンコルピウスであれ、ルキウス*8であれ、パンタグリュエルであれ、ドン・キホーテであれ、ジル・ブラースであれ、はたまたトム・ジョーンズであれ。とりわけ前世紀の終わりまで、そしてクラリッサ・ハーロウ*9においては、物語は外的なものであった。だが、それが内的なものとなるときにも、創作の骨子が変わることはなかった。魂ノ物語、ソレモマタ物語ニハチガイナイ。
 魂の懊悩が、ゲーテスタンダール、バンジャマン・コンスタン、アルフレッド・ド・ヴィニー、ミュセらの作品の主調となった。アメリカ独立革命により、またフランス革命により、個人の自由が解き放たれた。人々はかつてなく多感になった。一八一〇年に自殺したある公証人見習いは、遺書の中で、真剣な熟慮のすえ、ナポレオンのように偉大にはなれないと思い知ったことが決断の理由だったと明かしている。誰もが、人生で何をするにつけても、こうした感覚を抱くこととなった。われわれが肩に担う振りわけ袋の底には、個人としての幸福が納められていなければならなかった。
 世紀の病がはじまった。人々はそのままの自分を愛されたいと願った。不貞は孤独を呼び覚ました。人生もまた、行き過ぎた切望によって織りなされ、動くたびに引き裂かれる織物となった。ある者たちは神秘主義に身を投じた。なかには風変わりなものも、キリスト教のものも、ばかげた、もしくは不浄なものもあった。またある者たちは、邪悪な魔物につきうごかされ、病んで虫歯のように痛む心を犠牲に捧げた。あらゆる種類の自叙伝が誕生した。
 それから、巨人と化した十九世紀の科学がすべてに侵入しはじめた。芸術は生物学的かつ心理学的なものとなった。カントが形而上学を抹殺してしまった以上、このふたつの実証主義的形式を採り入れるほかはなかった。十六世紀には博学の衣をまとうことが必要だったように、いまや科学の装いが欠かせなくなった。十六世紀がローマとアテネの再誕に導かれたように、十九世紀は化学と医学と心理学の誕生に支配されている。珍奇で考古学的な事実を積み上げようとする欲望に、ものごとを結びあわせ普遍化する方法を見いだそうとする野心がとってかわった。
 だが、芸術精神の普遍化を急ぎすぎるあまり、そこにおかしなずれが生まれ、科学が帰納へと歩みを進める一方、文学は演繹の方向へと向かっていった。
 誰もが綜合について話すこの時代に、誰もその方法を知らないというのも不思議なものだ。綜合とは、個人の心理のさまざまな要素を寄せ集めることではなく、鉄道や、炭坑や、証券取引所や、あるいはまた魂の、詳細な描写をつなぎあわせることでもない。
 そのように心得違いをすると、綜合とは列挙であることになろう。もしも作者が、社交界での恋愛であれ、パリの胃袋*10であれ、一連の相似た瞬間のうちに普遍的な概念を探し求めるならば、それは凡庸な抽象に終わるだろう。生は普遍的なものではなく、個別なもののうちにあるのだ。芸術の極意は個別のものに普遍の幻影を与えることにある。
 社会の個々の部分である人の生を先の手法で示すのは、現代科学をアリストテレス流に実践するようなものである。部分部分をもれなく数えあげることで普遍性を見いだすやりかたは、三段論法の一種である。《人間と馬と騾馬は長命である》とアリストテレスは書く。《ところで、人間と馬と騾馬はいずれも胆汁を欠く動物である。ゆえに、すべての胆汁を欠く動物は長命である》*11
 救いようのない循環論というわけではないが、こうした列挙による三段論法に、科学的な厳密さはかけらもない。実際、すべてをもれなく列挙することがその前提となるが、自然界でそれを成し遂げるのは不可能である。
 ゆえに、心理学あるいは生理学的な細部を、単調な用語でいかに分類してみても、魂や世界に関する普遍的概念を得ることはできない。このように理解し応用された綜合というのは、じつは演繹の一形態である。
 かくて、心理主義小説や自然主義小説は、こうした手続きを踏むことで、自らが援用するふたつの科学のどちらにも背くこととなるのである。
 だが、これらの小説が綜合を誤って用いているとしても、そこで応用されている演繹の手法は、実験科学の領域でめざましい発展を遂げつつあるものである。
 心理主義小説は、登場人物の心理学を提示し、それをこと細かに解説し、そこから生の全体を演繹する。
 自然主義小説は、登場人物の生理学を提示し、本能、遺伝的性質を描写し、そこからその行動の全体を演繹する。
 こうした、列挙的な綜合と結びあわされた演繹が、心理主義小説と自然主義小説に固有の方法をかたちづくる。
 なにしろ、現代の小説家は科学的方法を有すると主張し、自然と数学の法則を文学の形態に還元し、博物学者のように観察し、化学者のように実験し、代数学者のように演繹するというのである。
 だが真に当を得た芸術とは、これと反対に、その本質において科学とは一線を画するものなのではないか。
 ある自然現象を考察する際、学者は決定論にもとづき、その現象の原因と実現の条件を追求する。彼は原因と結果の視点から現象を研究する。自らの手でその現象を制御することによって再現し、一群の宇宙の法則に従わせることによって世界と結びつける。こうして学者は現象から決定可能なもの、決定されたものを導きだすのである。
 芸術家は自由にもとづき、現象を一個の全体として眺める。関連する原因とともに自らの創作に取りこみ、自由な現象として扱う。そして自分自身もまた自由自在にその考察をなすのである。
 科学は必然によって普遍的なものを探求する。芸術は偶然によって普遍的なものを求めねばならない。科学にとって、世界は結び合わされ決定されたものである。芸術にとって、世界は不連続で自由なものである。科学は外に顕れた普遍性を発見する。芸術は内にあって数では示せぬ普遍性を感じさせねばならない。科学の領土が決定論にあるとすれば、芸術の領土は自由にある。
 生きて意志を持った自由な存在においては、その心理学および生理学上の綜合は、ある程度まで決められた条件にしたがうとはいえ、畢竟それらが出会う一連のものごと、経験する環境によって左右される。そうしたものこそが、芸術の対象である。これらの存在は、取りこみ、吸収し、同化する能力を持つ。だが、いつでもわれわれが偶然と呼ぶ、自然と社会の法則の複雑な戯れを尊重しなければならない。この偶然は芸術家にとって分析しようのない、真の〈偶然〉そのものであり、身体と意識を持った有機体に、取りこみ、吸収し、同化することのできるものごとをもたらすのはこの偶然なのである。
 かくて、綜合は生きた存在のものとなるであろう。
 カントはこう書いている。もしも、人の生のすべての条件が、決定可能であり予見可能であるとすれば、われわれは人間の行動を蝕の予想のように計算することだろう*12
 だが、人間に関する科学は、いまだ天に関する科学に追いついてはいない。
 生理学と心理学は、不幸にも気象学ほど長足の進歩をとげてはいない。われわれの小説における心理学が予言する人間の行動も、たいていの場合、嵐のさなかに雨を予想するのと同じほどたやすく見通せるものだ。
 芸術をつうじ、身体と意識を持つ存在を、〈偶然〉がもたらすできごとによって養う手段を見つけねばならない。この生きた綜合を規則で縛ってはならない。そうした理念ももたず、たえず「綜合を!」とわめく輩は、芸術においては足踏みするだけである。プラトンが科学において足踏みすることとなったように。
 《一に一を加えるとき》『国家』においてプラトンは言った。《なにが二となるのだろうか?加算の和そのものだろうか、それとも加算された数の方だろうか?》*13
 同じくらい深く演繹的な精神にとって、一連の数は分析的に生じねばならない。新たな二という存在は、加算が生みだす和のひとつに含まれていねばならない。
 われわれはこう言おう。二という数は綜合的に生みだされるのだと。この加算のうちに、分析とは異なる原理が介入するのである。一連の数の生成は、ア・プリオリな綜合の結果であることをカントは示したのだ*14
 さてまた、生における綜合は、心理学および生理学上の細部を一般的に列挙することとも、あるいは演繹的な体系とも、はなはだ異なるものである。
 こうした生の表現にかけて、『ハムレット』の一節に優る例はない。
 ふたつの劇的な動きが作品を二分している。ひとつはハムレットの外部にあり、もうひとつは内部にある。前者に結びついているのは、フォーティンブラスの部隊が、ポーランド侵攻のためデンマークを通りかかるというできごとである(第四幕第五場*15)。ハムレットは部隊が通りすぎるのを見る。ハムレット内部の動きは、この外部のできごとをどのように取りこむだろうか?ハムレットはこう叫ぶ。


 《なぜ俺はここで身じろぎもせず、
 父を殺され母を穢された怒りに、
 理性も血も沸き立つばかりのこの俺は、
 そのどちらも眠らせてしまおうというのか?面目なくも目の前で、
 死を賭した男たちが二万人も、
 酔狂と取るにたりない名誉のために、
 墓穴へと急ぐそのときに!》


 かくて綜合はなしとげられ、ハムレットは自身の内なる生に外なる生の事象を同化するのである。クロード・ベルナールは、生ある存在のうちに、内的環境と外的環境を区別している*16。芸術家は、自らの内にひそめた生と外にあらわれた生を見きわめ、その作用と反作用を、言葉を尽くしたり議論したりすることなしに、感得可能なものにしなければならない。
 さてまた、感情というのは端から端まで一様なものではない。ある地点では高潮を迎え、ある地点では死んだように眠る。心は、精神的な収縮と拡張を、緊張の時期と弛緩の時期を経験する。この感情の最高地点を、危機あるいは冒険と呼ぶことができよう。外なる世界と内なる世界の二重の揺れ動きが出会いを迎えるたびに、そこにひとつの〈危機〉、あるいはひとつの〈冒険〉が生まれる。そしてふたたび別れるときには、ふたつの生は互いに豊饒を得ているのである。
 浪漫主義の大いなる革新以降、文学は心の弛緩期のあらゆる瞬間、すべての朦朧として受動的な感情を経めぐってきた。決定論にもとづき、心理学や生理学から見た生を描くことが、必然的にたどりついたのがそうした地点であった。大衆の小説も、もしもその中から個を消し去ってゆくのならば、同じ場所へといたることだろう。
 だが、この世紀末はおそらく詩人ウォルト・ホイットマンの至言によって導かれることとなろう。曰く〈自己と大衆〉*17である。文学は激しく能動的な感情を称揚するであろう。自由な人間は、もはや魂と肉体に関する決定論には縛られない。個人は大衆の専制服従することなく、自らすすんで歩みをともにするだろう。そのとき人は、想像力と生の醍醐味へ邁進することとなろう。
 小説という文学形式がつづいてゆくのならば、その領域は必ずや広大なものとなるにちがいない。疑似科学的な描写、教科書的な心理学と誤謬に満ちた生物学をふりかざすのは御法度となろう。創作は部分部分の精確さを増してゆくだろう。用いられる言葉もまた同じ。構成は厳密なものとなろう。新たな芸術は雑じりけなく明快でなければならない。
 新らしい題材を、自らの心のなかに探るにせよ、歴史の過程に、土地の征服やさまざまなものごとの獲得に、あるいは社会の進化のうちに求めるにせよ、そのとき小説はうたがいなく、言葉のもっとも広い意味での〈冒険〉小説、内なる世界と外なる世界双方の危機の小説、個人と大衆の感情の物語となることだろう。


 マルセル・シュウォッブ
 パリ、一八九一年五月


訳注

*1:アリストテレスは『詩学』第六章において、「悲劇とは……行為する人物たちによっておこなわれ、あわれみとおそれを通じて、そのような感情の浄化(カタルシス)を達成するものである」(松本仁助・岡道男訳、岩波文庫)と述べている。シュウォッブの〈恐れ〉と〈憐れみ〉の詩学がこのよく知られたアリストテレスの主張に触発されたものであることは言うまでもない。しかし、『詩学』におけるカタルシスの扱いはあくまで感情に訴えかける技術の問題にとどまり、また〈恐れ〉と〈憐れみ〉両者の関係が問題となることもない。これに対し、シュウォッブは〈恐れ〉と〈憐れみ〉の関係をこそ主題化することで、これを魂の浄化や愛といった倫理上の問題にまで拡大する。

*2:ミュケナイの王アトレウスの一族には、神の呪いにより肉親間の殺人や姦通が相次いで起こった。アトレウスの子アガメムノンや、さらにその子オレステスエレクトラ、イフィゲネイアは、ギリシア悲劇の主人公として好んで取りあげられる。

*3:エウリピデス『ヒッポリュトス』の本文とともに伝来した古注は、これ以前に同題の作品(現存せず)が存在したが、主人公ヒッポリュトスの継母パイドラの描写が好色に過ぎたため、アテナイ市民の反感を買ったと伝えている。このことを指したものか。

*4:パイドラは前注参照。シメーヌはレコンキスタの英雄エル・シドに題材をとったコルネイユの戯曲『ル・シッド』の女主人公。恋人のロドリグ(ル・シッド)に父を決闘で殺された復讐のため、心の内では愛するロドリグの死を国王に願ったが、最後には父の仇である恋人と結ばれる。1637年の初演当時、この行動が不道徳だとして激しい比判を浴びた。一方、デズデモーナ、ミランダ、イモージェンはいずれもシェイクスピア劇中の貞淑、純真な女性。アルケスティスはギリシア神話において夫の身代わりとなって死んだ自己犠牲の行為で知られ、エウリピデスの悲劇の主人公ともなっている。

*5:アリストパネスは『蛙』の劇中にアイスキュロスを登場させ、「軍神アレスで溢れんばかりの劇」である『テーバイ攻めの七将』を観た者は、「誰もが戦に恋い焦がれた」と言わせている。

*6:アリストテレスは『詩学』第十章で、「単純な筋のドラマ」と「複合的な筋のドラマ」とを比較し、前者を逆転(ペリペテイア)あるいは認知(アナグノリシス)を伴わずに変転(メタバシス)が生じるもの、後者を逆転あるいは認知、もしくはその両者を経て変転が生じるものと定義している。ている。ここでいう逆転とは、ある行為が意図とは反対の結果をもたらすこと、認知とはある人物が誰であるかが判明することによって、隠されていた人間関係が明るみに出ることを言う(第十一章)。逆転をともなう認知がもっともすぐれたものとされ、その例として、ソポクレス『オイディプス王』の主人公が自分の出自を知り、父殺しおよび母との姦通の事実に気づく場面が挙げられている。「このような認知は逆転を伴うとき、あわれみか、おそれか、そのどちらかを引き起こすであろう」とするアリストテレスにとって、複合的な筋のドラマは単純な筋のドラマに勝るものであった。しかし、シュウォッブはこの複合的な筋のドラマに対し、さらに別の概念を対置する。ここで「畳みこまれた筋のドラマ」と訳した le drame implexe について、シュウォッブはこれを、ソポクレスよりも古いアイスキュロスの作劇法を範として説明するが、むしろ、筋の展開というべきものをほとんどもたず、物語の提示部から結末へ直結することの多いシュウォッブ自身の特異な作風をよりよく説明する。この対置を通じ、シュウォッブはアリストテレスの主張から踏み出し、独自の文学史観の上に自らの創作を位置づけるのである。

*7:アリストテレス詩学』第二六章にこのエピソードが見える。

*8:エンコルピウスは、ペトロニウス『サテュリコン』の、ルキウスはアプレイウス『黄金のろば』の主人公。

*9:十九世紀イギリスの小説家サミュエル・リチャードソンによる書簡体小説『クラリッサ』の女主人公。同様の手法による第一作『パミラ』は、近代小説誕生の画期とされる。

*10:『パリの胃袋』はエミール・ゾラの小説の題名。前段落からの例は、ゾラの自然主義小説を暗に批判するものである。

*11:アリストテレス『分析論前書』第二書第二三章。

*12:カント『実践理性批判』第一書第三章。

*13:この引用文は、実際には『パイドン』96e-97aに見える。

*14:カント『純粋理性批判』緒言第五節。カントはこの緒言で、分析的判断と綜合的判断を対比して論じている。ここでいう分析的判断とは、述語Bが主語Aの概念のなかにすでに含まれているような判断を指し、「物体はすべて延長を持つ」というのがその例である。この場合、「すべて延長を持つ」という物体の性質は、「物体」という概念そのものの中にすでに含まれている。一方、綜合的判断とは、述語Bが主語Aと結びついてはいるが、しかし主語Aという概念の外にあるような判断を指し、「物体はすべて重さを持つ」というのがその例である。この場合、「すべて重さを持つ」という物体の性質は、経験によってのみ知られるものであり、主語と結びついて認識を拡張する。さらに数学的命題は、経験による判断の基盤を必要としないア・プリオリな綜合的判断であるとされる。シュウォッブはここで、カントのいう綜合を、部分と部分を結びあわせることで、もともとの部分に含まれていなかったものを新たに生みだす芸術行為を示す用語として用いている。そして以下の部分で、『ハムレット』を例に、人間の内的な心理に、偶然によって左右される外的なできごとが結びついたとき、心理だけ、できごとだけをどれだけ分析的に描いても到達することのない、新たな創造が綜合的になされることを示すのである。

*15:以下の引用文は、実際には第四幕第四場に見える。

*16:クロード・ベルナールは十九世紀フランスの生理学者。実験医学の先駆者の一人に数えられる。

*17:「自己」 One's-Self と「大衆」 En-Masse は、ホイットマン『草の葉』の通奏低音となるキーワードである。この二語の組み合わせは、巻頭の「自分自身を私は歌う」や、終盤に置かれた「私の歌のテーマは小さいけれど」などに見える。

ティベリスの妻問い Les Noces du Tybre


 傾きかけた陽光が彼女の歩む径となる
 カチュール・マンデス(『宵の明星』)


 ホルタの街の近郊で、ナル河はティベリス河に流れこむ。そのあいだを隔てるものは、ほんの小さな砂州とてない。まったく、ひとつの波も、ひとつの沫さえも立つことはないのだ。ただひそやかにさざめく長く黄色い線だけが、ふたつの河の交わりを示している。岸辺には葦が生い茂り、ハリエニシダの混じるなか、翡翠や野生の鴨が駆けめぐる。柳の木が雫の滴る葉を垂らし、眠れる川面に枝を浸している。静けさが流れをわたってゆく。さざなみひとつない水面を覆う睡蓮の花は、黄色い雄蕊のまわりに白く大きな花冠を開いては閉じる。水の下では、つやつやとした鞘翅の太ったゲンゴロウが、紅い草の茎のあいだで水を掻き、トゲウオが葉に隠れて尖った背びれを逆立てる。
 女神ナリアは、流れのままに河のほとりへ漂っていった。葦の葉が身体に触れてわずかに撓み、肌をかすめて逃げ去った。彼女は草の上に身を投げだした。流れる髪を背にひろげ、芝生についた肘の上では、両の掌がおとがいを支えていた。煌めく小さな水滴が、薔薇色の、緑の、碧玉色の真珠となって、彼女の身体を覆っていた。黒い瞳の輝きは昏いダイヤかと見まごうばかり、深みを湛えた視線はナル河の水をティベリスの流れと分かつ黄色い線へと向けられていた。彼女はいつもそこで身を休めるのだった。彼方の水面にうねる泥の渦も、女神の白い手足を汚すことはなかった。傍らを流れ去るナル河の、《さようなら》と呟く声が、葦のあいまにささやいた。
 黄金の顎髭のティベリス神は、長いこと女神ナリアに恋をしていた。けれども、運命の神が彼にあてがった水の女神はいっこうにその身を委ねようとはせず、河神のかんばせは怒りに黄色く染まった。神はその水源をなだれをうって落ち滾らせた。狂い立った奔流は小石と土と砂を巻き上げ、倒木とわくら葉を轟音とともに押し流した。泥流が岸を乗り越え氾濫した。草花の頸を扼する黒泥が野原一面にひろがった。ローマの下水渠では大量の汚物が逆流し、通りという通りに噴き上がり、陽光の下で腐っていった。川岸の桟橋に暮らす城壁外の住民たちは、浸水した住居を棄て岸辺を離れた。平民のあいだには高熱をともなう悪疫が蔓延し、怒りに我を忘れた人々は神を罵った。
 そこで按察官たちは、かねがね聖なる書物の研究に余念のない《アウグリス》と《ハルスピケス》*1たちに伺いを立てた。暗い寺院の奥処で、彼らは燃える熾火の上に顔を寄せ、焼けた羊の肩骨に浮かびあがった罅割れをつぶさに調べた。雌羊のまだ湯気を立てる胸から血の滴る肝をひき抜き、不安気な面持ちでまじまじと凝視め、かぶりを振った。そしてついに、贖罪の儀式を執り行い、怒れるティベリス神に献酒せよとの結論が下った。
 厳かな行列が河の岸辺に沿って進んだ。神官たちはエミリウス橋のたもとで立ち停まり、重々しい声で祝詞を唱えあげた。群衆は、とどまる気配も見せず高まりゆく波に目を落とし、耳を傾け、黙想した。詠唱が終わり、行列はしずしずと橋を渡った。神官の長は端まで来ると立ち停まり、声高にローマの守り神ティベリス神の名を呼んだ。次いで、後ろに控えた二人の神官が手にした籠から、パイ菓子《スクリブリタエ》と蜜菓子《プラケンタエ》を取り出すと、泡立つ波の中へ投じた。さらに、銀製の壺の取手をつかみ、中身の香油を手早く橋の上に撒いた後、柘榴色のワインをしめやかに河へ注いだ。スブリキウス橋の手前の柱のそばで、つかの間ティベリスは赤く染まった。陽気な物乞いたちと襤褸をまとった子供たちが手を拍った。それから行列は歩みを再開し、いよいよ重くのしかかる沈黙の中、市城への帰途についた。
 だが、この儀式もティベリス神の気を惹くことはなかった。河神はあいかわらず沫立つ激流で泥土を押し流していた。ホルタの黄色い線は、いつしかゆっくりと後退し、ティベリスから分かれ遠ざかってゆくナルの流れを遡っていった。泥濘が睡蓮と紅い草を、ナリア女神の横たわる野を、そして柳の枝を穢した。ゲンゴロウとトゲウオは算を乱して逃げ去った。岸を降りる足を留めたナリア女神は、河のほとりに立ちつくし、変わり果てた流れの姿に、瞳を涙で潤ませた。
 涙に暮れる女神の姿を、水面に身を潜めたティベリス神が、逞しいその腕で流れを掻きながら窺っていた。女神は長いあいだもの思いに沈んでいた。夕陽の最後のひとすじが地平線に顫えて消えると、女神の姿は樹立ちのあいまへと消えた。ティベリス神はいや増す希望を胸に夜をさまよった。神は気晴らしの相手に自らのしもべ、小さなファルファルを探しに行った。ファルファルのせせらぎは今にも干あがらんばかりであった。ティベリス神の姿を見て喜びに躍りあがった小川の神は、岸辺に生えた睡蓮を一本引き抜くと、見つけ出した蛍を透きとおる葉の中に折りこんだ。そうして緑の茎のランタンを手に揺らし、跳ねまわりながらティベリス神の先に立った。
 《ファルファルよ》ティベリス神は言った。《今宵、己はナリアを泣かせてやったぞ》
 《やりましたね!》せせら笑いながらファルファルが言った。《あの女め、お高くとまりやがって。ヒメラにちょっかい出したと言って、おいらを追い払ったんだ。そりゃあヒメラの方がこの身の丈よりも大きいさ。でもそんなこと、恋路の邪魔にはなりゃしない。ふたり一緒に駆けぬけた夜、腰に手を回すのもあの娘は許してくれた。地面から抱えあげると、この腕に身をまかせてくれたんだ。口づけは、睡蓮の花に宿った露の香りみたいに爽やかだった。そんなふたりを、ナリア女神が見つけて眉をひそめたのさ。それからというもの、こっちが通りがかってもヒメラはそっぽを向いちまう。おいらに残されたものは、ちらりと送ってよこす目配せばかり。それでもめげずに遠く離れて追っかけた。すると、あの娘の軽やかな足先に触れた青い花が、ほんの少しだけうなじを曲げて言ったんだ。ヒメラの注いでくれた水は、しょっぱい涙の味がしたって》
 小川の神のおしゃべりがやんだとき、右手の樹のうしろで、微かな葉擦れの音がした。ティベリス神がそちらを見やると、葉陰にふたつの優しげな瞳が煌めいた。《ヒメラじゃないか》ファルファルが言った。《なんてキラキラしたお目々だろう!でも近づいたら逃げちゃうんだよなあ》
 だが、ティベリス神はおかまいなしに傍へ寄った。樹の葉はそよとも動かなかった。ファルファルが枝のあいまにランタンをかざした。やにわに白い腕が伸び、睡蓮をひったくると樹陰に消えた。それから抑えきれないくすくす笑いが響いた。ふたたびあらわれた手は、ティベリス神の肩に優しく触れた。《出ておいで、ヒメラ》ファルファルが訴えかけた。《怖がらなくっていいんだよ。ほら、おいらは樹の枝に上がるから。下には降りない。君の姿が見たいだけなんだ》
 雌鹿のごとくしとやかに、ヒメラは繁みから身を顕し、不安げにあたりを見回した。視線をあげると、いま自分が出てきたばかりの樫の木の枝に腰掛けたファルファルを見て微笑んだ。
 《おお、みことよ》澄んだ声でヒメラは言った。《わが主ナリアより汝がみことをお連れするよう仰せつかっております。ウェリヌス湖までお伴いたします。彼処にて主はお待ちです》
 《案内してもらおう》ティベリス神は答えた。《だがその前に、ファルファル、降りてきて道を照らしてくれ。ヒメラと己は後について行こう》
 こうして神々は歩き出し、滑るように森をよぎって進んだ。峡谷と淵の真上を翔ぶときも、夜の鳥たちを驚かすことなく、そっと気づかれずに通り過ぎた。山を通って神々は、ヒメラ川の岸辺に舞い降りた。切り立った川岸は霧に覆われていた。ヒメラが指先で触れると、たちこめた霧がぼうっと輝きだした。燐光の中へ三柱の神は足を踏み入れた。ファルファルがなおも先導をつとめ、手にした睡蓮を揺らすと、ちらちらと瞬く花冠の光が霞の中に浮かび上がった。ティベリス神は無言でそのあとを追い、傍らではヒメラが宙を舞った。神々はウェリヌス湖の方へと降っていった。ひろがる水面の彼方を、はや夜明け前の仄明かりが照らしだしていた。
 耳に沁み入るハーモニーが大気を顫わせた。ファルファルが小声で応じた。ティベリス神の耳もとで羽ばたきの音が響き、手を伸ばしたヒメラが見えない生き物をそっと撫でた。湖上に微かな灯りがひろがり、純白の帆立貝が、内から仄蒼く輝きながら浮かびあがった。その上に肘をついて、女神ナリアが身を横たえていた。まばゆい身体をほどいた髪が覆っていた。ヒメラは女神のもとへ駆け出し、足の上にちょこんと座った。ティベリス神は頭を垂れて一礼した。ファルファルは貝殻の天辺に跳び上がると、狂おしげな目でヒメラを見おろした。
 《許しを賜りたい、女神よ》ティベリス神はささやいた。《そなたに流させた涙の許しを》
 《ああ》ナリアは言った。《うまくわたくしを追い詰めましたこと。貴方がわたくしを追うのなら、わたくしはただ逃げるまで。けれども貴方はわたくしの流れを穢しました。だから貴方をここへ呼んだのです》
 《おお、女神よ》ティベリスは言った。《知っていよう、わが心は長らくそなたのもの。怒りを解いてもらいたいのだ。なにゆえこの愛しみを避けんとするのか?》
 《避けずにいられましょうか!》ナリアは強い口調で言い返した。《貴方は近づくものすべてをあだにするのです。清らかなわがナル河の水は貴方の手で泥にまみれました。貴方は山のみなもとを穢し、ローマの暗渠を淀ませました。貴方がその手で育んだ街、オスティアから連れ来たった異邦人たちに奪わせたその街をです。わたくしは誰のものにもなりません。純潔のままで幸せです!》
 《おお、女神よ》ティベリス神は言った。《聞いてくれ、聞いてくれ!山を愛しているのならば、いつまでもそこに留まるがよい。だが我もまたそなたを見つけに踏み入ろうぞ。おお、ナリアよ、独りで生きるなど穏やかなことではないぞ。天の偉大なる神々を見るがよい。ルナのように不幸にも独りきり、猟犬どもに牽かれてさまよい、地上の神官たちに夜ごと不毛の苦しみを歎かせるのか。マウォルスとウェヌス*2が良き手本となろう。女神の力は損なわれるどころか、あらゆる人間を支配しているではないか》
 だが、ナリアは応えることなくかぶりを振った。その瞳は濃く薄くたなびく霧を凝視めていた。ヒメラが身を起こした。足を湖水に浸し、手は貝殻の壁にかけ、沈黙のままゆるやかな目配せをファルファルと交わした。ティベリス神がナリアの手を取ったとき、黄金の陽光が射し初めた。何も知らない女神の心臓を射抜いた光は、欲望の神の放った一の矢に違いなかった。女神はティベリスの腕に身を委ね、そしてヒメラはおののきながらファルファルを抱きしめた。朝のそよ風が湖上に田園のざわめきを運んできた。雌羊がふるえ声をあげ、雄牛がうなり、雄鳥が刻をつくる傍らで、雌鳥がけたたましい鳴き声を立てた。
 陽光の愛撫が湖から霧の帷を持ち上げるとともに、神々の姿もまた薄れていった。ファルファルとヒメラはすでにほとんど消えかけていた。ティベリス神の姿も朧にかすみ、ナリアは朝靄の中へ溶けていった。地平を離れた太陽が湖上をまばゆい白さに染めあげたとき、最後の霧が神々の姿を運び去っていった。
 かくて、ティベリスとナリアの結婚は成就したのであった。


訳注:

*1:アウグリスは主に鳥の飛翔を観察して、ハルスピケスは主に犠牲動物の腸を観察して未来を予知するのがつとめだったが、ここは広く卜占官の意で用いていると思われる。

*2:マウォルスはマルスの古い詩語。軍神マルスと美神ウェヌスのとりあわせは恋人同士の象徴である。

画狂老人北斎伝 Hokusaï, le vieillard fou de dessin

 古今東西の歴史や伝説に精通したシュウォッブだったが、生前に遺した文章の中で、日本の事物や人物に言及した箇所は存外少ない。そのわずかな例として真っ先に思い浮かぶのが、『架空の伝記』序文に触れられた北斎に関するエピソードだろう。
 初の本格的なシュウォッブ伝『マルセル・シュウォッブとその時代』Marcel Schwob et son temps (1927) を書いた年下の友人ピエール・シャンピオン Pierre Champion によれば、北斎デューラーやホルバインと並んでシュウォッブの愛した画家であり、シュウォッブにとって「巨匠中の巨匠」と呼ぶべき存在であったらしい( ”Marcel Schwob parmi ses livres" (1926) 、Catalogue de la bibliothèque de Marcel Schwob 所収)。実際、北斎に対するシュウォッブの畏敬の念は、件の序文中の一節からもありありと見てとれる。

 画家の北斎は、百十歳になったとき、自らの芸術の理想に到達することを望んだ。そのとき、と彼は述べる、絵筆によって描かれるすべての点とすべての線は生命あるものとなろう。生命あるものとは、個別のものだと思いたまえ。点や線以上に互いに相似たものはない。幾何学はこの公準の上に成り立っている。北斎の芸術の完成には、点と線が、互いにこのうえなく異なったものとなることが不可欠であった。かくて、伝記の目指すべき理想は、ほとんど同じ形而上学を考え出したふたりの哲学者を、限りなく異なった相の下に描き出すこととなろう。これが、もっぱら人そのものを描き出すことにこだわったオーブリーの到達し得なかった点である。彼はなすすべを知らなかったのだ。北斎が夢見た、類似から差異を生みだす変容の奇蹟を。……

 このくだりを読み返すたび、いつもふたつの思いが頭をよぎる。ひとつめは、なぜシュウォッブは、序文の中ではなく本文として、北斎の生涯を作品化してくれなかったのか、ということだ。この短い一節からだけでも、いかにもシュウォッブ好みの掌編が想像できそうではないか。ふたつめはもう少し単純に、シュウォッブはどこでどうやって、北斎に関するこのエピソードを知ったのか、という疑問である。
 後者の疑問の方が、手がかりはつかみやすそうだ。シュォッブが言及したエピソード自体は、北斎七十五歳のとき、『富嶽百景』初編の跋として自ら草したものである。そこにはこう見えている。

 己六才より物の形状を写の癖ありて半百の比より数々画図を顕すといへども七十年前画く所は実に取に足ものなし七十三才にして稍禽獣虫魚の骨格草木の出生を悟し得たり故に八十才にしては益々進み九十才にしては猶其奥意を極め一百歳にして正に神妙ならん 百有十歳にしては一点一格にして生るがごとくならん願くは長寿の君子予が言の妄ならざるを見たまふべし 画狂老人卍

 だが、シュォッブにこの原文が直接読めたはずはない。問題は、『架空の伝記』が出版された1896年6月以前に、どのようなかたちでシュォッブがこの文章に触れることができたのか、ということだ。
 そこで調べていくうちに、1883年にパリで『日本の芸術』 L'Art japonais という二巻本が出版されていたことがわかった。この書物は極東の美術や工芸を初めて体系的に紹介した里程標的作品で、著者のルイ・ゴンス Louis Gonse は、そのうちの一章を北斎の紹介にあて、略伝を記したうえで上記の跋文を訳載している。
 当時のフランスでは、浮世絵をはじめとする日本美術が一種のブームを迎えており、作品の蒐集を行う愛好家も数多く出現した。なかでも、北斎に対する評価は高かった。その人気は、『架空の伝記』が出版されたのとおなじ1896年の2月に、エドモン・ド・ゴンクール Edmond de Goncourt による本格的な評伝『北斎Hokousaï が上梓されていることからもうかがえる。
 この著作は、ゴンクールが日本人の友人、林忠正の全面的な協力を得て書き上げた詳細な伝記であり(参照、小山ブリジット『夢見た日本 エドモン・ド・ゴンクール林忠正』、2006)、江戸期の『浮世絵類考』や、明治期の『葛飾北斎伝』といった先行資料に加え、北斎自身による文章の翻訳を多く加え、新たな画人像を描き出すことを目指した意欲作であった。同書の第五一章で、ゴンクール北斎による件の跋文を、ゴンスの訳に依りつつ引いている。また当該の部分は、これに先だつ1895年12月、『ガゼット・デ・ボザール』 Gazette des Beaux-Arts 誌上にいち早く掲載されていた。
 『黄金仮面の王』中の一篇「ミレトスの女たち」を捧げた友人の手によるこれらの文章を、『架空の伝記』刊行直前のこの時期、シュウォッブは必ずや目にしたに違いない。もちろんそれよりも先んじて、直接ゴンスの著作によって北斎の跋文を知っていたということも大いにあり得る。事実、『架空の伝記』に収められたパオロ・ウッチェロ伝の結末には、どこかこの北斎の理想の裏返しと取れるところがなくもない。もっとも、これは北斎の理想と言うよりも、北斎を通じて語られたシュウォッブ自身の芸術の理想と言うべきで、類似の中の差異、差異の中の類似はシュウォッブの生涯変わらぬテーマだったから、実作の中にこの序文を髣髴とさせるものがあったところでなんら不思議はないのだが。
 仮にシュウォッブがゴンクールの評伝以前にゴンスの著作を読んでいたとしても、そこに収められた略伝だけでは、自信の北斎伝をものするためには不足だったのだろう。だからこそ、北斎については敬愛の念を抱きながらも序文の中で触れるにとどまったのではないか。これがゴンクールの詳細な評伝であれば、あるいはシュウォッブに必要な素材を提供するのに充分だったかもしれない。だがやんぬるかな、『架空の伝記』の諸作が Journal 誌上に掲載されたのはひと足早い1895年のことだった。加えて、『架空の伝記』の刊行と相前後して深刻な体調の悪化を迎えたシュウォッブは、28歳のこの年以来数度の手術を繰り返す身となり、37歳で夭折するまで、ほとんど小説作品を遺していない。
 シュウォッブの北斎伝が書かれるには、ゴンクールの労作の刊行はほんのわずか遅すぎたのである。無論、たとえその刊行があと数年早かったとしても、ただちにシュウォッブがこれを自作のために用いようとしたかどうか、実際のところは誰にもわからない。だがそれでも、もしもシュウォッブが北斎の生涯を『架空の伝記』に加えていたなら、もしもあの珠玉のパオロ・ウッチェロ伝と並んで、「北斎 画狂老人」と題された一篇が収められていたなら……そのときこの書物に、どれほど新たな魅力が加わることとなっただろうか、そう思い描いてみずにはいられないのである。
 けれども同時に、あえてシュウォッブの筆を煩わす必要はなかったのかもしれない、とも思う。なぜなら、かように想像したときすでに、読者ひとりひとりの脳裏には一篇の架空の「架空の伝記」が、シュウォッブならば必ずやこのように書いたでもあろう北斎の生涯が、幾通りもの差異を孕みつつ語られはじめているに違いないからである。

ガレー船徒刑囚の歎き La Complainte du Galérien (XVIIème siècle)

 マルセイユに着いたとき

 俺の心は魂消えた

 見たのは徒刑囚の群れ

 ふたりひと組に繋がれた

 俺は芯から魂消えた

 逃げ出す手だてはないものか

 そこへ手痛い綱打ち一閃

 否応なしに進まされた

 

 ガレー船に乗ったとき

 監視人に出会した

 怒りに満ちた面つきの

 カインにおとらぬ卑劣漢

 手には剃刀ぶらさげて

 俺の髪の毛剃るための

 もはや潮垂れるほかはない

 生きる気力も失って

 

 裏切り者の悪党が

 俺の頭を剃りあげた

 はや虫の息のこの俺は

 魂の緒も絶え入るばかり

 やつはなおもまたこう言った

 《下衆め、お前の服を脱ぎ

 王の支給の服を着ろ

 脱いだその服は俺のもの》

 

 俺がもらった服はといえば

 粗末な布で織り上げた

 真っ赤なシャツが一枚に

 それからこいつ、縁なし帽

 両の足には鎖をはめて

 罪を歎くがいいときた

 俺の耐え忍ぶ苦しみは

 地獄の亡者と変わらない 

 

 字の書き方も教わった

 ちょっと変わったやり方で

 俺がもらった羽ペンの

 長さは三十ピエもある

 インクは尽きることがない

 海の水こそがそのインク

 水掻く櫂が羽ペンで

 船漕ぐ術を教わった

 

 裁きの庭のお歴々

 俺を徒刑に追いやった

 ガレー船の甲板で

 友から遠く離されて

 足枷はめて繋がれた

 獰猛なライオンのように

 打たれ、責め苦に苛まれ

 手痛い棒が降りかかる 

 

 誰がこの歌を作ったかって?

 そいつはピエール・ド・ブラティ

 生まれ出でたる街の名は

 ケルシー地方のカオールさ

 告発されたその罪は

 われと我が身を護るため

 学生ひとり殺めたことさ

 俺は無実だ誓うとも 

 

  (原詩底本:Édouard Baratier, Documents de l'Histoire de la Provence 1971)

 

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ガレー船を漕ぐ徒刑囚たち(Documents de l'Histoire de la Provence より)

 

イタチのオジグ

  ロングフェローの長詩『ハイアワサの歌The Song of Hiawatha (1855) は、北米インディアンの伝説を下敷きにした創作叙事詩として名高い。その第一章と第三章をボードレールがかなり自由な翻訳でフランス語に移し替えているが、うち「平和のパイプ」と題された第一章には、 calumet と呼ばれる先住民のパイプが登場する。これは、赤い石に窪みを穿って火皿とし、葦の茎を吸い筒に用いた、儀礼用のパイプである。シュウォッブの「オジグの死」ではこの calumet が、神意をうかがうための祭具として、また結末にいたり神への決別を象徴する小道具として印象的に描かれている。

 ボードレールによる仏訳のみならず、英文の原著にもシュウォッブは接していたのだろう。そのことは、「オジグの死」の物語を生みだす核となったであろう短い挿話が、ボードレールの訳さなかった部分に語られていることからうかがえる。

 件の箇所は第十六章、イアグーという名の年を経た語り部が、村の若者たちに物語を語って聞かせる場面である。以下、その部分だけを試みに訳出してみよう。

 彼は語った、その物語を

 オジーグ、〈夏の賜い手〉が

 いかにして天に穴を開け

 いかにして天へ昇りつめ

 そこから夏を取って来たのか

 とこしえの夏、心地よい夏を

 いかにしてまず川獺が

 ビーバー、山猫、穴熊

 この大仕事に挑んだのかを

 あしびきの山の高みから

 拳を天に打ちつけて

 額を天に打ちつけて

 罅は入れども割ることならず

 いかにクズリが立ち上がり

 突撃に身を構えたか

 栗鼠のごとくに膝を曲げ

 蟋蟀のごとく腕を引き

 

 《跳び発つやいなや》と、イアグー老

 《跳び発つや、それ!頭の上で

 空が撓んだ、凍った河を

 嵩増す水が持ち上げるように

 また跳んだ、それ!頭の上で

 空が罅割れた、凍った河が

 滾る流れに屈するように

 また跳んだ、それ!頭の上で

 閉ざされた空は粉々に砕け

 クズリは彼方へ姿を消した

 それからオジーグ、魚獲り貂は

 ひととび跳ねて後を追った!》

 見るように、ここでのオジーグ Ojeeg は人間ではなく、fisher weasel と呼ばれるテンの一種(学名 Martes pennanti )で、イタチ科の動物である。このむしろ愛らしい動物の主人公を人間の狩人に置きかえ、その片腕となるクズリ wolvrine を狼 wolf に変えることで、シュウォッブはあの荘重な物語を生みだして見せたのだった。

 なお、本来の北米インディアンの民話では、オジーグは動物でありながら精霊でもあり、冬だけしか知らない国から、息子にせがまれて夏を求めに行くことになっている。供の動物たちを引き連れ、天に近い高山にたどりつくまでの苦難の道のりや、最後に自らの死とひきかえに世界に暖かい季節をもたらす自己犠牲の要素など、シュウォッブの作品とのより深いつながりが見てとれる。この民話は、Project Gutenberg にて公開されている、 Margaret Bemister, Thirty Indian Legends (1917) でも読むことができる。

闇塩売り Les Faux-Saulniers

シャルル・モラースに

 どういうわけで王のガレー船の櫂を漕ぐこととなったのか、それを話すのは屈辱に過ぎる。だが、十五ピエのペン*1を握って水に数書く人種は五通り、トルコ人*2か新教徒、塩の密売人に脱走兵、それに窃盗犯−−その中から最悪と思うものを選べばいい。たぶんそいつが俺だ。マルセイユガレー船も俺は知ってる。二十四艘の、太陽王の持ち船だ。あそこでなら徒刑囚も幸せというものだ。沖では陽射しは強烈で、汗も毒虫もものすごい。鎖は重くまとわりつくし、船底に溜まった水のひどい臭いが疫病の素になる。けれども港では、監視官とトルコ人に二リヤールずつ、引率役の監視兵に五リヤールの金さえ払えば、街に繰り出して馴染みの女にも会えるし、波止場で仮の店を開くことだってできる。大西洋には六艘のガレー船が配置されている。運のないことに俺はそこにいた。霧や雨には苦しめられるし、途方もない高波が来て、五人がかりで抱えた櫂をいっぺんにもぎ取っていってしまう。甲板を洗う潮が乾パンを濡らし、寒さに飢えはいや増してゆく。一日の食べ物といえば、熱い湯に少しばかりの油とインゲン豆を入れたスープ《ジャフル》が十時に出されるばかり。漕手の徒刑囚たちに注いでまわられる粗末なワインの《ピクローヌ》は少しも身体を暖めてはくれない。
 ガレー船の平たい甲板の真中をずっと、大きなベンチが走っている。そこにまたがった三人の《コミト》*3が俺たちを鞭で叩く。そいつが振りおろされるたび、一度に三人ずつの背中が打たれる。甲板の下には弾薬や糧食を貯えた六つの部屋があり、それぞれ〈ガヴォン〉、〈スカンドラ〉、〈カンパーニュ〉、〈パイヨ〉、〈タヴェルヌ〉、〈シャンブル・ダヴァン〉と呼ばれている。それからもうひとつ狭くて真っ暗な部屋があり、二ピエ四方の昇降口だけで外とつながっている。部屋の両端には《トラール》*4と呼ばれる二つの壇がある。甲板までの高さは三ピエ、壇と壇とのあいだにはバケツがひとつ置かれている。ここがガレー船の病室なのだ。病人は鎖をつけたままこのトラールに横たわる。熱の出た時は手足と頭で甲板を打つ。そこでは死にかけの病人の間を這いまわり、バケツからは絶えず顔をそむけていなくてはならない。
 緑の大西洋を赴く俺たちの仲間には塩の密売人がいた。というのも、塩はブルターニュの沿岸では高価で、ひとかけらがほとんど二エキュもするのだ。一方、ブルゴーニュではもっと安く買うことができる。だからといって他の地方で仕入れた塩をブルターニュへ持ちこむ者は、塩税法を侵すこととなる。国王が彼らを捕らえさせ、烙印を押し、俺たちと一緒に徒刑へ送り出すのだ。船に脱走兵はひとりもいなかった。連中を見分けるのは簡単だ。顔には太陽の陽射しにも乾くことのない大きな疵痕があるから。軍役から逃亡したかどで鼻と耳をそぎ落とされ、両の目の間を虫に囓られているのだ。だが、陽気な盗賊連中なら何人かいた。やつらは決して絶望したりしない。額か肩に綺麗な百合の烙印*5を押され、中には絞首台の赤い紐を首輪にしている者もいた。
 闇の塩をひさぐ男たちは俺たちよりも忍耐強く、灰色の空や黄色と緑の海には慣れていた。だが彼らが笑ったところは見たことがない。その顔にはいつもやるかたない憤懣が浮かんでいた。マルセイユで一緒だった連中も、徒刑囚相手の女たちがいる港の白い家へ、監視兵に連れられて繰り出すことなど絶えてなかった。それは、塩の山のあいだで暮らしていた頃連れ添った身持ちの堅い娘たちに、この苦難の時にもつねに信を尽くしているからだという噂だった。
 一七〇四年、謝肉祭の火曜日の夜、俺たちのガレー船〈壮麗〉号は、ゴール人たちの土地の岸辺を横に見ながら停泊していた。船長のダンティニー氏が、士官たちとともに、三人の《コミト》たちを夕食に招いていた。おかげで俺たちは甲板の上で好きなように横になり、赤い上衣と粗布のシャツの下の膚を掻いたり、縁なし帽を脱いで刈りこんだ頭を船縁の手すりにこすりつけることのできる幸せを味わった。普段の夜には、身動きひとつせずに痒みをこらえなければない。鎖の鳴る音で士官たちの目を覚まさせようものなら、哀れな仲間たちに鞭の雨が降り注ぐことは必定だからだ。
 四人の闇塩売りたちが、トラールのある部屋に横たえられていた。無惨にも縛り上げられた身体から血が滴っていた。昼間、彼らは船の青銅の大砲〈クルシエ〉*6に裸で俯せにされ、結び目を結った綱の鞭打ちを受けたのだ。彼らのうめき声が甲板を通して聞こえていた。
 うとうととまどろみかけたとき、俺と鎖で繋がれた〈ヴォーグ・アヴァン〉*7が肩に手を触れた。俺たちはめいめい一人のトルコ人に繋がれている。それを〈ヴォーグ・アヴァン〉と呼ぶのは、櫂のいちばん端を受け持つトルコ人は、俺たちよりもずっとその扱いに精通していて、国王がガレー船漕ぎの名手として奴隷に買い入れるほどだからだ。《見てみろ》と〈ヴォーグ・アヴァン〉は言った。《海に火船が出てるぜ》
 霧はわずかだったが、海岸線は見えなかった。ただ一筋の光る泡の連なりがずっと、ところどころ白い炎がはぜるように、黄色や緑の光を放っていた。
 地中海での戦闘で、火船にはお馴染みだった。ヴィラ=フランカやサン=トスビチオ、オネグリアから出帆したサヴォワ公の快速船が、交戦相手のこちらに向けて、夜間、潮の流れのまにまに火船を送り出してくるのだ。そいつを俺たちは〈クルシエ〉の三十六リーヴルの砲弾で沈めてやったものだった。
 だが、ここ大西洋ではお目にかかったことがなかった。俺の知っている火船なら、紅くて動いているはずだ。それなのにいま眼の前にした白い火はじっと動かず、時おり黄色く煌めいている。海は静かにゆったりとうねっていた。舳先では水先案内人が舷灯のそばで夜番についていた。二本の帆柱に懸け渡されて甲板を覆う天蓋の真中に、ひとつだけ吊られたオイルランプが揺れていた。すべてが静寂に包まれたこの夜に、遭難信号ということもありえなかった。
 俺は〈ヴォーグ・アヴァン〉のそばまで身を転ばし、互いの手で鎖を持ち上げた。耳をすますと、小舟が竜骨に当たって揺れる気配がした。俺たちは陸に面した右舷の側へ這い進んだ。船縁の手すり越しに頭を覗かせたとき、そこに見たのは、カイクと呼ばれる大きめの短艇*8が、ガレー船から離れようとする光景だった。白いシャツと赤いマスクに身を包んだ人影が、舟いっぱいにうずくまっていた。そのうちのひとりが長い櫂を操って、カイクをゆっくりと船底から押し出すところだった。《ああ!》俺は思った。《この監視のない夜に乗じて、闇塩売りたちが逃げ出したぞ!》だが〈ヴォーグ・アヴァン〉が俺を左舷の方へ引っ張っていった。指に鎖を握りしめながら、眠る男たちのあいだを俺たちはゆっくりと進んだ。左舷には小さい方の短艇があった。間もなく俺たちはそれに乗りこんでいた。かすかな物音ひとつなかった。〈ヴォーグ・アヴァン〉は沈黙の国の民だった。舷灯の光を避けつつ船尾を廻ると、カイクの曳く澪を追って、静かに揺られながら俺たちは短艇を漕ぎ進めた。
 密やかに櫂を漕ぐ手もとを誤らないか、今にも呼び止める声が響くのではないかという怖れに、俺たちは闇に震えた。だがやがて、光る岸辺と水沫の砕ける黒い砂浜がはっきりと見えてきた。白い炎もまた見えたが、それは本当の火の色ではなく、その後ろの大きな真白い塊が、燃える炎をそのように見せていたのだった。黄色い煌めきが踊るとき、炎のはぜる独特の音が聞こえた。
 カイクの男たちの赤いマスクは、普段の上衣に穴を開け、頭を包みこんだものだった。海岸から一鏈*9ほどの距離まで近づいた俺たちは、白い塊が塩の山であったと気づいた。十トワズ*10ほどの間隔をおいて奥へと連なる塩の山ひとつひとつの手前で炎が燃えていた。そして炎の傍らに、国王の塩を抛つ女たちの姿が映った。
 カイクが岸に着いたとき、俺たちはまだ磯波に揺られていた。赤いマスクを被った闇塩売りたちは砂浜へ跳び移り、めいめい自分の忠実な恋人を間違うことなく見つけ出すと、やにわに抱きあった。そして一瞬の後、彼らの姿は夜の向こう側へと消えていった。
 ところが俺たちはといえば、この打ち棄てられた見知らぬ岸辺、真白い塩の塊と音を立てて燃える火を見るや、胸を締め上げる恐怖の虜となったのだった。《おお!》と叫びを洩らした〈ヴォーグ・アヴァン〉は、岸に向かおうとは露望まずに、短艇の奥へ跳びすさった。
 躊躇ううちに、轟音とともに炎が噴きあがった。〈クルシエ〉の警砲だった。ガレー船の上で、歌うような呻き声が長く尾を引いた。上級将校の訪船で再点呼に応える時のようなその声は、仲間たちの歎きの悲歌だった。
 取り乱した俺たちは、櫂を握るとふたたび沖へと漕ぎ出した。
 短艇は水を切って走った。ガレー船の船底にぶつかるときの衝撃に身は揺らいだ。俺たちは開いていた舷窓から中へ滑りこんだ。甲板では、徒刑囚すべての足音が騒々しく鳴り響いていた。俺たちは頭を低くして仲間たちに紛れこんだ。トラールの部屋の昇降口から、鎖につながれ血を流しながら、友に見棄てられた絶望に身をよじる闇塩売りたちの蒼白い顔が四つ見えた。船の配属司祭がいつもミサを行い聖体のパンを配る〈バンカス〉台*11の上では、足下もおぼつかない様子の船長が、舵手から舷灯を取りあげ、鎖に繋がれた俺たちを二人一組に並ばせると、脱走したのは誰なのかを調べ始めた。

*1:1ピエは約32cm。「十五ピエのペン」とは、ガレー船の櫂を指す。この譬喩は17世紀の歌謡「ガレー船徒刑囚の歎き」 La Complainte du Galérien https://suigetsuan.hatenadiary.org/entry/2008/12/11/105105 に見られる。なお、シュウォッブが参照したと覚しいジャン・マルテーユ『ガレー船徒刑囚の回想』 Jean Marteilhe, Mémories d'un protestant condamné aux galères de France pour cause de réligion (1757) によれば、櫂の長さは50ピエとあるべきところ。

*2:オスマン帝国をはじめとするイスラム教国出身の奴隷がこの名で総称された。

*3:250名からなるガレー船の漕ぎ手を指揮し、櫂を同時に漕がせる役目の指揮官。

*4:囚人、あばら屋の住人の意。

*5:百合の花はフランス王家の紋章。犯罪者にはこの紋章の焼印が押された。

*6:ガレー船が船首に備える五門の大砲のうち、中央の最大のもの。砲弾は36リーヴル(18kg)の重さがある。普段は船の中央通路 coursier に格納されていることからこの名がある。

*7:「漕ぎ方進め」の意。

*8:ガレー船には大小二隻の短艇が備えられ、物資の運搬や将校の利用に供された。うち大きめのものはカイク、小さめのものはカノーと呼ばれた。

*9:1鏈は約185m。

*10:1トワズは約1.95m。

*11:ガレー船上で、腰掛け、寝台、長持などの様々な用途に供された箱形の台。